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第3章 『水とともに生きる:前編』
第18話 本当は
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まだ日は沈み切っていない時間帯にもかかわらず、八幡堀は怖いくらいに静かだった。
水の流れる音、木々の擦れる音、風の吹き抜ける音―ーそれ以外に、いつもは賑やかな人々の声も聞こえない。
クリスさんと出掛けるのは好き。だけど、今日は少し気が乗らない。
クリスさんの発した『保護』という言葉が、今になって不吉な予感をさせるからだろう。
何か良くないことが――あまり起こって欲しくはないようなことが起こりそうな、そんな予感が。
「着きました。例の橋ですね」
クリスさんが足を止める。
私も、隣で歩くジブリールさんと共に足を止めた。
橋には変わった様子はない。件の幽霊の正体がこの子であることから、橋の上にそれらしい人影も見当たらない。
「さて。話にあった赤子の泣き声――その正体を、ジブリールさんに紹介して頂きましょうか」
「し、紹介……?」
思わず聞き返す私の横から、ジブリールさんは橋の方へと歩いて行った。
彼女が橋に近付くにつれ、私もそこにあった『ある物』に気が付く。
「箱……段ボール?」
一歩踏み出しつつそれに目を向ける私の横で、クリスさんが頷いた。
「お堀ではいつも、舟が行き来しています。が、連日の大雨により、気付く方がいなかったのでしょう」
クリスさんは少し弱い口調で続ける。
「赤子の声が聞こえ始めたのはここ数日のこと。この数日の雨の間に、『あの子』はあの場へと逃がされた。いえ、ここははっきりと『捨てられた』と言いましょう」
「捨てられた……それって――」
「時にその鳴き声は、人間の赤子のように聞こえることもあると言います。住宅街の狭間で『夜な夜な赤子の泣き声がする』と苦情が出た為に調査をしたところ、発見されたのはそれであったという話もままあります。周囲を取り囲むように聞こえるのは、橋の下からの泣き声により、右からも左からも音が漏れてしまうから。夜によく聞こえるというのも、日中だと流石に人々の喧噪には負けてしまいますから。加えて、榎さんが言っていた通り、ジブリールさんの右手には細く小さな切り傷があります。きっと、あの子に付けられたものなのでしょう」
「でも、そんな……」
「よくよく聞けば、その正体にも気付けそうなもの。しかし、繰り返しにはなりますが、ここ数日は雨が降っていました。雨音の中に響く程の声音には、人間の耳はそれほど優秀な働きをいたしません。よって――」
クリスさんの言葉に合わせるように、ジブリールさんがその子を抱き抱えて現れた。
そう――
「『子猫』の存在が、誰の目にも留まらぬまま、聞こえたその声だけで『赤子の幽霊』だという噂が立った。真実は、こういうことだったのです」
「すて、ねこ……」
起こって欲しくないこと――それが、起こってしまった。
まさか、幽霊騒動の正体が『捨て猫』だったなんて。
「うにゃん……」
小さな腕の中で、小さな猫が弱った声を上げる。
段ボールの中に入っていたということは、人為的な問題と見てまず間違いはない。野良猫が、普段は人通りの多いこんなところを、偶然住処にするというのも考えにくい。
人に捨てられた動物は、その体験から人を嫌う、あるいは極端に怖がることもあると聞いたことがある。けれどこの子は――目はどことなく虚ろ。今まで見たことのない私やクリスさんを前にしても、威嚇することも逃げることも出来ない程に、弱ってしまっているんだ。
「かわいそう……」
「望まれない出産だったのか、どこかから紛れ込み懐いたのか、理由は分かりかねますが、どのような事情があるにしても、しかるべき対応をせずただ野に放つという行為はいただけませんね」
クリスさんは、聊か怒りの色も見える声で言った。
「ジブリールさん……あなた、まさかこの子に会いに来てたの……?」
少し迷った後で、ジブリールさんは頷いた。
そうか。あの時に見た、虚ろな目――この子はあの橋の上で、郷愁ではなくこの子に思いを馳せていたんだ。
ここ数日続いた大雨の中、榎さんも言っていたように、一日だけ晴れ間があった。
その日、これまでと同じように外へ出て来た時に、おそらくジブリールさんはこの猫に出会ったのだろう。
しかし、マンションかアパート、一軒家であっても勝手に連れて行くのはどうかと思い留まり、この子はここに置いておくしかなかった。
それでも、いや、だからこそ気になり、こうして今日も猫の様子を見に来ていたんだ。
右手の引っ掻き傷は、この子猫によってつけられたもの。様子を見る為、何度か接触もしていたのだろう。
「すごくつかれる顔して、ここにねてた……よわい見えたでも、家につれてかえる、だめから……だれかひろったらうれしいけど、だれもこの子には気付かない」
「そっか……」
話しながら、ジブリールさんは抱き抱えている子猫の背中を優しく撫でていた。
最初は拒絶され、傷を負いながらも、どうしてもそのままにしておくことが出来ずに構っていた結果、こうして心を許してるんだ。
ともすれば弱っているだけのようにも思えるけれど、適切な処置が行われて元気になった後でも、きっとジブリールさんに爪を立てることはないだろうと思う。
……そんな様子を見ていると、どうにもこのままでは駄目だという気がして、
「う、うちで預ってみる…!」
私はそんなことを口走っていた。
二人の視線が集まる。
うちのマンションでは、ペットを飼うことに関して厳密には触れられていない。けれど、暗黙の了解とでも言おうか、集合住宅とあって動物を飼っている人はいない。
それに、母の問題もある。
特別アレルギーを持っているという話は聞いたことないけれど、責任には、とりわけ生き物に関することには厳しい。と言うより真面目だ。無責任に『捨て猫を拾って来たんだ』では許してもらえないことだろう。
うちでずっと飼い続けることは元より出来ない。
それでもせめて、里親が見つかるまでは――
「な、何とかお母さんも説得して、里親が見つかるまでの費用は私が責任を持って……いつ見つかるかは分かんないけど、何とかしてみせるから…!」
「おねえさん……」
この子に関する責任を一身に担う。
言うのは簡単だけれど、せめてその姿勢だけでも正しく見せることが出来れば、お母さんもきっと、期限付きなら許してくれる……と、思う……多分。
「万が一バレた時には如何いたしますか?」
「ば、バレないように頑張ります…!」
「あれだけの大通りにあって周囲に聞こえる程の泣き声ですよ?」
「ど、どうにか――」
「出来ますか?」
クリスさんの目は、口調は、真剣そのものだ。
私が先ほど、クリスさんの声に怒りの色を感じた通り、彼女もそういうことに関しては厳しいんだろう。
私がまた捨てる、或いは見捨てるという風には思われていないにしても、具体的な策もなく引き取るということは、遠くない未来で、形は違うにしても同様の事態がおとずれることが否定出来ない理由そのものだ。
「で、き……」
言葉に詰まってしまうのがいい答えだ。
一人暮らしであったならまだしも、母と二人で、それも集合住宅に住んでいる私がその責任を果たせる筈はない。
私は、ついには言葉を切って黙ってしまった。
「ジブリールさん……ごめん」
「う、ううん、だいじょぶ、おねえさん仕方ないおもう……」
誰よりその歯痒さを知っているジブリールさんが言うからこそ、私は自分がますます不甲斐なく思えてしまう。
「ごめんなさい、クリスさん……私には無責任なことは言えませ――」
「分かったなら、早いところうちへまいりましょうか」
「…………へ?」
クリスさんの言い方があまりにサラリとしたものだったから、つい素っ頓狂な声がこぼれてしまった。
「う、うちって、淡海にですか?」
「ええ。他にどこが?」
「どこって……だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないですか? 実は以前、知り合いの猫さんを預かったことがありまして。数日程だけでしたが、今回も里親を見つけるまでの間くらいなら、まぁ何とかなるでしょう」
「な、何とかって……」
口調は軽いけれど、どうも無責任に言っている訳ではなさそう。
ジブリールさんの腕から持ち上げながら浮かべる柔らかい表情も、偽物ではないと思う。
「実は夢だったんですよね、猫さんとの生活。昔、唯一読んだ漫画で、ヴェネツィアを舞台としたものがあったのですけれど、それでは猫さんを社長としている描写がありまして。昔から、密かな憧れだったんですよ」
クリスさんは嬉々として語る。
嘘や冗談の類ではない。
「クリス、ほんと?」
「ええ。うちは居住スペースとお店のスペースとが階違いですから、その境界で抜け毛などの処理、そして着替え等しっかりとしていれば、そう問題になることもないでしょう」
「そ、それじゃあ……」
「まずは動物病院へ連れて行かなければなりませんね。雨風に晒されていた分、風邪をひいている可能性がありますから。野晒しにされていたこともありますし、ダニやノミの駆除も依頼した方が良いですね。かわいそうな話ではありますが、必要時は不妊治療も。知り合いに獣医の者がおりますので、すぐにでも手配してもらいましょう」
一息に言って、
「ただ――」
クリスさんは言葉を切ると、猫を抱いたまま姿勢を低くして、ジブリールさんと目線を合わせて続けた。
「一つだけ。ジブリールさん、あなたがお堀を見つめていた、『本当の理由』を話してくれれば、ですが」
クリスさんの言葉に、ジブリールさんはハッとした様子で俯いた。
少し遅れて、私もその言葉の意味に気が付いた。
珈琲豆工房の信楽さんは、確か『ここ数日』と言っていた。
ここ数日と言えば、連日の大雨が続いていた。その頃から赤子の声は聞こえ始めたという話。
しかし、お堀を見つめる少女の目撃情報に関しては、母が言うには『昨年度中にはなかった話』とのことだった。
それは言い換えれば、今年度、つまりは四月頃から見られ始めたということ。
赤子の泣き声に関する噂が立つより、ずっと以前だ。
ジブリールさんは、その頃から頻繁にお堀を訪れていて、子猫との出会いはただの偶然であったということ。
母の話では、以前よりその少女は、無気力にお堀を見つめていたという。丁度、私がこの子を見かけた時のように。
「怖がらせている訳ではありません。お力になりたいだけです。教えて、いただけますか?」
クリスさんは、いつよりも柔らかく問いかける。
口を閉ざしたままのジブリールさんだったけれど、クリスさんの表情を何度か窺った後で、やがて訥々と語り出した。
「ほんとうのはなし、言います。じつは――」
水の流れる音、木々の擦れる音、風の吹き抜ける音―ーそれ以外に、いつもは賑やかな人々の声も聞こえない。
クリスさんと出掛けるのは好き。だけど、今日は少し気が乗らない。
クリスさんの発した『保護』という言葉が、今になって不吉な予感をさせるからだろう。
何か良くないことが――あまり起こって欲しくはないようなことが起こりそうな、そんな予感が。
「着きました。例の橋ですね」
クリスさんが足を止める。
私も、隣で歩くジブリールさんと共に足を止めた。
橋には変わった様子はない。件の幽霊の正体がこの子であることから、橋の上にそれらしい人影も見当たらない。
「さて。話にあった赤子の泣き声――その正体を、ジブリールさんに紹介して頂きましょうか」
「し、紹介……?」
思わず聞き返す私の横から、ジブリールさんは橋の方へと歩いて行った。
彼女が橋に近付くにつれ、私もそこにあった『ある物』に気が付く。
「箱……段ボール?」
一歩踏み出しつつそれに目を向ける私の横で、クリスさんが頷いた。
「お堀ではいつも、舟が行き来しています。が、連日の大雨により、気付く方がいなかったのでしょう」
クリスさんは少し弱い口調で続ける。
「赤子の声が聞こえ始めたのはここ数日のこと。この数日の雨の間に、『あの子』はあの場へと逃がされた。いえ、ここははっきりと『捨てられた』と言いましょう」
「捨てられた……それって――」
「時にその鳴き声は、人間の赤子のように聞こえることもあると言います。住宅街の狭間で『夜な夜な赤子の泣き声がする』と苦情が出た為に調査をしたところ、発見されたのはそれであったという話もままあります。周囲を取り囲むように聞こえるのは、橋の下からの泣き声により、右からも左からも音が漏れてしまうから。夜によく聞こえるというのも、日中だと流石に人々の喧噪には負けてしまいますから。加えて、榎さんが言っていた通り、ジブリールさんの右手には細く小さな切り傷があります。きっと、あの子に付けられたものなのでしょう」
「でも、そんな……」
「よくよく聞けば、その正体にも気付けそうなもの。しかし、繰り返しにはなりますが、ここ数日は雨が降っていました。雨音の中に響く程の声音には、人間の耳はそれほど優秀な働きをいたしません。よって――」
クリスさんの言葉に合わせるように、ジブリールさんがその子を抱き抱えて現れた。
そう――
「『子猫』の存在が、誰の目にも留まらぬまま、聞こえたその声だけで『赤子の幽霊』だという噂が立った。真実は、こういうことだったのです」
「すて、ねこ……」
起こって欲しくないこと――それが、起こってしまった。
まさか、幽霊騒動の正体が『捨て猫』だったなんて。
「うにゃん……」
小さな腕の中で、小さな猫が弱った声を上げる。
段ボールの中に入っていたということは、人為的な問題と見てまず間違いはない。野良猫が、普段は人通りの多いこんなところを、偶然住処にするというのも考えにくい。
人に捨てられた動物は、その体験から人を嫌う、あるいは極端に怖がることもあると聞いたことがある。けれどこの子は――目はどことなく虚ろ。今まで見たことのない私やクリスさんを前にしても、威嚇することも逃げることも出来ない程に、弱ってしまっているんだ。
「かわいそう……」
「望まれない出産だったのか、どこかから紛れ込み懐いたのか、理由は分かりかねますが、どのような事情があるにしても、しかるべき対応をせずただ野に放つという行為はいただけませんね」
クリスさんは、聊か怒りの色も見える声で言った。
「ジブリールさん……あなた、まさかこの子に会いに来てたの……?」
少し迷った後で、ジブリールさんは頷いた。
そうか。あの時に見た、虚ろな目――この子はあの橋の上で、郷愁ではなくこの子に思いを馳せていたんだ。
ここ数日続いた大雨の中、榎さんも言っていたように、一日だけ晴れ間があった。
その日、これまでと同じように外へ出て来た時に、おそらくジブリールさんはこの猫に出会ったのだろう。
しかし、マンションかアパート、一軒家であっても勝手に連れて行くのはどうかと思い留まり、この子はここに置いておくしかなかった。
それでも、いや、だからこそ気になり、こうして今日も猫の様子を見に来ていたんだ。
右手の引っ掻き傷は、この子猫によってつけられたもの。様子を見る為、何度か接触もしていたのだろう。
「すごくつかれる顔して、ここにねてた……よわい見えたでも、家につれてかえる、だめから……だれかひろったらうれしいけど、だれもこの子には気付かない」
「そっか……」
話しながら、ジブリールさんは抱き抱えている子猫の背中を優しく撫でていた。
最初は拒絶され、傷を負いながらも、どうしてもそのままにしておくことが出来ずに構っていた結果、こうして心を許してるんだ。
ともすれば弱っているだけのようにも思えるけれど、適切な処置が行われて元気になった後でも、きっとジブリールさんに爪を立てることはないだろうと思う。
……そんな様子を見ていると、どうにもこのままでは駄目だという気がして、
「う、うちで預ってみる…!」
私はそんなことを口走っていた。
二人の視線が集まる。
うちのマンションでは、ペットを飼うことに関して厳密には触れられていない。けれど、暗黙の了解とでも言おうか、集合住宅とあって動物を飼っている人はいない。
それに、母の問題もある。
特別アレルギーを持っているという話は聞いたことないけれど、責任には、とりわけ生き物に関することには厳しい。と言うより真面目だ。無責任に『捨て猫を拾って来たんだ』では許してもらえないことだろう。
うちでずっと飼い続けることは元より出来ない。
それでもせめて、里親が見つかるまでは――
「な、何とかお母さんも説得して、里親が見つかるまでの費用は私が責任を持って……いつ見つかるかは分かんないけど、何とかしてみせるから…!」
「おねえさん……」
この子に関する責任を一身に担う。
言うのは簡単だけれど、せめてその姿勢だけでも正しく見せることが出来れば、お母さんもきっと、期限付きなら許してくれる……と、思う……多分。
「万が一バレた時には如何いたしますか?」
「ば、バレないように頑張ります…!」
「あれだけの大通りにあって周囲に聞こえる程の泣き声ですよ?」
「ど、どうにか――」
「出来ますか?」
クリスさんの目は、口調は、真剣そのものだ。
私が先ほど、クリスさんの声に怒りの色を感じた通り、彼女もそういうことに関しては厳しいんだろう。
私がまた捨てる、或いは見捨てるという風には思われていないにしても、具体的な策もなく引き取るということは、遠くない未来で、形は違うにしても同様の事態がおとずれることが否定出来ない理由そのものだ。
「で、き……」
言葉に詰まってしまうのがいい答えだ。
一人暮らしであったならまだしも、母と二人で、それも集合住宅に住んでいる私がその責任を果たせる筈はない。
私は、ついには言葉を切って黙ってしまった。
「ジブリールさん……ごめん」
「う、ううん、だいじょぶ、おねえさん仕方ないおもう……」
誰よりその歯痒さを知っているジブリールさんが言うからこそ、私は自分がますます不甲斐なく思えてしまう。
「ごめんなさい、クリスさん……私には無責任なことは言えませ――」
「分かったなら、早いところうちへまいりましょうか」
「…………へ?」
クリスさんの言い方があまりにサラリとしたものだったから、つい素っ頓狂な声がこぼれてしまった。
「う、うちって、淡海にですか?」
「ええ。他にどこが?」
「どこって……だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないですか? 実は以前、知り合いの猫さんを預かったことがありまして。数日程だけでしたが、今回も里親を見つけるまでの間くらいなら、まぁ何とかなるでしょう」
「な、何とかって……」
口調は軽いけれど、どうも無責任に言っている訳ではなさそう。
ジブリールさんの腕から持ち上げながら浮かべる柔らかい表情も、偽物ではないと思う。
「実は夢だったんですよね、猫さんとの生活。昔、唯一読んだ漫画で、ヴェネツィアを舞台としたものがあったのですけれど、それでは猫さんを社長としている描写がありまして。昔から、密かな憧れだったんですよ」
クリスさんは嬉々として語る。
嘘や冗談の類ではない。
「クリス、ほんと?」
「ええ。うちは居住スペースとお店のスペースとが階違いですから、その境界で抜け毛などの処理、そして着替え等しっかりとしていれば、そう問題になることもないでしょう」
「そ、それじゃあ……」
「まずは動物病院へ連れて行かなければなりませんね。雨風に晒されていた分、風邪をひいている可能性がありますから。野晒しにされていたこともありますし、ダニやノミの駆除も依頼した方が良いですね。かわいそうな話ではありますが、必要時は不妊治療も。知り合いに獣医の者がおりますので、すぐにでも手配してもらいましょう」
一息に言って、
「ただ――」
クリスさんは言葉を切ると、猫を抱いたまま姿勢を低くして、ジブリールさんと目線を合わせて続けた。
「一つだけ。ジブリールさん、あなたがお堀を見つめていた、『本当の理由』を話してくれれば、ですが」
クリスさんの言葉に、ジブリールさんはハッとした様子で俯いた。
少し遅れて、私もその言葉の意味に気が付いた。
珈琲豆工房の信楽さんは、確か『ここ数日』と言っていた。
ここ数日と言えば、連日の大雨が続いていた。その頃から赤子の声は聞こえ始めたという話。
しかし、お堀を見つめる少女の目撃情報に関しては、母が言うには『昨年度中にはなかった話』とのことだった。
それは言い換えれば、今年度、つまりは四月頃から見られ始めたということ。
赤子の泣き声に関する噂が立つより、ずっと以前だ。
ジブリールさんは、その頃から頻繁にお堀を訪れていて、子猫との出会いはただの偶然であったということ。
母の話では、以前よりその少女は、無気力にお堀を見つめていたという。丁度、私がこの子を見かけた時のように。
「怖がらせている訳ではありません。お力になりたいだけです。教えて、いただけますか?」
クリスさんは、いつよりも柔らかく問いかける。
口を閉ざしたままのジブリールさんだったけれど、クリスさんの表情を何度か窺った後で、やがて訥々と語り出した。
「ほんとうのはなし、言います。じつは――」
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