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ととのう距離、さぐる心(1)
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早番を終えた香月碧生は、タオルを肩にかけながら浴場を歩いていた。
今日は珍しく、そのまま汗を流して帰るつもりで、さっぱり体を洗ったあと、
「せっかくだし……ちょっとだけ」と思って、誰もいないサウナの扉をそっと開けた。
「失礼しまーす……」
湯気がこもった空間に入った瞬間、目が合った。
「――あっ」
「……!」
木の段の真ん中で、ひとり静かに座っていた男。
サウナハットを深めにかぶり、濡れたタオルを膝にのせたその人――
……その横顔を、碧生は知っていた。
帽子とサングラス姿で番台に来る“常連さん”。
名前も知らない、でも何度も顔を合わせてきたあの人。
目があった瞬間、二人とも一瞬で固まる。
「えっ……あの、すみません! 間違えました、出ます!」
「ち、ちょっ、待って!」
慌ててくるりと背を向けた碧生の腕を、タオル越しに蓮華が引きとめた。
ごく自然な動作だったが、互いに全裸なのを思い出した瞬間、再び顔が真っ赤に染まる。
「……いや、あの、別に俺……悪いことしてるわけちゃうから……」
「え、えっと……あ、はい、そうですよね……!」
ふたりとも視線を合わせられず、タオルをぎゅっと握りしめたまま、まるで中学生みたいに挙動不審になる。
しばしの沈黙――湯気の音だけがこもって響くなか、蓮華がぽつりと口を開いた。
「……実は、ずっとここ、通ってて。変装してるの、バレたくなかってん。
でも……今日みたいに偶然鉢合わせたら、もう隠せへんなって」
「……え」
碧生は、ようやく目線を蓮華のほうへと向けた。
サウナハットの下、ほんのり頬を赤らめた青年――
やけに透明感のある肌と、少しだけ濡れた睫毛。
すでに汗ばむ額をタオルで拭っていたのは、間違いなく――
『デッド・ブーケ』の中辻蓮華。ファンの間では“れんれん”としても知られる、あの人だった。
(……この人、もしかして……)
「あの……ってことは、もしかして……れんれん……さん?」
蓮華は、ぎゅっとタオルの端を握りしめて、ひとつだけ頷いた。
「……そ。黙っといてな?」
碧生の胸が、ぎゅっと詰まる。
正体を明かした蓮華の声はいつもよりずっと素直で、視線をそらしながら赤面している姿は、いつも見ていたステージ上とはまるで別人のように、どこか――愛おしかった。
「……はい。もちろん。俺、誰にも言わないので」
そう言って微笑んだ碧生の顔を、蓮華はチラと見て、また目を逸らす。
「……ったく、なんでこんなとこで……ばったり会うかな……」
その呟きに、ふたりは思わず笑ってしまった。
サウナの中、くすぶるような熱気と、ふたりの赤い頬が、そっと溶けていく。
---
湯から上がったあと、二人は湯上がり処のベンチに並んで腰を下ろした。
片手には瓶牛乳。お互いに顔を見合わせて――
「せーの」
カシャン、と金属キャップが外れる音が重なり、
続けてごくごくと喉を鳴らす音が響いた。
「ぷはーっ……最高やな」
「ですね……湯上がり牛乳、間違いないっす」
ふたりの笑いが、ふわっと温かな空気を生む。
先ほどまでのサウナでの気まずさも、少しずつほぐれていくようだった。
しばらくの沈黙のあと。
碧生が牛乳のラベルを指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「まさか……れんれんがここの常連だっただなんて。
お名前は知ってたけど……変装してても、やっぱオーラはありましたね」
「そら……せやろな」
蓮華は肩をすくめて笑った。
「元は、誰にも気づかれんようにって帽子とサングラスで通っとってん。
ファンに囲まれても温泉どころやないし……この場所は俺の“逃げ場”みたいなもんやったから」
「……だから、変装してたんですね」
「せや。けど……あのサウナで鉢合わせたとき、香月くんが無理に詮索してこんかったやろ?
あれ、ちょっと、嬉しかってん」
そう言いながら、蓮華はふと横目で碧生の横顔を見た。
優しく、真面目で、温かい――そんな人柄が、その笑みににじんでいた。
「……だからさ。これからは、もう隠さんでええかなって思った。
香月くんなら、俺のこと……ちゃんと見てくれそうやし」
「……!」
名前を呼ばれて、碧生の心臓が跳ねた。
思わず、牛乳の瓶を両手で持ち直しながら、碧生は小さな声で言った。
「……あの。よかったら、“碧生”って、呼んでください」
蓮華は一瞬だけ驚いた顔をして、それから、いたずらっぽく微笑んだ。
「……ほな、碧生くんやな。
ええ名前。……似合っとるよ」
(……ずるいな、この人)
「じゃあ……蓮華さん。また来てくださいね。
そのときも、牛乳……一緒に飲めたら嬉しいです」
「ふふ、楽しみにしとくわ」
瓶の底を見つめながら、蓮華は小さく息を吐いた。
それは、安心と照れが混じったような、柔らかなため息。
この場所が、“誰にも見つからない秘密の場所”だった時間から、“誰かと過ごしたくなる大切な場所”へ――
ほんの少しだけ、意味が変わった瞬間だった。
今日は珍しく、そのまま汗を流して帰るつもりで、さっぱり体を洗ったあと、
「せっかくだし……ちょっとだけ」と思って、誰もいないサウナの扉をそっと開けた。
「失礼しまーす……」
湯気がこもった空間に入った瞬間、目が合った。
「――あっ」
「……!」
木の段の真ん中で、ひとり静かに座っていた男。
サウナハットを深めにかぶり、濡れたタオルを膝にのせたその人――
……その横顔を、碧生は知っていた。
帽子とサングラス姿で番台に来る“常連さん”。
名前も知らない、でも何度も顔を合わせてきたあの人。
目があった瞬間、二人とも一瞬で固まる。
「えっ……あの、すみません! 間違えました、出ます!」
「ち、ちょっ、待って!」
慌ててくるりと背を向けた碧生の腕を、タオル越しに蓮華が引きとめた。
ごく自然な動作だったが、互いに全裸なのを思い出した瞬間、再び顔が真っ赤に染まる。
「……いや、あの、別に俺……悪いことしてるわけちゃうから……」
「え、えっと……あ、はい、そうですよね……!」
ふたりとも視線を合わせられず、タオルをぎゅっと握りしめたまま、まるで中学生みたいに挙動不審になる。
しばしの沈黙――湯気の音だけがこもって響くなか、蓮華がぽつりと口を開いた。
「……実は、ずっとここ、通ってて。変装してるの、バレたくなかってん。
でも……今日みたいに偶然鉢合わせたら、もう隠せへんなって」
「……え」
碧生は、ようやく目線を蓮華のほうへと向けた。
サウナハットの下、ほんのり頬を赤らめた青年――
やけに透明感のある肌と、少しだけ濡れた睫毛。
すでに汗ばむ額をタオルで拭っていたのは、間違いなく――
『デッド・ブーケ』の中辻蓮華。ファンの間では“れんれん”としても知られる、あの人だった。
(……この人、もしかして……)
「あの……ってことは、もしかして……れんれん……さん?」
蓮華は、ぎゅっとタオルの端を握りしめて、ひとつだけ頷いた。
「……そ。黙っといてな?」
碧生の胸が、ぎゅっと詰まる。
正体を明かした蓮華の声はいつもよりずっと素直で、視線をそらしながら赤面している姿は、いつも見ていたステージ上とはまるで別人のように、どこか――愛おしかった。
「……はい。もちろん。俺、誰にも言わないので」
そう言って微笑んだ碧生の顔を、蓮華はチラと見て、また目を逸らす。
「……ったく、なんでこんなとこで……ばったり会うかな……」
その呟きに、ふたりは思わず笑ってしまった。
サウナの中、くすぶるような熱気と、ふたりの赤い頬が、そっと溶けていく。
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湯から上がったあと、二人は湯上がり処のベンチに並んで腰を下ろした。
片手には瓶牛乳。お互いに顔を見合わせて――
「せーの」
カシャン、と金属キャップが外れる音が重なり、
続けてごくごくと喉を鳴らす音が響いた。
「ぷはーっ……最高やな」
「ですね……湯上がり牛乳、間違いないっす」
ふたりの笑いが、ふわっと温かな空気を生む。
先ほどまでのサウナでの気まずさも、少しずつほぐれていくようだった。
しばらくの沈黙のあと。
碧生が牛乳のラベルを指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「まさか……れんれんがここの常連だっただなんて。
お名前は知ってたけど……変装してても、やっぱオーラはありましたね」
「そら……せやろな」
蓮華は肩をすくめて笑った。
「元は、誰にも気づかれんようにって帽子とサングラスで通っとってん。
ファンに囲まれても温泉どころやないし……この場所は俺の“逃げ場”みたいなもんやったから」
「……だから、変装してたんですね」
「せや。けど……あのサウナで鉢合わせたとき、香月くんが無理に詮索してこんかったやろ?
あれ、ちょっと、嬉しかってん」
そう言いながら、蓮華はふと横目で碧生の横顔を見た。
優しく、真面目で、温かい――そんな人柄が、その笑みににじんでいた。
「……だからさ。これからは、もう隠さんでええかなって思った。
香月くんなら、俺のこと……ちゃんと見てくれそうやし」
「……!」
名前を呼ばれて、碧生の心臓が跳ねた。
思わず、牛乳の瓶を両手で持ち直しながら、碧生は小さな声で言った。
「……あの。よかったら、“碧生”って、呼んでください」
蓮華は一瞬だけ驚いた顔をして、それから、いたずらっぽく微笑んだ。
「……ほな、碧生くんやな。
ええ名前。……似合っとるよ」
(……ずるいな、この人)
「じゃあ……蓮華さん。また来てくださいね。
そのときも、牛乳……一緒に飲めたら嬉しいです」
「ふふ、楽しみにしとくわ」
瓶の底を見つめながら、蓮華は小さく息を吐いた。
それは、安心と照れが混じったような、柔らかなため息。
この場所が、“誰にも見つからない秘密の場所”だった時間から、“誰かと過ごしたくなる大切な場所”へ――
ほんの少しだけ、意味が変わった瞬間だった。
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