2 / 48
第一章:仇桜は嵐に翻弄される
一
しおりを挟む
昭和四年――。
和泉は、まだ花も咲かぬ十四歳。伯爵令嬢として、平穏に女学校に通っていた。
華族でありながら紡績工場をいくつも営んでいる生家は、裕福で帝都に大きな屋敷を構えていた。
「華族が働くなどとおっしゃる方もいるが、華族・貴族は偉ぶるだけの特権階級ではないのだよ。民衆の手本になるべきだと御上に選ばれたからには、勤勉でいないとね」そう兄が和泉に語っていた。
よく働き、貢献する――これが新しい昭和の世の華族だとも。
先の大震災で帝都は大打撃を受けたが、七年の月日とともに復興し、貴族たちは華やかで贅沢な暮らしに戻った。
和泉の家は、そんな貴族の社交界の中心的な存在として、春と秋に政財界や著名人を集めた盛大なパーティーを開いている。
今年もその春がやってきた。
和泉は、幾重にもレースとフリルを施した芍薬のようなドレスに身を包んでいる。女学生らしい清楚なドレスや和服を着るよりも、こうした華やかなドレスやモダンな着物で着飾るのを好んでいた。
勝気な性格を表す凛とした眉に、意志の強さの表れの目は黒目がちで優美に見える。口紅を引かずとも薔薇色の唇に、少女らしい柔和な頬。母親の自慢の美しい娘だった。
「和泉、こちらへ」
父親に呼ばれ、大勢の輪の中へ和泉は入っていった。最近覚えた西洋風のお辞儀をすれば、大人たちは感心した声を上げた。
「まるでビスクドールのようだ」
大勢の中の誰かが言葉を零した。和泉はにっこり笑って少女らしい姿勢を崩さないでいるが、人形だと褒められてもちっとも嬉しくなかった。
しょせん娘は父親の道具にしかすぎない。人形のように意思もなく、家のために恋も知らずに結婚するものなのだ。
この春のパーティーだって、結婚相手の品定めになっている。
「当家の娘はそろそろ娘時になりましてな」
「お父上のお眼鏡に叶うお相手など、この界隈におりますかな」
「この時勢、実業家などより将来安泰な帝国軍の――」
「武家同士だと――」
父親の取り巻き……家の取り巻きとでも言うべきか、伯爵家の威光をかざしたいだけの大人たちが、和泉には虎の威を借る狐のように見える。
震災に続き、昭和二年に起きた金融危機の不安の影響も大きいのだと、和泉もわかっているが不満だった。
この方たちに、私個人なんて必要ないんだわ。必要なのは家名だけよ。
「どうだ。和泉」
髭を立派にたくわえた父親が、満面の笑みで和泉を覗いた。周り一同も和泉を見ている。
「お父さま。私は意志のない玩具ではありません。家の繋がりではなく、名家の子女としての私を必要としてくださる殿方でなくては嫌だわ」
あまりにも少女らしい世間知らずの言葉に、周りの大人たちは大いに笑った。
「そうだな。昭和の女子がこの年齢で結婚相手を選ぶなど、時代錯誤もいいところだ。成人近くなってから選ぶことにしよう」
父親に倣い、周囲の大人たちも頷き、父子の発言を持ち上げる。和泉はそれで納得した。このパーティーの主賓は父親だから、次に偉いのはその家族だ。建前をそのまま受け取ってよいのだ。殿や姫の言葉を覆せられる家来などいないのだから。
父親の権利は絶大で、世界の中心はここなのだと誰もが皆思っていた。
けれど、歴史が物語るように、栄華は長く続いた試しがない。
□
その後、時代が急変した。
昭和五年、前年にアメリカで起きた経済の暴落(世界大恐慌)が日本を直撃した。アメリカの貿易国であった日本にも多大なる影響が出た。主力であった生糸の暴落。裏目に出た金融政策。止まらないデフレーション。
――昭和恐慌が起こった。
紡績工場だけではなく、農作物の先物取引をしていた和泉の家は免れたかと思っていた。春は苦しくとも実りの秋になれば確実に儲かる手筈だったが、偶然にも農作物が凶作になってしまった。
既に紡績工場を手放していた和泉の父親は、体面を取り繕うのになりふり構わず借金を重ねた。飛び火を免れようと親戚一同からはほぼ縁を切られてしまい、銀行に金を貸し渋られ、気前よく金を貸してくれるのは高利貸ししかいなくなっていた。
あらゆるものを抵当に入れ、自転車操業で借金を繰り返す日々。
恐慌からたった一年で、転がる石よりも早く転がり落ちた暮らしは変わり果て、暗く困窮するものになってしまった。
金の切れ目が縁の切れ目と言うように、最初に取り巻きたちが煙のように姿を消した。次いで、たくさんいた使用人たちも暇を取らせたり、他の働き先を斡旋したり、あるいは邸から逃げ出したりしてしまった。
年老いた庭師の田島夫妻は先祖代々の付き合いだからと邸に残ったが、支払う賃金はなかった。
前々から借金はあったのだと、家業を手伝っていた兄がうなだれてポロリと零した。
大正からの不況でも家がここまで傾かなかったのは、由緒ある家名が助けてくれていたのと、政治家に働きかけていたからだと、疲労の強い顔色の兄が語った。
「まだ子供の……しかも女のおまえは知らなくてもよいことだ」
そう言い結ばれてしまうと、和泉はなにも言葉にできなくなった。
家族だから助けたいと思っても、家のためにできることは女子供にはないのだ。
女学校を辞め、ひっそり暮らし少しでも借金を重ねないようにして生きるしかない。
生まれも育ちも士族の母親は、使用人の真似事をなどできないと家事炊事を拒絶した。かわりに和泉が、家事炊事を田島夫妻に教えてもらいながら覚えていった。
裁縫は女学校で習っていたが、問題は炊事と洗濯だった。土のついた野菜など、今の今まで見たことがない。しかも、凶作のせいでいい野菜など手にいるわけないから、鮮度も見てくれも悪い。魚も野菜も和泉にとっては、気持ち悪いものでしかない。
それでも食っていかねばと、広いだけの台所で年老いた田島の嫁――スミと奮闘した。
手に突き刺すように冷たい水で米を研ぐだけでも、米粒を流してしまう。葱ひとつ洗って切るにも、初めてのことばかりの和泉は失敗続きだった。
難しいことはスミが引き受けてくれたし、包丁の持ち方ひとつから丁寧に教えてくれた。
和泉が奮闘し初めて夕餉をこさえた。出来のよくない食事を見た母親は顔を顰め、弟は「こんなもの食べたくない」と駄々を捏ねられた。そんな二人を見た和泉は、怒りを通り越して悲しくなった。
いかにして食事がテーブルに並べられるのか、たった一日で理解し始めた和泉は、今まで食事を残してしまったことを心の中で詫びた。
そうして初めて作った葱の味噌汁は不味いなりに残さず平らげたのだった。
和泉は、まだ花も咲かぬ十四歳。伯爵令嬢として、平穏に女学校に通っていた。
華族でありながら紡績工場をいくつも営んでいる生家は、裕福で帝都に大きな屋敷を構えていた。
「華族が働くなどとおっしゃる方もいるが、華族・貴族は偉ぶるだけの特権階級ではないのだよ。民衆の手本になるべきだと御上に選ばれたからには、勤勉でいないとね」そう兄が和泉に語っていた。
よく働き、貢献する――これが新しい昭和の世の華族だとも。
先の大震災で帝都は大打撃を受けたが、七年の月日とともに復興し、貴族たちは華やかで贅沢な暮らしに戻った。
和泉の家は、そんな貴族の社交界の中心的な存在として、春と秋に政財界や著名人を集めた盛大なパーティーを開いている。
今年もその春がやってきた。
和泉は、幾重にもレースとフリルを施した芍薬のようなドレスに身を包んでいる。女学生らしい清楚なドレスや和服を着るよりも、こうした華やかなドレスやモダンな着物で着飾るのを好んでいた。
勝気な性格を表す凛とした眉に、意志の強さの表れの目は黒目がちで優美に見える。口紅を引かずとも薔薇色の唇に、少女らしい柔和な頬。母親の自慢の美しい娘だった。
「和泉、こちらへ」
父親に呼ばれ、大勢の輪の中へ和泉は入っていった。最近覚えた西洋風のお辞儀をすれば、大人たちは感心した声を上げた。
「まるでビスクドールのようだ」
大勢の中の誰かが言葉を零した。和泉はにっこり笑って少女らしい姿勢を崩さないでいるが、人形だと褒められてもちっとも嬉しくなかった。
しょせん娘は父親の道具にしかすぎない。人形のように意思もなく、家のために恋も知らずに結婚するものなのだ。
この春のパーティーだって、結婚相手の品定めになっている。
「当家の娘はそろそろ娘時になりましてな」
「お父上のお眼鏡に叶うお相手など、この界隈におりますかな」
「この時勢、実業家などより将来安泰な帝国軍の――」
「武家同士だと――」
父親の取り巻き……家の取り巻きとでも言うべきか、伯爵家の威光をかざしたいだけの大人たちが、和泉には虎の威を借る狐のように見える。
震災に続き、昭和二年に起きた金融危機の不安の影響も大きいのだと、和泉もわかっているが不満だった。
この方たちに、私個人なんて必要ないんだわ。必要なのは家名だけよ。
「どうだ。和泉」
髭を立派にたくわえた父親が、満面の笑みで和泉を覗いた。周り一同も和泉を見ている。
「お父さま。私は意志のない玩具ではありません。家の繋がりではなく、名家の子女としての私を必要としてくださる殿方でなくては嫌だわ」
あまりにも少女らしい世間知らずの言葉に、周りの大人たちは大いに笑った。
「そうだな。昭和の女子がこの年齢で結婚相手を選ぶなど、時代錯誤もいいところだ。成人近くなってから選ぶことにしよう」
父親に倣い、周囲の大人たちも頷き、父子の発言を持ち上げる。和泉はそれで納得した。このパーティーの主賓は父親だから、次に偉いのはその家族だ。建前をそのまま受け取ってよいのだ。殿や姫の言葉を覆せられる家来などいないのだから。
父親の権利は絶大で、世界の中心はここなのだと誰もが皆思っていた。
けれど、歴史が物語るように、栄華は長く続いた試しがない。
□
その後、時代が急変した。
昭和五年、前年にアメリカで起きた経済の暴落(世界大恐慌)が日本を直撃した。アメリカの貿易国であった日本にも多大なる影響が出た。主力であった生糸の暴落。裏目に出た金融政策。止まらないデフレーション。
――昭和恐慌が起こった。
紡績工場だけではなく、農作物の先物取引をしていた和泉の家は免れたかと思っていた。春は苦しくとも実りの秋になれば確実に儲かる手筈だったが、偶然にも農作物が凶作になってしまった。
既に紡績工場を手放していた和泉の父親は、体面を取り繕うのになりふり構わず借金を重ねた。飛び火を免れようと親戚一同からはほぼ縁を切られてしまい、銀行に金を貸し渋られ、気前よく金を貸してくれるのは高利貸ししかいなくなっていた。
あらゆるものを抵当に入れ、自転車操業で借金を繰り返す日々。
恐慌からたった一年で、転がる石よりも早く転がり落ちた暮らしは変わり果て、暗く困窮するものになってしまった。
金の切れ目が縁の切れ目と言うように、最初に取り巻きたちが煙のように姿を消した。次いで、たくさんいた使用人たちも暇を取らせたり、他の働き先を斡旋したり、あるいは邸から逃げ出したりしてしまった。
年老いた庭師の田島夫妻は先祖代々の付き合いだからと邸に残ったが、支払う賃金はなかった。
前々から借金はあったのだと、家業を手伝っていた兄がうなだれてポロリと零した。
大正からの不況でも家がここまで傾かなかったのは、由緒ある家名が助けてくれていたのと、政治家に働きかけていたからだと、疲労の強い顔色の兄が語った。
「まだ子供の……しかも女のおまえは知らなくてもよいことだ」
そう言い結ばれてしまうと、和泉はなにも言葉にできなくなった。
家族だから助けたいと思っても、家のためにできることは女子供にはないのだ。
女学校を辞め、ひっそり暮らし少しでも借金を重ねないようにして生きるしかない。
生まれも育ちも士族の母親は、使用人の真似事をなどできないと家事炊事を拒絶した。かわりに和泉が、家事炊事を田島夫妻に教えてもらいながら覚えていった。
裁縫は女学校で習っていたが、問題は炊事と洗濯だった。土のついた野菜など、今の今まで見たことがない。しかも、凶作のせいでいい野菜など手にいるわけないから、鮮度も見てくれも悪い。魚も野菜も和泉にとっては、気持ち悪いものでしかない。
それでも食っていかねばと、広いだけの台所で年老いた田島の嫁――スミと奮闘した。
手に突き刺すように冷たい水で米を研ぐだけでも、米粒を流してしまう。葱ひとつ洗って切るにも、初めてのことばかりの和泉は失敗続きだった。
難しいことはスミが引き受けてくれたし、包丁の持ち方ひとつから丁寧に教えてくれた。
和泉が奮闘し初めて夕餉をこさえた。出来のよくない食事を見た母親は顔を顰め、弟は「こんなもの食べたくない」と駄々を捏ねられた。そんな二人を見た和泉は、怒りを通り越して悲しくなった。
いかにして食事がテーブルに並べられるのか、たった一日で理解し始めた和泉は、今まで食事を残してしまったことを心の中で詫びた。
そうして初めて作った葱の味噌汁は不味いなりに残さず平らげたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる