惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第一章:仇桜は嵐に翻弄される

 二

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 どうにか生活に慣れた頃、どっと疲労が和泉を襲った。
 医者に診せる金はないぐらいわかっているし、寝ていられない。
 いくら優しくても田島夫妻は他人だ。他人はすぐに裏切るから頼って生活をしたらいけないのだ。
 勝気な性格を奮い立たせ、朝はまだ寒い台所に和泉は向かったはずだった。


「――お嬢さま、お身体はいかがですか?」

 スミが皺だらけの顔をしわしわにさせて覗き込んでいた。和泉は二三度瞬きを繰り返し、部屋を見渡した。
 どうやら自室で、布団の上だというのはわかった。それ以外は頭が働かなくてよくわからない。

「……あ。スミ?」

 自分の声が別人のように枯れていた。

「お医者さまを呼んだのでございます。昨日は、良くなるという、なんとかという注射をしていただいたんですよ。お目覚めになってようございました。お加減はいかがですか?」
「……昨日?」

 スミの話によると、和泉は台所で倒れており、慌てて連れてきた夫に部屋まで運んでもらったのだと。

「お医者さまに支度するお金は?」
「病人はそんなことを気にしちゃなりません。こう見えてじじいとばばあは蓄えがあるのですよ。今までの恩返しだと思えば、たいしたことじゃございません」

 本当だろうかと和泉は疑った。

 他人にほどこせるぐらいの貯蓄があるのなら、さっさと他所へ引っ越せばいいのに。先祖代々仕えているのか知らないけれど、立場が逆転して見下しているに違いないわ。

「卵を譲っていただいたので、卵の雑炊でもこさえましょうね」
「いやよ! お雑炊なんていらないわ! 卵があるならオムレツにしてよ。料理番の作ったプリンがいいわ! できないなら食べたくないわ!」

 感情的に任せたまま我慢してきたわがままを吐いた。スミの目が厳しいものになってきたのを、和泉は見逃さなかった。

「分かりました。それでは卵はおぼっちゃまに召し上がりいただきます」
「好きにすればいいのよ!」
「そうやってふんぞり返っているから、見るべきを見落としてお倒れあそばすんです」
「だって、わたしたちはそうしていい身分なのよ! それなのに……それなのに……!」

 衣装部屋いっぱいの着物や洋服、お気に入りのドレス。洋行から帰った兄にもらった西洋人形。亡くなった祖母から貰った珊瑚のブローチも。全部、なにもかもすべて、他人が持って行ってしまった。
 邸宅の隅々に和泉の家のものなどない状態で、邸で暮らしていられるのは債務者の温情らしいが、つまるところ引っ越しする費用さえないのだ。
 庶民であれば当たり前の貧しい暮らしを、立派なだけの邸宅でしているのは、ひどく惨めに思えた。

「わたしだけこんなの……! 惨めで……つらくて。もうこんな生活、真っ平よ!」

 ガンガン痛む頭を抱えて、和泉はわっと泣き出した。
 しばらくすると、スミはため息混じりに言う。

「威張り散らしていい身分なんて物はございませんよ。当たり前に生きていればつらいことの方が多いのでございます。けれど、雨はいつか上がるものだと思っているからこそ、毎日笑って暮らせるのでございます」

 大泣きしていると湯呑みを差し出された。和泉は涙を拭いて口をつける。冷たいそれは花のような香りの飲み物だった。

「紅茶だわ。……風邪をひくとお母さまが淹れてくださったわね」

 薬膳だと思っているのか、家族が寝込むと母親は紅茶を煎れてくれたのだ。
 それに和泉の付き人ではなかったスミはなにも答えなかった。

「落ち着かれましたら、ご就寝くださいまし」

 和泉は横になると、スミの皺だらけの手が布団を直した。

「お母さまも心配してくださったのかしら?」

 迷子になった子供のように呟けば、スミはなにも言わずに赤子をあやすように和泉の胸をトントンと叩いた。
 和泉は目を瞑った。

 ――目が覚めたら全てが夢で、あの春のパーティーの日になっていないかしら。



 身体がよくなった日から、和泉は再びスミに付いて家事をこなすようになった。
 スミは言う。「貧しくともお家に煤があるようじゃ、心まで煤でいっぱいになってしまいます」
 伽藍堂になってしまった邸内を掃除するだけで汗は出るが、心の煤は拭えないみたいだ。何もなくなった邸内にいるだけで落ち込んでしまう。

 掃除をして回っていると、階段から降りてくる母親と出会った。前は百合のような美しい母親だったのに、疲労の翳りが見える。

「ごきげんよう、お母さま」
「……あなただったの」
「和泉はすっかりよくなりました。煎れてくださったお紅茶のお陰だと思っています」
「使用人から施しを受けるなんて恥ですよ。それになんですか。伯爵令嬢が事もあろうに前掛けを着けて廊下に這いつくばるなど、情けない」
「あ……。でも、これは……。その……」

 和泉は口篭った。予想だにしたかった言葉に、鼻の奥がツンとして痛い。
 もごもごと動かしている口内で「お紅茶のお礼が言いたかったのです。ありがとうございました」例の言葉を咀嚼するが吐くことも呑むこともできない。

 この日から和泉は、母親を避けるようになってしまったのだった。
 昭和恐慌などなければ、あの春の日のパーティーのままだったら、母娘は幸せに笑顔でいたであろう。

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