惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第一章:仇桜は嵐に翻弄される

 九

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 帰宅は夕方になってしまった。毅は仕事からまだ帰ってきていないが、和泉は今日のお礼にと、英嗣を夕食に誘った。

「ありがたいお申し出なのですが、今から出掛けなければならないのですよ」
「そうですか。……残念、ですね」

 偽りない本心がつい口から出てしまえば、英嗣は困ったように笑った。

「明日の午後にまた来ます」
「それなら、甘酒でも用意しておきましょうか」
「和泉さんの甘酒はおいしいのだと、田島氏が自慢していましたよ。今から明日の楽しみにしておきます」

 そんなことまで田島が話したのだと、和泉は寒さで赤い頬をより赤くした。

「あの……英嗣さん」
「なんですか、和泉さん」

 今日の別れの際は、いつもよりなんだか寂しく思える。煌びやかな歌劇を見て、賑やかな町にいたせいだ。そう思うことにした。

「いえ……。明日、お待ちしております」


   □



 寝支度をすっかり済ませた和泉は、部屋の明かりも電気スタンドだけにした。
 今日一日のことを振り返ると、おおよそいつもの自分らしからぬ行動と言動が多かった気がする。まるで少女の頃に返ったみたいだ。
 浮つき加減の気持ちを落ち着かせ、三通の封筒を文机に並べた。そして、スミの手紙にもう一度目を通し、母親からの手紙を手に取った。

 英嗣さんがスミたちを見つけてくださらなかったら、この手紙はどうなっていたかしら。

 ――カタカタ。冬の風が窓を鳴らす。その窓の向こうは冬の夜だ。いつもは暖炉の火力を強くしても寒くて凍えそうなのに、今日は寒さを感じない。
 英嗣がくれた優しさが和泉の心に広がっているからだ。
 優しさだけでなく、明るく朗らかな笑顔も、大人の男を感じさせる横顔も、少年ようなユーモアもすぐに思い出さるのは……。

 恋と呼んではいけない思いをすぐに胸の奥にしまい込んで、蓋をした。
 
 形だけとは言え、わたしは毅さんの妻なのだから。英嗣さんは義弟で、年下の兄嫁に親切にしてくれているだけ。善意を勘違いしてはいけない。

 考え事を飛ばすようにかぶりを小さく振って、独りごちる。

「……もう寝ないと。明日はお祖母さまの元へ行く日だわ」

 今日の遺恨をなくそうと、火を小さくした暖炉の前の椅子に座り、母親からの手紙の封を切った。
 上質な白い封筒は厚みがあった。三つ折りにされた便箋は三枚。万年筆で書かれた繊細な文字は見覚えのある母親のものだった。

〈和泉へ
 前略 息災でせうか。母はあなたへ詫びねばなりません。
 家が倒れてから娘のあなたは身を粉にして家につくくしてれましたね。
 母である私は情けない事に、現實げんじつを見ようともしませんでした。
  (略)
 借金があるのを知つておきながら、お父樣と光一郎を諌める事が出來できなかつたのは、母の監督不備とも言へるでせう。
  (略)
 お嫁に行くあなたがあんなに暗い顏をしてゐたのもがかりです。母は成り金を嫌がつたのではありません。華族として立派な花嫁と成るべくしたあなたが降嫁するのに我慢なりませんでした。
 借金取りに「娘をれ」と言はれぬやう、連れて行かれぬやう、來客らいきゃくからあなたをかくしましたが、意味のない行爲こういに成つてしまひました。れもれも、母が情けない他ありません。
  (略)
 あなたとはもう今生でふことはないでせう。いいえ、合はせる顏などありません。其れだけの罪深きことを親である私は娘のあなたにしてゐたのです。
 朝に夕にあなたの幸せを願つて讀經どきょうするぐらゐしか出來ません。どうか、どうか、婚家でしあわせに成つてください。其れが孝行だと思つて〉


 お母さまも戸惑われたのね。まさかお家が傾くなんて誰も思わないもの。
 家事はわたしが勝手にはじめたのよ。お母さまが詫びることじゃないわ。貴族らしくなく、みすぼらしくなるわたしを見ていられなかったのね。

 和泉は流れ出る涙を拭こうともしなかった。ただ泣いて、母親の陳謝と願いを書かれた手紙を、あかぎれのない手で抱きしめた。

 わたしが書いた手紙は、お母さまたちは読まないかもしれない。だけど、この手紙に書かれている誤解を解かないといけないわ。
 わたしは恵まれて暮らして幸せですって、お母さまたちに伝えなければ。
 

 和泉はあたたかい気持ちを胸に抱き、柔らかな寝台ベットに横になった。


 しかし、和泉は見落としていた。手紙の終わり方が不自然なことを。母親が真に言いたかったことを。



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