惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第二章:牡丹は可憐に咲き乱れる

 六

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 和泉は、本家の番頭と共に訪れた遠藤の墓を、丁寧に掃除して花と線香を手向けた。
 結婚後、三回目になる盆にも、義理の両親は外地から帰って来なかった。

 祖母さまはすっかり弱って、もう排泄すら自力でできないようになったのに。

 和泉に対してあれほど厳しかったのだから、嫁と姑の関係ではもっと苛烈であったのだろう。実際、過去に英嗣が「祖母は母につらく当たっていた」と言っていた。
 赦す赦せぬの感情は、当人同士にしかわからない。第三者にはどうすることも出来ない問題は、静観するしかない。

 傷つけられた心の傷は決して消えることないのよね。でも、癒された傷は薄くなる……。

 和泉が英嗣に癒してもらったように、姑は舅に癒してもらえないのか。それとも傷が深くて薄くなりようがないのか。義理の両親と会ったことがない和泉には憶測することも出来ない。

 和泉を見ることなく、墓に手を合わせいる番頭が呟いた。

「若奥さま。大奥さまを見捨てずにいてくださいまして、御礼申し上げます」

 遠藤の嫁として恥ずかしくないよう振舞っているだけで、縁者としての情はほとんど和泉にはない。他人だと割り切れるから、週に二回ほど見舞いに行けるだけだと、冷めた心で思う。

「明治から昭和を生き抜いた大奥さまは、たいへん気丈な方でもありますが、同時に悲しい方なのでございます」

 幼い子を三人もコレラで失い、期待をしていた跡継ぎは結核で失くした。妾の子供が現当主になり、夫には先立たれて久しい。身内の縁に薄い哀れな方だと、番頭は目頭を押さえて語った。
 英嗣と毅が大姑を見舞わない理由を察した。過去になにかあったから、義理の祖母に必要以上近寄らないのだ。
 和泉が遠藤の家に嫁入りした時に、大姑が姿を見せなかったのは風邪ではなかったのだと考え至る。妾の孫の家に上がりたくなかった、あるいは妾の孫を祝いたくなかったかだろう。

「……そうですか。胸中お察しいたします」

 白々しい上辺だけの言葉で、番頭と憐れな大姑を気遣う。こんな人間になったのは、嘘を覚えた大人になったからだと和泉は思う。
 どうせ地獄に落ちるのだから、こんなのはたいした嘘ではないのだとも。



 寺で番頭と別れた和泉は、日傘を差して帰宅する。
 去年は酷い暑さで空すら白っぽく見えたのに、今年の夏は過ごしやすく青い空に白い入道雲が鎮座しているのがよく見える。
 草木の濃い緑の間を揚羽蝶アゲハチョウがひらひら舞い、暑さを盛り上げるよう蝉が合唱している。太陽にジリジリ熱せられた地熱は、空気を揺らめかし道路に実体のない幻の水溜まりの陽炎を作り出している。

 暑いわ……。

 去年の夏、秘めていた思いが秘めなければいけない関係になった。触れ合う英嗣のぬくもりは幻なんかじゃないのに、どこか実体がないままだ。
 英嗣とは、ほぼ毎日午後に会うが、約束がないだけにいつ来てくれるのかわからない。

 今日はお見えになるかしら? 明日は、明後日は? その先は?
 わたしが英嗣さんの元へ行けばいいのだけれど。

 日頃、英嗣がどこにいてなにをしているのか、和泉は知らないままだ。
 優しいから逢瀬の約束もしてくれるだろう。聞けば教えてくれるだろう。全部、勇気がなくて聞けない。踏み出して現状が壊れてしまうのが怖い。
 幸せが真夏の陽炎のように消えてしまうのが怖い。

 どうして結婚したのか――毅に対してあれほど思っていたのに、英嗣への想いが強まる日々では考える時間がほとんどなくなっていた。



  □



 汗を流し身支度を整えた和泉は、英嗣に夕暮れ前の連れ出された。
 どこへ向かうのか聞いても、英嗣は笑うだけで教えてくれない。
 そのうち自家用車の車窓から、夕焼け空の中の千住火力発電所の四本の煙突が大きく見えた。帝都を流れる隅田川近くを車が走っているのだと、土地勘のない和泉にもわかるが、どこへ向かっているのか依然としてわからないでいる。

 しばらくして、国技館の屋根が対岸に見える橋の近くで自家用車が停まった。
 英嗣に少し歩こうと誘われ、和泉は車外へ降りる。髪がなびく程度の川の風が吹いていて、車の中よりずいぶん涼しい。

「街中はまだ騒ぎが残っていますが、ここは静かですね」

 帝国陸軍の男が将官を白昼堂々斬りつけたのだと、先日の新聞報道で和泉は知った。
 事件当日から帝都中枢部や繁華街の治安維持をする憲兵が増えたが、ずいぶん物々しい雰囲気になってしまった――と、自家用車の中で英嗣に教わった。

「お盆の中日なかびですから、渡し船も漁師さんもお休みなのでしょうか? 平和で……川の波音が心地いいです」

夕暮れは渡船の往来もほとんどなく汽船の音もなければ、工場の排気も臭わない。微かに潮が混じる爽やかな隅田川の川風が吹いた。

「今年も盆参りをしてくださってありがとうございます。暑かったでしょう」
「嫁として……これぐらいしかお役に立てず、恥ずかしく思っています。それに、昨年ほど酷い暑さではありませんでしたから平気です」

 川面かわもをキラキラさせている光も、英嗣の明るい色の髪も夕焼けで橙色になっている。その英嗣の髪が川の風に靡き、和泉に残暑を教える。

「和泉さん、舟遊びをしましょう」

 手を引かれて降りた船着場の横は、船溜まりになっていて、たくさんの船が繋がれている。そのうちの一艘いっそうの屋形船に英嗣は足を向け、和泉を振り返った。

「一度乗ったら三時間は船の上から帰せません。船を降りた時間から帰宅をすれば、夜分遅くなるのは必至です」
「……はい」
「今日で僕とあなたの関係は一年になりました」

 嫌な感じに胸が脈打つ。英嗣は一年に節目を作りたいのか、終わらせたいのか。
 和泉だって先を憂うけれど、終わらせる気なんか毛頭ない。

「引き返すなら、源三に屋敷まで送らせます」
「英嗣さんはどうなさるのですか?」
「僕はひとりで舟遊びをしますよ」
「そのあとは? わたしとは……」
「まさか。僕は欲深いんです。あなたを手に入れてなお、あなたが欲しい」

 泣きそうな和泉に男はにっこりと笑う。鮮やかに、艶やかに、仄暗く。

「共に来てくださるのなら、朝まで帰しません。今日以降、僕は誰の目も気にしない。兄さんに遠慮することなく、あなたを僕のものにします」
「……はい」

 英嗣の目を真っ直ぐに見つめたまま、和泉は繋いだ手を握り直す。
 なにも迷うことなんかない。気持ちは一年前から決まっている。

「わたしの気持ちを知っていて選ばせようとするなんて、あなたはずるい人です」
「和泉さんの気持ちを尊重しているだけですよ」

 英嗣の胸にそっと頬を寄せる。とくとく早く打つ心臓の音、麻のジャケットからでもわかるぬくもり、心をざわつかせる男の香りにうっとりと目を閉じた。

 踏み込もうとしてくれている英嗣さんは、夏の幻なんかではないわ。
 こうしてここにいてくれる。優しく抱きしめてくれる。誰よりも近いのだもの。約束なんていらないわ。

 夏の長い夕焼けは落ちていき、暗い橙色の川面を蜉蝣たちが一斉に飛び立った。恋しあう短い一夜に身を焦がすために。


 和泉もまた、英嗣に肩を抱かれて船へ降り立つ。恋しい男とともに。


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