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第二章:牡丹は可憐に咲き乱れる
十四
しおりを挟む毅も交えた四人は、食堂で早い夕餉を取ることになった。
ところが、不機嫌さをあらわにした毅は、書斎へ向かうとだけ残し、早々と食事を切り上げてしまった。
大切な客の前でも取り繕えないほど、夫婦の間には深い溝があるのが、征十郎にもわかってしまうだろう。いや、四回もこの家に足を運んでいるから、もう分かっているに違いないと、和泉は視線を落とした。
兄のような征十郎に心配はかけたくない。
毅の退出で途切れた会話は、給仕がデザートを運んできたことで再開された。
「――英嗣殿はどんなお仕事をされているのですか?」
「僕の仕事が気になりますか?」
「不躾な物言いですが、勤め人とは思えないご様子で、とても帝都の流行にお詳しいですから」
悪びれない征十郎の言い方に、英嗣はおかしそうに笑う。
「遊び人ではありませんよ。兄の相談役のようなものですから、それなりに帝都へ足を運び情報を仕入れています。軍も同じだと思いますが、情報戦は大切ですからね」
「その相談役殿は仕事上だけのものですか?」
「と、いいますと?」
少し眉を眉間に寄せた征十郎が和泉を見た。
「私のような若輩が口出しするのは差し出がましいのですが、兄上殿はお仕事が過ぎるのではないでしょう。こうした食事の時間ですら落ち着かれないのでは、いつか過労で倒れてしまいますよ」
英嗣は食事を終わらせると、優雅に赤ワインを傾けてから微笑む。
「ご忠告はありがたく受け取っておきます。あの巌のような体格が過労で倒れることはないでしょうが、中座するのはマナー違反ですからね」
「仕事も国民の立派な義務だが、男は家庭も守らねばならない。そう上官が言っておりましたので、兄上殿は大変かと思います。私にも兄がおりますので、郷里に帰った時にはよく兄弟で話をします」
「なるほど。つまり、兄の私生活も相談役になってやれと仰っているのですね」
英嗣は熟考するように黙ったあと「そうですね」と言葉を置いた。
「兄も大人ですし、兄なりの考えがあるのでしょう。それに、僕は男の私生活に口を出す器の人間ではありません」
征十郎がなにか言おうとしたその時、食堂の照明がすべて落ちてしまった。突然の暗闇に和泉は身を固めたが、すぐに気を取り直した。
「わたしが明かりを持って参りますので、どうかそのままに」
立ち上がり手探りで廊下に出る。一階ホールのステンドグラスには雨戸がされていないので、真の暗闇から出れたことに和泉は胸を撫で下ろした。
「だれか……」
「若奥さま」
廊下奥からやってきたのは、懐中電灯を持った番頭だった。
「もしかすると、この辺りも停電になったやもしれません」
「そうですか」
「電線がどうかなっておらねば、復旧は早いかと存じますが、今夜はこのままでしょう。ありったけのランタンと蝋燭で明かりをすぐに支度をして参りますので、今しばらくはどうかこれを」
ランタンを手渡された和泉は、あとを番頭に任せて一階ホールを横切り食堂へ戻ろうとした。その時、誰かに手を引っ張られ息を呑んだ。慌ててランタンの明かりを差し向ける。
「……英嗣さん。驚かさないでください……」
「失礼しました」
「明かりが消えたのは邸だけではないようです」
「この暴風雨だとそうでしょうね」
「明かりの用意をお願いしたので、不都合があるかと思いますが……え?」
英嗣の人差し指が和泉の唇に触れた。
「しぃ」
「英嗣、さん?」
「喋らないで」
整った男の指が、ゆっくり唇の弾力を確かめるようになぞる。やがて人差し指は頬に触れる。
まるで愛撫されているような錯覚に陥る触れ方に、和泉の胸は高鳴った。
今は食堂に明かりを持っていかなければと思うのに、英嗣に頬を撫でられると気持ちがよくて動けなくなった。
「あなたは明かりだ」
静かに呟いた英嗣に、和泉は閉じた瞼の睫毛を撫でられ肩を小さく跳ねさせた。
期待した通りに英嗣にくちづけられ、手にしているランタンの取っ手を強く握った。
「……このところあなたに触れられなくて残念だ」
毅と征十郎がいる日は距離を開けているが、そうではない日は、いつもと変わらずに触れ合うのにと和泉は思う。
「舌を出しなさい」
和泉はほんの少しだけ舌を出した。従順になるには物足りなくて、まだ羞恥が邪魔をしている。
ちろちろと、英嗣の肉厚な舌先が和泉の舌の粘膜を舐め取る。好いように擽られ、だらしなく口が開いてしまいそうになるのを和泉はこらえた。
「もう……行かないと……」
嘘だ。目に涙が溜まってきているのも和泉自身、分かっている。いくら暗くても、火照った身体で征十郎の前に行けない。
「黙って……」
唇が重なり舌を吸われると嬉しく全身が痺れるようだった。よく知られているだけに、くちづけだけで簡単に欲望に火が灯る。
こんなことをしている場合ではないのに。わかっているのに。
すぐそこの食堂には征十郎がいて、二階の書斎には毅がいる。
それなのに、暗がりに乗じて英嗣とくちづけているのが、ひどく気持ちがいい。
「……はぁ」
英嗣が離れた瞬間、和泉は膝から崩れそうになった。
「大丈夫ですか? 和泉さん」
「……は、はい」
「ランタンは危ないので僕が持ちますから、戻りましょう」
英嗣に肩を抱かれた和泉は、食堂の扉を開けたのだった。
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