惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第二章:牡丹は可憐に咲き乱れる

 十三

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 その日の夜、和泉は夢を見た。
 少女になりたての十二歳の和泉が、十四歳の征十郎と実家の敷地で自転車に乗る練習をしている。

『お嬢さん、ペダルをえいっと踏むと前に進みますよ』
『こわいわ。征十郎』
『おそるおそるやっては怖いだけですよ』

 言われた通りに、自転車のペダルをブーツの底で踏みつけた。グンと車輪が回転し和泉は引っ張られるように前に進む。上がった反対側のペダルを踏むのが遅くて、グラグラ揺れ横に倒れそうになった。

『きゃあ!』

 身体に受けた衝撃はあるが、痛みはない。

『征十郎……?』

 和泉を抱えているのは征十郎ではなく、英嗣だった。そしていつものように朗らかに笑んだ。

『不貞を働いているのに、懐かしい顔を見たら彼に鞍替えですか?』
『誤解です。征十郎さんはお兄さまみたいな人です』
『あなたは優しくしてもらえれば誰でもいいのではないですか?』
『わたしは英嗣さん以外の優しさなんかいりません』

 和泉を下ろした英嗣が離れ、すぅっと空気に溶けるように姿が消えていく。

『英嗣さん! 行かないで!』


 ――はっと目が覚めた。起き上がり夢だとわかると、肩の力が抜けて自然に長い息がほぅと零れた。
 英嗣と枕を共にしていないのを確認するように、和泉はベッドの空いた場所を見つめた。
 ひとりで寝ているから、あんな夢を見てしまったのだろうか。

「……英嗣さん」

 いくら兄のように征十郎を慕っていても、英嗣を嫌な気持ちにさせたくない。逆の立場だったら、和泉は泣いてしまうだろう。

 ベッドから降りた和泉は、なんとなく窓のカーテンを開けた。洋館の二階の和泉の部屋からだと、毅がいる離れ屋の玄関が見える。立ち入るなと言われているから、離れ屋がどんな作りなのか外からしか想像できないでいる。

 夜中だというのに玄関灯がついているのは、毅が帰宅してないせいだろうか。
 和泉が考え込んでいると、一台の自動車が離れ屋に横付けされた。出てきたのはふたつの影。大きい影は毅だろう。もうひとつは、和泉なら見間違うことのない英嗣のものだ。

 英嗣の影が先に玄関に入ると、毅の影がすぐにあとを追いかけ玄関扉が閉ざされた。自動車が屋敷の北側へ進んで行ったのは、設けられたガレージに駐車するからだろう。
 離れ屋の玄関灯が消えてしまうと、月明かりしかない夜は和泉に暗闇しか見せなかった。

 今日の英嗣は、用があるからと午後になると帰ってしまった。次に会えるのは明後日だと約束をしたのに、毅と離れ屋に入っていったのは、どうしてなのだろうか。
 ふと、英嗣がいつもどこで過ごしているのか気になった。
 最初は本家にいるのだと思っていた。

 でも、お祖母さまの所へ何度も行っているのに、英嗣さんと会ったことがないわ。もしかしたら……本家で暮らしていないのかしら?
 ――まさか。じゃあどこで寝食をされているの?

「いつもお会いする時には、帝都のお土産をくださるし……待合かしら?」

 遠藤が出資している待合は、英嗣が過ごしやすいように整えられていた。いや、待合は旅館のように利用者が過ごしやすい工夫しているものだ。

 英嗣さんはひとりで利用しているのかしら?

 悪い考えを追い払おうと首を振る。見えない女の影をわざわざ作るなんてばからしい。
 誠実さも愛の言葉ももらったのに、疑ってはいけない。
 和泉はカーテンを閉め直し、広く感じるベッドへ戻り目を瞑った。


  □



 征十郎が邸に再びやって来たのは、それから数日後だった。
 約束通り和泉はハンカチを返し、昼食を用意してもてなした。午後は英嗣と三人でお茶を飲み他愛もない話をし、夕方頃に帰宅して行った。
 それがひと月のうちに四度もあった。もしかすると非番のたびに来ているのかもしれないと、英嗣は呆れていた。

 ある日のこと。午前中から天気がて悪く、降り始めた雨は次第に強まり、激しい風に煽られて横殴りの雨になっていた。

「弱ったな」

 滝のような雨という表現がぴったりな雨に、征十郎が玄関で帰宅を躊躇うように天を仰いだ。

「征十郎さん、自家用車で送らせましょうか?」
「いえ、お嬢さん。帝国軍人たるもの、これくらいの悪天候は平気です」

 番頭が、河川の増水で橋を渡ることができないと、知らせに来た。すると英嗣が

「水死体を探すほうが大変ですからね。泊まって行ったらいかがです? 僕は悪天候にくれてやる命を持っていないので一晩泊まらせていただきます」
「英嗣さん」
「雨の中の馬も門では可哀想だから、ガレージにでも入れやりなさい。屋敷の男を数人ほど青年団か消防団に向かわせ水防を手伝わせるように。男手はいくらあってもいいでしょう。それから、停電するかもしれないから、懐中電灯とろうそくも手の届くところに支度を。火の元に気をつけるよう」

 指示をされた番頭はすぐさま動き出した。英嗣の手馴れた様子に和泉は目を丸くした。

「……と、まあ、しゃしゃり出てみるものですね」
「まるで貴殿が主人のようだ」
「将棋も采配をしなければ駒は動きませんからね。逆に采配がなければ動けない人間もいるなら、誰かが指示してやればいいだけです。ただし、女の仕事は女主人しか指揮を執れません。男には女の仕事は未知の世界ですから」

 なるほど、と口に出した征十郎と和泉は目が合った。指揮など取ったことがない和泉は戸惑うばかりだ。

「和泉さんしか出来ないことです」

 背中を押すような英嗣の笑顔に、和泉は頷いた。

「――はい」



 配膳室の扉をノックをすると、元気のいい矢口が飛び出してきた。

「あの……お客さまが増えましたから、お料理とお酒の支度を二人分増やしてくださいませんか?」
「はぁい。わかりましたぁ」
「矢口。なんですか、その口の利き方は」

 和泉のあとから着た女中頭が、肩を竦めた矢口を睨めつける。女中頭は大きく息を吐いてから、和泉に向き直る。

「若奥さま。村瀬さまがご宿泊されるお部屋のお支度はいかがなさいましょう?」
「一番眺めの良い客間にお願いできますか? わたしの兄のような人なので、できる限りのおもてなしをしたいのです」
「左様でございますか。では、お寝間着もリネンもアイロンを掛けてからお出ししておきます」
「よろしくお願いします。それから、お部屋の調度品を整えたいので手を貸していただけますか?」

 女主人の指揮がこれでいいのか和泉はわからないが、幼い頃母の側で見たもてなしの仕方を思い出しながら、女中頭と蔵へ向かった。





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