惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第二章:牡丹は可憐に咲き乱れる

 十二

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 秋の深まりを告げる萩の花を和泉は玄関に飾った。心を穏やかにさせる控えめな萩の紫は、和泉の好きな色だった。
 女中の矢口が玄関までバタバタ走ってきて、和泉は目を丸くして何事かと萩の花から手を離した。

「若奥さま。正門に若奥さまのお知り合いだとおっしゃる軍人さんがお見えになっていますよ」
「軍人さん?」

 控えている女中頭が訝しげに眉を顰めた。
 和泉が心当たりのある軍人は、征十郎しかいない。和泉の父親から預かっている万年筆があると言っていたから、届けに来てくれたのだ。

「いやね、代わりに掃除に行ったらおっきな馬に乗った軍人さんが見えてヒャーッてなりましたよ」
「矢口。無駄口はいいですから、きちんとその方のお名前とご用件を聞いてきなさい。さあ、若奥さまは普段着をお召し替えしましょう」
「このままで……」
「いいえ。旦那さまに泥を塗るようなお召物ではいけまけん」

 至って普通の和服でモダンな紬ではないから、征十郎に会うのに恥ずかしい姿ではない。

「せめてお花の片付けを」
「若奥さま。そういったことは使用人の仕事です」

 これでも女中頭の対応は柔らかくなった方なのだが、和泉は彼女の迫力にいつも押されてしまう。

「伯爵令嬢さまはもっとしゃなりとされた方だと思っておりました」
「色々いるのだと思います」
「そうでございますわね。若奥さまのように掃除をしたがる変わった方もございましょう」
「掃き清めると心が穏やかになりますから」
「それは同意致します。が、若奥さまの今の仕事はお召し替えでございます」

 こうやって女中頭とやり取りをするのは、スミを思い出して少し懐かしい。……スミの方が嫌味が穏やかだった気がするが。


  □


 小応接室サロンに和泉が向かうと、難しい顔をしてソファに座る毅の向かいに、征十郎が姿勢正しく座っていた。
 和泉の後からやって来た英嗣が二人を見て呟いた。

「これはこれは……禅寺のようだ」

 たぶん、それしか言いようがなかったのだろう。
 確か座禅をしているような張り詰めた空気だと、和泉もやや当惑した。

「お待たせいたしました」

 ちらりとも目を合わそうとしない毅の隣に、和泉は浅く腰を下ろした。窓際の離れたソファに英嗣が腰を下ろすのを見届けてから、和泉は口を開く。

「毅さん。この方は……」
「先ほど本人から聞いた」
「……紹介が遅くなって申し訳ありません」

 ならば、征十郎に毅を紹介することもないだろう。

「将校殿は、わざわざ駐屯地から届けものにみえたそうだ」
「御足労いただき、どうもありがとうございます。征十郎さん」
「恩人よりの大切な預かり物でしたので、郵送に託せずに参った次第です」

 毅に圧倒されることなく征十郎は毅然として言い、持っていた風呂敷から長方形のケースを取り出した。
 受け取ったケースの中には、一本の黒く光る万年筆が入っていた。スタンダードな黒いペンに施されている金の部分は、メッキではない輝きがある。これを父親が使っていたのか和泉には覚えがないが、一介の将校である征十郎が持つには高価な物に思えた。

「征十郎さんが使ってくださってもいいのですよ。わたしが持っていても宝の持ち腐れになります」
「いいえ。二回もお嬢さん……失礼。和泉さまと偶然お会いしたのは、この万年筆が和泉さまの元へ返るのを待ち望んでいたからだと思います。どうかお受け取りください」
「……そこまで仰るのでしたら、お受け取りいたします」

 和泉がケースを手元へ置いた時、毅が席を立った。

「それだけの用事であれば、失礼する」
「あの、どちらへ?」

 和泉の問いに毅は答えず部屋を出て行ってしまった。夫の無作法に空気が冷えた気がして、和泉は慌てて取り繕う。

「ごめんなさい、征十郎さん。お気を悪くしないでください」
「いいえ。急にやってきた私の方こそ、ご主人さまにご迷惑だったのでしょう」
「兄は仕事を忙しくしていますから、疲れているのでしょう。ね、お義姉さん」

 話を聞いていた英嗣が和泉の隣に腰掛けて、長い足を持て余すように組む。

「え、ええ」
「それにわざわざ馬で帝都からお越しくださったのですし、昼食を共にいかがですか? 僕の家じゃありませんが、歓迎しますよ」
「いえ、お嬢さんに申し訳ありませんから、お暇させていただきます」

 英嗣は「そうですか。またの機会に」とにこやかに返す。彼の大人の対応に和泉は頭を静かに下げた。



  □




 和泉は万年筆のケースを抱えて、征十郎を正門まで見送りに出た。門の馬留に繋がれたおとなしい馬を見て、和泉は小さく笑った。

「昔を思い出しますね」
「お屋敷に厩舎がありましたね」
「ええ。お兄さまにせがんで馬に乗せていただいたわ」
「馬や自転車に乗ったりする活発な女の子でしたね」
「ふふっ。もう忘れてください」

 和泉は馬の首を撫でた。懐かしい手触りと動物の特有の優しいぬくもりに心が和む。

「お乗りになりますか?」
「乗馬服を持っていないわ。それに、もうわたしは成人しましたから」
「わかっております。少女の頃より麗しい淑女におなりになられましたね」
「お嫁に行くまで痩せぎすで、髪もバサバサだったのですよ。結婚してから人並みになれてよかったと思っています」

 和泉はおのれの手のひらを見た。結婚するまではこんなに白くもなく女らしい手ではなかった。爪は汚くてボロボロ、あかぎれとささくれは絶えなく、庭に野菜を植えた頃はまめ・・もあったような気がする。

「……苦労をしたのですね」
「わたしだけではありません。お父さまもお母さまもですが、家が倒れて苦労をしたのは突然解雇された奉公の皆だと思います。生きていれば辛いことが多いと、スミが教えてくれた通り、みんなが苦労して辛かったのです」

 それに、辛い日々の中にも幸せは必ずあるのだと和泉に教えたのは、いつも笑顔にしてくれた英嗣だ。

「今更と思われるかも知れませんが、お屋敷に残って微力ながらお手伝いしたかったです」

 和泉はきゅっと口角を上げ、努めて明るく振る舞う。征十郎が後悔したところで過去は変わらないのだし、心配をかけさせたくない。

「お料理がテーブルに運ばれてくるまでどうなのか、お洗濯はどうするのか。お野菜はどう実を結ぶのか知ることが出来ました。小さな菜園を耕したりして、それは逞しくなったのですよ」
「……お嬢さんこそこ立派です」
「スミから教えてもらった甘酒を、ここの邸の皆に振舞うこともできました。だから、きっといい経験になっていたのです」
「お嬢さん?」

 いつの間にか和泉は頬を濡らしていた。
 誰にも話したことがない辛かった少女の日々を、初めて吐露したのだ。ずっと心の中にあった悪夢のような日々。寒村の少女のようなみすぼらしい時代を今でも夢に見て飛び起きる。
 無価値で、無力で、不必要とされた日々は、誰からも愛された気がしなくて満ち足りたことがなかった。

「埃かしら? 秋は風が強いせいですね……」

 慌てて目元を押さえる和泉に、征十郎はハンカチを差し出した。

「お使い下さい」
「ありがとう」
「……配慮が足りませんでした。もっと楽しかった頃の話をすればよかったです」
「いいえ。征十郎さんのせいではないの。埃のせいですから」
「目にゴミが入った時は、たくさん涙を流すとよいと聞きました」
「そうね」
「……大変でしたね」

 その一言で和泉の涙は止まらなくなった。もう過ぎたことだと自分で言ったのに、感情が抑えられなかった。
 それから和泉は、ぽつりぽつり辛かったことを吐き出した。順番もなにもかもめちゃくちゃだったが、征十郎はただ頷いて相槌をしながら丁寧に話を聞いた。



「……ごめんなさい。ハンカチは洗ってお返しします」

 泣きすぎて腫れぼったい目の下を、和泉はハンカチで押さえている。穏やかに目を細めている征十郎に見つめられて、泣きすぎたと気恥ずかしくなった。

「はい。また、こちらへ受け取りに伺ってもよろしいですか?」
「ええ、征十郎さん。あなたはわたしの兄のような人だもの。いつでも歓迎するわ。……今日はみっともないところをお見せしてごめんなさいね」
「いいえ。お嬢さんにみっともないところなどありませんよ」
「征十郎さんは優しいお兄さまだわ」
「そんなことありません」
「今度はハンカチを受け取りにいらしてください。約束よ、征十郎さん」


 和泉は気づかなかった。話していくうちに喋り方が幼い少女のようだったことを。それがどう征十郎に映っていたのかを。




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