41 / 48
第三章:椿は艶やかに落ち濡れる
三
しおりを挟む
和泉は紅梅の枝を選びながら、長い間考え込んでいた。
昭和八年に嫁いてから三年になる昭和十一年の春は、不安が入り乱れている。
先ほど英嗣がくちづけをくれたのに、
帝都不祥事事件から一週間経ち、指名手配犯も逮捕されたが、新聞も雑誌もあれこれ事件のことを書き騒いでいる。首魁である二十数名の将校には同情的に書かれているのが目に入るのは、和泉もそう思っているからだろう。
彼らは悪戯に世を乱したのではなく、貧しい人々を助けようとしていたのは痛いほどわかる
和泉も今はこんな贅沢な暮らしをしているが、いつ困窮するともわからない。ひもじいのも寒いのも二度と体験したくない記憶だ。
そして征十郎の手紙からも一週間経った。
こうして考えてみたけれど……。英嗣さんの様子はいつもと変わらないし、おかしなところはないわ。
――訊ねればいいのに、できないのはどうしてかしら……?
「……やめましょう」
見てはいけない扉の向こうを見た後、幸せな生活が破綻するおとぎ話が多いように、知らぬが仏ということも世の中には多くある。だから詮索はしないでおこう。
そう自分に言い聞かせ、和泉は紅梅を抱えて玄関へ戻った。
……今夜、英嗣さんはお泊まりになるかしら?
この一週間、英嗣は帝都と邸を行ったり来たりで、ゆっくりしていない。浅草で紅梅餅を買う余裕があるなら、泊まって行くかもしれない。
ううん。お疲れのようだし引き止めては悪いわ。今日はお茶をご一緒できることを喜ばなければ。
――いつの間にかこんなにも欲張りになってしまっている。
けれども寂しくて、つい唇を指でなぞってしまう。これではただの欲求不満だと、和泉は打ち消すように頭を振った。
紅梅を玄関に飾り終え、応接間で話し合っている英嗣と毅に昼食の用事を取りに向かう。
ノックをして和泉が応接間に入ると、ふたりはピタリと話をやめてしまう。これもいつもと変わらないことだ。和泉と軽く話をして場を和ませるのは、いつも通り英嗣だ。
「今回の騒動で電話やラジオなどの音声媒体が優れていることが立証されましたね。うちもうまく取り込みたいところですね」
「電話やラジオなど、国有ではないか。……台数を売ることしかできんだろうし、電話はまだ国民には不慣れも多い」
「子女や若い娘などは電話に好意的に出るようですね。最初から電話がある環境、というのもあるのでしょうが……。和泉さんは電話に出ることがありますか?」
「い、いえっ。ベルが鳴るだけでどうしていいかわからずにオロオロしてしまって、いつもみなさんに取ってもらってからになります……」
昭和の女子が電話に恐れを抱くのは時代遅れなのだろうが、受話器を取ってからの対応に困ってしまう。
「ははは。慌てる和泉さんか。少し見てみたい気もします」
「そもそも電話は女が使うものではない」
「そう言いますがね、兄さん。電話の交換手は女性の方がよいというデータもあるぐらいですよ。それにお喋りは女性の方が得意です」
「おまえの方が得意だろうが」
「臨機応変に応じて喋っているだけですよ」
こうしていると仲の良い兄弟そのものだ。和泉だって兄とは全く似ていない。似ていない兄弟なんてどこにでもいる。だから、征十郎が言っていたことなど気にしてはいけない。
和泉にはもっと気にするべきことがあるはずだ。
「和泉さん、どうしましたか? ぼうっとして」
和泉はハッとして顔を上げた。英嗣と目が合った。彼の表情は明らかに穏やかではなかった。だが、ほんの瞬きをする間に優しい笑顔になっていた。
見間違いをしたのかしら?
「いえ……。お昼の御用聞きに参ったのに、話し込んでしまって」
「いいんですよ。僕たちも今日はたいした話をしませんしから。それでは、正午の鐘で昼食が取れるようお願いできますか?」
昭和八年に嫁いてから三年になる昭和十一年の春は、不安が入り乱れている。
先ほど英嗣がくちづけをくれたのに、
帝都不祥事事件から一週間経ち、指名手配犯も逮捕されたが、新聞も雑誌もあれこれ事件のことを書き騒いでいる。首魁である二十数名の将校には同情的に書かれているのが目に入るのは、和泉もそう思っているからだろう。
彼らは悪戯に世を乱したのではなく、貧しい人々を助けようとしていたのは痛いほどわかる
和泉も今はこんな贅沢な暮らしをしているが、いつ困窮するともわからない。ひもじいのも寒いのも二度と体験したくない記憶だ。
そして征十郎の手紙からも一週間経った。
こうして考えてみたけれど……。英嗣さんの様子はいつもと変わらないし、おかしなところはないわ。
――訊ねればいいのに、できないのはどうしてかしら……?
「……やめましょう」
見てはいけない扉の向こうを見た後、幸せな生活が破綻するおとぎ話が多いように、知らぬが仏ということも世の中には多くある。だから詮索はしないでおこう。
そう自分に言い聞かせ、和泉は紅梅を抱えて玄関へ戻った。
……今夜、英嗣さんはお泊まりになるかしら?
この一週間、英嗣は帝都と邸を行ったり来たりで、ゆっくりしていない。浅草で紅梅餅を買う余裕があるなら、泊まって行くかもしれない。
ううん。お疲れのようだし引き止めては悪いわ。今日はお茶をご一緒できることを喜ばなければ。
――いつの間にかこんなにも欲張りになってしまっている。
けれども寂しくて、つい唇を指でなぞってしまう。これではただの欲求不満だと、和泉は打ち消すように頭を振った。
紅梅を玄関に飾り終え、応接間で話し合っている英嗣と毅に昼食の用事を取りに向かう。
ノックをして和泉が応接間に入ると、ふたりはピタリと話をやめてしまう。これもいつもと変わらないことだ。和泉と軽く話をして場を和ませるのは、いつも通り英嗣だ。
「今回の騒動で電話やラジオなどの音声媒体が優れていることが立証されましたね。うちもうまく取り込みたいところですね」
「電話やラジオなど、国有ではないか。……台数を売ることしかできんだろうし、電話はまだ国民には不慣れも多い」
「子女や若い娘などは電話に好意的に出るようですね。最初から電話がある環境、というのもあるのでしょうが……。和泉さんは電話に出ることがありますか?」
「い、いえっ。ベルが鳴るだけでどうしていいかわからずにオロオロしてしまって、いつもみなさんに取ってもらってからになります……」
昭和の女子が電話に恐れを抱くのは時代遅れなのだろうが、受話器を取ってからの対応に困ってしまう。
「ははは。慌てる和泉さんか。少し見てみたい気もします」
「そもそも電話は女が使うものではない」
「そう言いますがね、兄さん。電話の交換手は女性の方がよいというデータもあるぐらいですよ。それにお喋りは女性の方が得意です」
「おまえの方が得意だろうが」
「臨機応変に応じて喋っているだけですよ」
こうしていると仲の良い兄弟そのものだ。和泉だって兄とは全く似ていない。似ていない兄弟なんてどこにでもいる。だから、征十郎が言っていたことなど気にしてはいけない。
和泉にはもっと気にするべきことがあるはずだ。
「和泉さん、どうしましたか? ぼうっとして」
和泉はハッとして顔を上げた。英嗣と目が合った。彼の表情は明らかに穏やかではなかった。だが、ほんの瞬きをする間に優しい笑顔になっていた。
見間違いをしたのかしら?
「いえ……。お昼の御用聞きに参ったのに、話し込んでしまって」
「いいんですよ。僕たちも今日はたいした話をしませんしから。それでは、正午の鐘で昼食が取れるようお願いできますか?」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる