惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第三章:椿は艶やかに落ち濡れる

 二

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 英嗣が乗った自動車を正門から和泉は見送った。
 例えようがない不安がざわざわ足から這い上がっている気がして、ひどく落ち着かない。
 春の強い風が道端のオオイヌノフグリやスミレを揺らして通り抜けていくのすら、不吉なものに思える。

 きっと不安が増えたからだわ。せめて……征十郎さんの安否でも確認できればいいのだけれど。

 自転車のブレーキ音がキキィッとかかる音に和泉はハッとした。
 自転車から降りた郵便配達員が、鞄から一通のぶ厚い封筒を取り出し、和泉に差し出す。

「こんにちは。お手紙ですよ」
「ご苦労さまです」

 いつも郵便物は女中頭から受け取っているから、とても新鮮だと和泉は微かに笑う。

「あら?」

 差出人の名前がなかったが、宛名はしっかりとした綺麗な男文字だった。――征十郎からかもしれない。

 あんな大事件を起こしてしまったことを悔いる手紙かしら。――と思ったが、それにしては届くのが早い。
 それとも、昨年の事を気にしたものだろうか。それで蹶起けっきの前に手紙を?
 和泉は部屋に戻り、文机から取り出したペーパーナイフで丁寧に開封した。

『和泉さま。 前略、その後ご無沙汰してをりますがお元氣でいらいますか? 私、征十郎は帝都より遠い滿州國まんしゅうこくの空の下で……』

「やっぱり征十郎さんだったのね。……よかったわ。事件に関わっていなくて」

 手紙を書いた主の名を見て、征十郎は国賊になっていなかったのだと、和泉はほっと胸を撫で下ろした。


 便箋の一枚目には、一月に満州国の奉天という都市に赴任している近況が書かれていた。二枚目には、昨年の十二月のことについて書かれていた。
 和泉の気持ちを確認せずに身請けなどと出すぎた真似をしたことは詫びるが、征十郎の気持ちは変わっていないと綴られている。

「……ごめんなさい。わたしはあなたが思うような清廉な女ではありません」

 征十郎の目の前でふしだらな真似をしていた覚えがあるから、断りの文句が上手く出るようで出ない。

 夫以外の人と愛し合っているような不道徳なわたしなんか忘れて、征十郎さんは幸せになってほしい。
 だから、お返事はしない方がいいわね……。

 三枚目以降に目を通しながら、思わず強く便箋を握りしめてしまった。わなわなと震える手に呼応して便箋も動く。

「嘘だわ。……征十郎さんはでたらめを言っているのよ……!」

 便箋に綴られているのは、でたらめばかりだった。
 遠藤英嗣が、遠藤の次期当主であること。
 エンドウツヨシは現遠藤の当主として存命であり、毅とは別人であると雑誌の切り抜きが添えられていた。
 そして、征十郎が実際に赤坂の待合で英嗣と会ったいきさつが細かに書かれており、そこでは英嗣が毅の主人であったように見受けられ、兄弟ではないのではないかと。
 それから以下は、征十郎の英嗣と毅についての推論がしたためられていた。

 どうしてこんな嘘を言うの?
 毅さんが英嗣さんの身代わりで影武者? なにかの安っぽい小説の読みすぎではないかしら。
 わたしは毅さんときちんと結婚式を挙げたわ!  それに、英嗣さんはいつだって毅さんのことを『兄さん』と呼ぶもの! ふたりは兄弟よ。似てない兄弟なんてごまんといるわよ。

 征十郎は英嗣と毅が憎くて、いや和泉が憎くて突拍子もない悪質な嘘を言っているのだ。そうに違いない。

「こんな嘘をつく人ではないと思っていたのに……」

 裏切られた怒りのせいで呼吸が乱れているのすら、整えられない。こんなに誰かに怒りを覚えるのなんて初めてに近い。
 兄のように思っていた征十郎が、英嗣の名誉を傷つける悪質な虚偽をするなんて思いたくないが、この手紙がなによりの証拠だ。

 流言飛語でわたしを惑わそうとしたから、宛先を書かず匿名にしたのでは?
 なんて卑劣な……!

 和泉は手紙を破り捨てようとする手を止めた。

 正妻なのに正門から入れなかった嫁入りを、突如思い出したのだ。
 直系の結婚式だというのに、本家の人間は誰もおらず番頭だけだった。それに義理の両親とは未だに会ったことがない。それは虚偽の花嫁と会わせられないからではないだろうか?
 結婚はしたけれど、写真がないのは証拠を残したくないから? だけど、あの大勢の来賓客は?
 偽物なら結婚する意味がないではないか。

 嘘よ。
 だって、英嗣さんがわたしに嘘を言うはずないもの。
 信じなきゃ。征十郎さんなんかよりも、英嗣さんを信じなくてどうするの?




 こうして昭和十一年の梅が満開になる季節を迎えることになる。
 時代とともに何かが変わる予感を感じながら。




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