13 / 25
第1章 空の旅路へ
第11話
しおりを挟む巨大な空の渦――
“空の牙(スカイファング)”が、目の前に迫っていた。
大気そのものが唸りを上げ、肉眼でもはっきりと見えるほど濃密な気流の帯が、空を引き裂き、島々を震わせていた。
ただの突風ではない。
あれは、空そのものが生み出した「牙」だ。
息を整えながら、トレインはハンドルを握り直した。
浮遊艇の操作は、ただ「走る」だけではない。
空を飛ぶには、
風圧、重力、浮力、推進力――
四つの力を同時に感じ取り、それらを絶妙に制御する技術が求められる。
ハンドルの微細な角度調整で舵を取り、足元の魔力調整板(フロウ・パネル)で浮力を変化させ、機体にかかる圧力を全身でバランスを取りながら分散させる。
一瞬の油断が、墜落を意味する。
しかもスカイファングのような超乱流では、すべての力が、瞬間瞬間で激しく揺れ動く。
読むだけでは、足りない。
空の呼吸と一体になるしかない。
(やるしかない……)
必死に自分に言い聞かせた。
アストリアでの日々。
じっちゃんに叩き込まれた、地味で、地道で、何百回と繰り返した基礎訓練。
あれがなかったら、ここには立てなかった。
ハンドルにかかる風の抵抗。
浮力が微かに落ちるタイミング。
推進力に押される重心のずれ。
すべてが、体に染みついている。
スカイファングの入り口に差しかかる。
艇がぐらりと傾ぐ。
通常の風脈では考えられない速度と方向の変化。
風が、牙を剥いた。
「っ、ぐ……!」
トレインは、ぐっと体を沈めた。
ハンドルを切る角度を、
ほんの一度だけ、外側にずらす。
それは、ダリオンに何度も叩き込まれた、“受け流し”の技術だった。
風に抗うな。
風を、受けろ。
艇が、傾きながらも、崩れずに滑った。
風に叩かれながら、押されながら、それでも軸を失わず、前へ前へと運ばれていく。
(よし……このまま……!)
トレインは、眼前に広がる渦の中心を見据えた。
スカイファングの核心部。
そこには、一筋だけ、細く安定した風の道が存在する。
だが、それを掴むのは至難の業だ。
渦の軌道、島の影、空気の密度、重力のぶれ。
すべてを一瞬で見極めなければ、届かない。
(行ける……!)
トレインは迷わなかった。
呼吸を合わせる。
風と一緒に、空と一緒に。
そして――
ハンドルを切った。
機体が、跳ねた。
空気を滑り、重力を蹴り、風の裂け目へ飛び込む。
スカイファングの咆哮を背に、
トレインは、核心部へと突き進んだ。
——ゴォッ
強烈な風が吹き荒ぶ中、エアライドの機体が跳ね上がる。
次の瞬間、トレインは、今まで味わったことのない感覚に襲われた。
体が、浮く。
いや、違う。
押し上げられ、引き裂かれ、ねじり潰されるような――
まるで、世界そのものがねじれているかのような感覚。
機体が、ぐらぐらと揺れた。
風が、暴れ狂っている。
まるで無数の手に引っ張られ、押し戻され、叩きつけられるようだった。
「っぐ、うおおおお……!!」
声が、風に千切れた。
ハンドルは両手で押さえ込んでいるのに、機体全体が意思を持ったかのように跳ね、暴れた。
シートベルトを締めていなければ、確実に振り落とされていた。
視界がぶれる。
漂流島の影が、上に、下に、めまぐるしく移動する。
(これが、スカイファング……!!)
知識では知っていた。
けれど、実際にその渦の中に入ると、文字通り“空そのものが生き物になった”かのような錯覚に陥る。
ただ速いだけではない。
ただ強いだけでもない。
風の畝りが、理屈を越えて絡みついてくる。
浮遊艇の魔力結晶が悲鳴を上げた。
過剰な風圧に耐えきれず、振動数が不安定になっている。
(落ち着け……落ち着け!)
トレインは、奥歯を噛み締めた。
艇が軋み、警告音が一瞬だけ鳴った。
——ボッ
世界が、傾いた。
風が押し寄せる。
空が、迫ってくる。
上も下も、右も左もない。
ただ、空そのものが生き物のように、喰らいついてこようとしていた。
無我夢中でハンドルを握った。
腕に、肩に、全身に、凄まじい負荷がかかる。
筋肉が軋み、関節がきしんだ。
艇が、横に煽られる。
風に引っ張られ、真横に押し倒されそうになる。
ぐらり、と世界が回転した。
(落ちる……!)
脳裏に赤い警告が閃く。
だが、トレインは手を離さなかった。
歯を食いしばり、舌を噛み、意識をつなぎとめる。
空に、呑まれるな。
押しつぶされる感覚を、両足で支えながら、
機体を微妙に傾ける。
重心をずらす。
風に、真正面から抗うのではなく、
受け流すように、身を滑らせる。
空気が鳴った。
雷のような音と共に、スカイファングの中心に引き込まれる力が強まった。
艇の振動が増す。
手が、しびれる。
ハンドルが、ぐらぐらと震える。
(ダメだ、力任せじゃ、負ける!)
頭の中に、ダリオンじっちゃんの声が響く。
――風は、押すな。
風に、身を投げろ。
トレインは、覚悟を決めた。
ほんの一瞬、
ハンドルを押さえ込む力を抜いた。
艇が、沈む。
空が、目の前に迫る。
恐怖が、喉元を絞める。
だが、次の瞬間。
風が、彼を支えた。
ただ抗うのではない。
ただ流されるのでもない。
受け入れ、任せ、
それでも、進む意志を持つ。
艇が、空気の裂け目に滑り込んだ。
ぐわん、と渦が唸った。
背中に、猛烈な風圧が叩きつけられる。
しかしトレインは、流されなかった。
艇の鼻先をわずかに上げ、
左肩を沈め、風の圧力を受け流す。
世界が、再び立ち上がる。
視界の向こう、細く光る抜け道が、かすかに見えた。
(行ける……まだ、行ける!)
トレインは、力を振り絞った。
浮遊艇《スウィフトウィング》に教えられた感覚を思い出す。
風を読むこと。
空を掴むこと。
すべてを信じて、
彼は風を裂いた。
ドシュッ——
艇が、渦を抜けた。
重力が、一瞬だけ消えた。
光の筋の向こう側に広がる、真っ青な空。
「…うわ」
トレインは、息を吐いた。
生きている。
空が続いている。
握り締めた手には熱が残っていた。
ふわりと掠める緊張の糸が、真横から差し込む光に溶け込むように、サッと解けた。
艇の腹を少しだけ傾け、
浮力を一瞬だけ切り離す。
機体が、風を滑り始めた。
大地を歩くように、
水面を渡るように。
ただ、空の上を、走る。
眼前に、かすかな光の筋が見えた。
細い、細い、核心部を貫く風の道。
そこへ飛び込む。
全身を、空気に任せる。
目も、耳も、感覚も、すべて風に委ねた。
世界が、音もなく反転した。
ただひとつ、風鈴の音だけが、胸の奥で鳴った。
——カラン、と。
そして、トレインは、核心部を抜けた。
爆ぜるように、風の渦が後ろへ消え、視界いっぱいに、澄んだ空が広がった。
そこには、静寂があった。
空に、認められた者だけが知る、たったひとつの青。
トレインは、呻くように息を吐いた。
まだ、終わりじゃない。
でも、確かに今——
ほんの一瞬だが、空とひとつになった。
0
あなたにおすすめの小説
家ごと異世界転移〜異世界来ちゃったけど快適に暮らします〜
奥野細道
ファンタジー
都内の2LDKマンションで暮らす30代独身の会社員、田中健太はある夜突然家ごと広大な森と異世界の空が広がるファンタジー世界へと転移してしまう。
パニックに陥りながらも、彼は自身の平凡なマンションが異世界においてとんでもないチート能力を発揮することを発見する。冷蔵庫は地球上のあらゆる食材を無限に生成し、最高の鮮度を保つ「無限の食料庫」となり、リビングのテレビは異世界の情報をリアルタイムで受信・翻訳する「異世界情報端末」として機能。さらに、お風呂の湯はどんな傷も癒す「万能治癒の湯」となり、ベランダは瞬時に植物を成長させる「魔力活性化菜園」に。
健太はこれらの能力を駆使して、食料や情報を確保し、異世界の人たちを助けながら安全な拠点を築いていく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
合成師
あに
ファンタジー
里見瑠夏32歳は仕事をクビになって、やけ酒を飲んでいた。ビールが切れるとコンビニに買いに行く、帰り道でゴブリンを倒して覚醒に気付くとギルドで登録し、夢の探索者になる。自分の合成師というレアジョブは生産職だろうと初心者ダンジョンに向かう。
そのうち合成師の本領発揮し、うまいこと立ち回ったり、パーティーメンバーなどとともに成長していく物語だ。
拾われ子のスイ
蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】
記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。
幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。
老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。
――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。
スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。
出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。
清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。
これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。
※週2回(木・日)更新。
※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。
※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載)
※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
あっとさん
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる