あけぼの銀行総務部真霊課

TAKA

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記憶

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「ごめんよ、由美子。別れよう」

 予想通りの言葉に由美子の思考は停止した。いつもなら男が耳元で囁く甘い言葉と、筋肉質の体から伝わる温もりと、少しの汗の匂いを全身で感じ、夢のような幸せな時間を過ごしているはずだった。だが、今日は最初からいつもと違っていた。男の顔は暗く、言葉少なで、由美子と目も合わせようとしなかった。

 由美子は男が言うだろう言葉を言わせまいと、いつも以上に饒舌に、明るく振る舞っていたが、とうとう男はその言葉を口にした。

「嫌よ、どうして、私、貴方のことが好き。貴方なしでは駄目なの。ねえ、別に奥さんと別れて欲しいなんて思ってないから、今のままでいいから捨てないで、ねえ」

 泣きながら男にすがりいた。男は由美子を抱きしめ、言葉につまりながら話しだした。

「俺も別れたくない。俺が愛しているのは由美子だけなんだ。でも、もう俺は駄目なんだ。もう俺は破滅なんだ」

 由美子は男の言葉を聞いて男から嫌われた訳ではないと安心すると同時に、二枚目でいつも颯爽としていて仕事もできる、全てに非の打ち所がない完璧な男が見せた弱さに驚いた。

「何があったのか話してみて。私が何とかできるかもしれないじゃない、ね。だから何があったか教えてちょうだい」

 由美子は小さな子供をあやすような感じで、男の力のない目を見て優しく言った。

「か、・・・か、かね、金、金がいるんだ」

 男が絞り出すように言った。

「お金、・・・えっ、なんで、どうして」

 由美子には意外な話だった。男は若いながらも次の異動では支店長になるのが確実と言われ、いずれ役員になるのは間違いないと噂されていたエリートだった。

「実は、昔からの知り合いがバイオマス発電へ投資していて・・・、いい話だったんで俺も投資をしたんだ。だがそいつが言うには、必要な金額が少し足りなくて、このまま投資が集まらないと事業がストップして今まで投資した分が返ってこないことになるって。・・・それで取引先の社長に銀行とは関係のない個人的な話として投資の話をしたんだ。そしたら面白そうだからってお金を出してくれたけど、この前、その予定地で地滑りが起きて全部がパアになってしまって。・・・だから社長にお金を返さなければいけないんだけど、そのお金がどうしても工面できなくて。・・・ああ、もう俺は終わりだ」

「そんなに弱気にならないで。ねえ、お金なら私が何とかする。少しは貯金もあるし。ねえ、必要な金額は幾らなの、教えて」

 由美子は自分の口座の残高を思い出しながら聞いた。

「いっ、一千万円」

「いっせ、・・・うん、大丈夫。私が、私が何とかしてあげる」

 由美子は思ったよりも大きな金額を聞いて驚いたが、自分がこの男を助けなければいけない、自分しかこの男を助けることができないと強く思った。

「ありがとう、由美子」

 男が由美子にキスをした。それから二人はいつも以上に濃厚な時間を過ごした。

「ごめんなさい、どうしてもこれだけしか準備できなかったの。これでどうにかならない」

 由美子は必死で集めた九百万円を男に渡した。そのお金は由美子の貯金三百万円と消費者金融から借りた二百万円、それに両親が由美子の結婚資金と自分達の老後のためにと貯めていた四百万円だった。由美子は親には自分が投資に失敗したと嘘をついてお金を出してもらった。心が痛かったが、自分が働き続け、少しずつ返していこうと自分を無理やり納得させた。

「ありがとう。でも、・・・実は社長が地滑りで事業が駄目になったことを知ったみたいで、明後日までに全額返すように言われたんだ。でないと銀行に全部話すって。・・・だから、もういいよ。本当にありがとう、由美子。・・・自業自得だから、もう」

 男が頭を抱え、小さな声で言った。力のない男の笑顔を見て、由美子は胸が締めつけられた。

「あっ、そうだ。・・・でも、いや、やっぱり駄目だ。・・・そんなこと、由美子にはさせられない」

 男がぶつぶつ言いながら頭を振った。

「何、何なの。教えて、ねえ、何か思いついたんでしょ。私、何でもやるから、ねえ」

 由美子は九百万円を集めたことよりも、百万円が足りなかったことが後ろめたくて、自分にできることは何でもやるつもりになっていた。

「うん、ありがとう。分かった、言うよ。けど、これから言うことは危険なことだから、嫌なら嫌とはっきり言って欲しい。いいね」

 男が真剣な顔で念を押してきた。

「由美子は出納をやってるだろ。一時的に支店のお金を借りることはできないかな。月末までには百万円が手に入るから、少しの間だけなんだけど」

 由美子はいきなりの提案に戸惑ったが、男が言うには、月末までには、昔お金を貸した友人からお金を返してもらえることになっており、それまでの間だけ百万円の都合がつけばいいとの話だった。

「分かったわ。多分大丈夫。月一回の現金検査は昨日だったから、今月はもう来ないし。うん、月末に戻せば大丈夫。毎日の締めは私がしているからどうとでも誤魔化せるしね」

 由美子は短期間なら上手くやれると思い、男の言う通りにすることにして、翌日、支店の金庫から百万円を持ち出し男に渡した。

 最初はいつばれるかもしれないとびくびくしていたが、何事もなく翌日が過ぎたので、月末までは大丈夫そうだと少しほっとした。

 しかし、由美子がお金を持ち出してから三日目のことだった。

「はい、これから現金検査を行います」

 夕方、いきなり現金検査が始まった。今月分は終わったはずなのに、いつもより多くの人数が支店に乗り込んできて検査を始めた。

 由美子は目の前が真っ暗になり、体が震えた。

「少しいいですか、応接でお話を聞いても」

 検査主任の年配の男が優しく声をかけてきた。由美子は黙って男について応接に入った。そこには青筋を立て怒りに顔を赤くしている支店長が座っていた。お金を持ち出したことがばれているようだった。

「さて、もうお分かりですよね。ご自身の口から何をしたのか話して下さい」

 検査主任が静かな口調で聞いてきた。由美子は諦め、自分が百万円を持ち出したことを話した。ただ、あくまで自分が使うために持ち出したことにし、男の話はしなかった。

「ふん、自分で使うか。あんな奴にお金を押しつけるのが自分のためなのか」

 支店長が立ち上がり大声で言った。検査主任は支店長をなだめ、由美子に向かって話した。

「実はですね、ある方から通報を受けまして・・・」

 検査主任は、男が以前から由美子につきまとわれ困っていたところ、由美子が何故か男がお金に困っていると思い込み、頼んでもいないお金を無理やり押しつけ、そのうち百万円は支店から持ち出したと言っている、との通報があったと言った。

 由美子は何がどうなっているのか分からなかった。男が裏切ったことは頭では理解したが、心が認めることを拒否していた。

「うそ、そんな、何かの間違いよ。あの人がそんなこと」

 その時、検査官の一人が応接に入ってきて、支店の現金が百万円足りないことを告げた。

「じゃあ、これから本部に行きましょう。そこでもう少しお話を聞きますね。それから、これから別のものがご自宅に行きますので、お電話を入れてもらえませんか。いきなり押しかけても驚かれるでしょうからね」

 検査主任の言葉を聞いて、由美子の心臓がはね上がり、両親の顔が頭をよぎった。両親にだけは知られたくなかった。

「え、なんで家に。親は関係ないです」
 
「そういう訳にはいきません。貴方は銀行のお金を持ち出したんです。ご自宅も一通り調べさせて頂きます」

 検査官は淡々と言い、取りつく島もなかった。

「嫌です。あの人と話をさせて、あの人に会わせて、そうすれば全部分かるから。家だけは、親にだけは、お願いします」

 由美子は泣きながら必死に訴えた。

「いい加減にしろ」

 支店長が大声をだし、テーブルを叩いた。

「いやああああ、いやあああああああ」

 由美子は叫ぶと応接室を飛び出し、そのまま店の外へ出ていった。気がつくと由美子の目の前には車のヘッドライトが迫っており、急ブレーキの音とともに意識が暗闇の中に落ちていった。

 どうして、・・・絶対に許さない

「うわああああ」

 タケルは叫びながら飛び起きた。全身が汗だくだった。

「はあ、はあ、ゆ、夢、夢か。はああ、かなりリアルだったけど」

 荒い息を吐きながら冷蔵庫から水を取り出し飲んだ。

「はああ、・・・ん、あの夢の中の女って、昨日の幽霊じゃ」

 洗面所で顔を洗い鏡を見た時に、ふと気がついた。

「それは、あの女の記憶やな」

 タケルの胸元で揺れながらウルラが言った。
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