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5.いい加減、気づいてくれる?

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ぐっすりと眠って、気分壮快で目覚めると、蔵田課長はいなかった。
そっと寝室を出ると、リビングのソファーで寝てた。

「……起きたんだ」

「えっ、あっ、はい!」

突然、蔵田課長の目が開いて、慌ててしまった。
手近においてあった眼鏡をかけると、まるで猫でも撫でるみたいに私のあたまを撫でてくる。

「よく眠れた?」

「……はい。
その、ベッド、」

「なに?
一緒に寝た方がよかった?」

くすり、いつも通りの意地悪な笑顔になる。
昨日のあれは、きっと私の見間違いに違いない。

「朝ご飯作るから、ちょっと待ってて」

あたまをぽんぽんすると、蔵田課長はソファーを立ってキッチンに向かった。

待っててと云われても。
なにをしていいのかわからない。

ふと、携帯を没収されていたのでそのあいだ、西田ママから何件着信が入っているのかとか考えてしまって、怖くなった。

「蔵田課長。
その、携帯……」

「ああ。
あれはしばらく、僕が没収しとくよ」

「ないと困るんですけど……」

「ほとんど西田さんからだよね。
君、友達いないから。
それともそんなに、西田さんとおしゃべりしたいの?」

――そんなに淋しいんだー?

くすくす笑ってる蔵田課長にかっと頬が熱くなる。

「そんなこと、ある訳ないでしょ!」

「ふーん、そう。
……ごはん、できたから」

「……」

ムカつくほど楽しそうに蔵田課長が並べた朝食を思わず睨んでしまう。

「……嫌いなんですけど、お粥」

「君が食欲がないって云うから、食べやすいようにお粥にしてあげたのに」

まあ、厚意には感謝するが。
嫌いなものは嫌いだし。

「味がしないから嫌いっていうか」

「梅干しおかずに食べればいいよね」

「梅干しも嫌いなんです」

「はぁっ。
だったら君は、なにが食べられるの?」

――ほんとわがままだよね、君は。

ため息ついて席を立った蔵田課長は、五分ほどでマグカップ片手に戻ってきた。

「これなら食べられるよね」

マグカップの中身は黄色い……プリン?

「あ、熱いからフーフーしてあげた方がいい?」

「子供扱い、すんなっ!」

思わず噛みついたら、レンズの向こうの瞳がにっこりと笑った。

帰ろうと思ったら、ミーティングだって引き留められ。
淹れられたカフェオレに紅茶派なんですけどってけちつけたら、文句云いながらミルクティを淹れてくれた。

「佐々くんはどうしたい?」

「その。
……もう会社、辞めようかな、なんて」

はぁっ。
いつものように、小さく蔵田課長の口からため息が落ちる。

……呆れること、なのかな。
でも、私もう、限界で。

「あのさ。
……もうちょっと僕を、頼ってくれないかな」

そう云われても。
いつも人を莫迦にしてるくせに、毎月愚痴を聞いてくれるのには、感謝してるし。

「上司としてじゃなくて、ひとりの男として、頼ってくれないかなぁ?」

「はいっ?」

意味がわかんなくてまじまじと蔵田課長の顔を見たら、またはぁって小さく、ため息をつかれた。

「一年、アプローチしてるんだよ?そろそろいい加減に気づいてくれない?」

「あの、えっと?」

再びはぁって、蔵田課長の口からため息が落ちる。

「いくら部下のメンタルケアも仕事のうちだからって、好きじゃなきゃ、ここまでこまめにケアしたりしないよ」

「あの、でも、いっつも私のこと、莫迦にしてますよね?」

「だって君、すぐムキになって面白いから」

……え?
そんな理由?

「それに、気分転換になってくれればいいかなって」

「えっと……」

そう云われれば、蔵田課長にからかわれるとそれまであった小さな悩みは忘れてた。
まさか、そんな気遣いがあったなんて気づかなかった。

「まあ確かに、本とか食とかあわないことは多いけど。
でも、君にだったらあわせてもいいかなって思うし」

「はあ」

確かに、いつも意見はあわないけど。
なんだかんだ云いながら、私の希望を通してくれてた。

「それに、君がおいしそうに食べてる方が、自分の好きなもの食べてるときより嬉しいし」

「はあ」

「だからさ。
……鳴海。
いい加減、俺に落ちろよ」

急に口調が変わった蔵田課長の指が顎を持ち上げ、レンズの向こうの、燃えるような瞳が私を見つめる。
どこを見ていいのかわからなくて視線を彷徨わせたものの。

「どこ見てるんだ。
俺を見ろ」

おそるおそる、蔵田課長と視線を合わせる。
やけどしそうなほどに熱い、その瞳に私はとうとう。

「ふぇ、ふぇーん」

「あ、泣いた」

蔵田課長は私から手を離すと、おかしそうにくすくす笑ってる。
そういうのにやっぱり腹が立つな、とか思いながらも、泣きながら涙と一緒に気持ちをぽろぽろこぼれ落としてた。

「あなたのことは気になってるけど、そんな怖い顔で迫られたら、なにも云えないし」

「うん」

「確かに、云うことには腹が立つけど、嫌いではないし。
仕事の面ではむしろ、尊敬してるし」

「うん」

「いつも私の愚痴や弱音を聞いてくれるのは嬉しかったし。
というか、あのときだけ優しい顔で笑うのは、反則だって思ってたし」

「うん」

「だから、総合すると、その、……好きってことで、間違いないんだと思います」

「ナルは可愛いな」

唐突にちゅっと柔らかいものが唇にふれ、涙が止まる。
みるみるうちにあたまのてっぺんまで上がっていった熱で、黙ってしまった私にやっぱり、蔵田課長はおかしそうにくすくす笑ってる。

「ナルの顔、もっとよく見たい。
それに」

蔵田課長の手が眼鏡を引き抜くと、顔が傾きながら近づいてきた。

唇にふれた柔らかいそれは、まるで感触を楽しむかのように、私の唇を啄んでる。

たまんなくなってはぁっと小さく甘い吐息を漏らしたら、あたたかくぬめった感触が入ってきた。

求められてぎこちなく求め返すと、肩を掴んでいた蔵田課長の手に力が入る。

唇の角度が変わるたび、どちらのものともわからない熱い吐息が漏れる。

溺れてしまいそうで怖くなって、思わず蔵田課長のシャツを掴んだら、右手で後ろあたまを押さえ込まれた。

身体中を駆け回る熱は出口を求め、涙になって落ちていく。

唇が離れると、指で涙を拭ってくれた。
じっと私を見つめる濡れた瞳はいつもと違ってて、いつまでたっても心臓は落ち着かない。

「いいよな?
一年もお預け喰らってたうえに、昨日は据え膳、我慢したんだぞ。
俺、もう待てない」

耳元で囁いて離れた蔵田課長の目は、いつもの草食動物から、ギラギラと獰猛な肉食獣の目に変わってて、……ゾクリとした。
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