契約結婚に初夜は必要ですか?

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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彼とは利害が一致しただけの、愛のない契約結婚のはずだった。
――なのに、いま。

「ねえ。
これはどういう状況なのか説明もらえる?」

こののしかかられた状態はまさに襲われる何秒か前。

「初夜だろ?」

さらりと言いのけ、困惑する私を無視して彼は顔を近づけてきた。

「えっ、あっ、ちょ……ん!」

強引に唇が重なり、すぐにぬるりと舌が滑り込んでくる。
思いのほか気持ちいいキスに溺れそうになりながら、なんでこんな事態になっているのか考えていた。



半月ほど前、私は契約社員で働いていた職場から唐突に契約解除を言い渡され、次の職場を探していた。

「そう簡単に見つからないのはわかっているけど」

コーヒーショップの一角でストローを咥え、甘ったるいストロベリーフラッペを吸い込む。
いつ新しい働き口が決まるかわからないいま、節約しないといけないのはわかっている。
が、たまには胸焼けしそうなくらいクリームたっぷりのドリンクで息抜きぐらいしないと挫けそうだ。

「あ、イチコだ」

唐突に男の声が降ってきて、睨んでいた携帯の画面から顔を上げる。

「最近、姿を見ないがどうしたんだ?」

長身眼鏡の男――飛田ひだは許可もなく私の前の椅子に座った。

「姿を見ないって、辞めるときに一応、挨拶したんですが?」

「そうだっけ?」

軽くとぼけた彼がコーヒーカップに口をつける。
それに苦笑いともつかないため息をついた。
彼はいつもそうなのだ、自分の研究以外に関心がない。

私が勤めていた会社は製薬会社で、飛田はそこの優秀な若き研究員だ。
研究の事務補助的部署にいた私は当然、飛田と面識がある。
彼は私を名前の市子で呼び、自分の事務作業を私によく押しつけてきた。
なのにもう辞めてひと月ほどがたとうとしているのに気づいていないのはさすがというか。
ちなみに私が二十六、飛田が二十七とひとつしか違わないので、気安い仲だ。

「なんで辞めたんだ?
イチコがいないと俺、困るんだけど」

お昼がまだだったのか、もう三時も過ぎたというのに飛田はスモークサーモンサンドをむさぼり食っている。

「なんでって、おたくの会社から一方的に切られたんですが?」

採用されたとき、一応契約期間ごとに更新だけれどよっぽどのことがないと解除はないと聞かされていた。
なのにたった一年で切られるなんて誰が思う?

「あー、もう俺、あの会社と関係ないし」

「……は?」

意味がわからなくてまじまじと飛田の顔を見た。
指についたソースを舐め、さらに彼が続ける。

「あそこ、いくら成果を上げようと給料変わらないし。
それどころか上司に論文盗まれたりするしさ。
もっと働きやすい会社にもうすぐ移る」

こともなげに言い、にぱっと飛田が笑う。
なんか羨ましいな。
いや、いままで資格とか取ってステップアップしてこなかった私が悪いんだけれど。

「でもさー、今度の会社は寮がないんだ。
食事、どうしよう……」

さも重要な問題かのように、がっくりと肩を落とし憂鬱なため息を飛田が吐く。
確かに彼にしては重要問題かもしれない。
料理はまったくできないので、食事は寮のまかないと社食に頼っていると前に言っていた。

「目下の悩みが食事だけだなんて、飛田さんが羨ましいよ。
私なんてこのままじゃ、いつアパート追い出されるか……」

条件のあうところに片っ端から当たっているが、面接までこぎ着けられたところはひとつもない。
貯蓄も大してなく、いつまでやっていけるか。

「……はぁーっ」

ため息がハモり、思わず顔を見あわせる。
レンズ越しに飛田と目があい、おかしくて笑っていた。

「イチコの悩みと俺の悩みがいっぺんに解決する方法があれば……」

そこまで言って飛田は宙を見たまま固まっている。

「……あった」

私の顔を再び見て、飛田がこれ以上ないほどいい顔で笑った。

「イチコは仕事が見つからなくて、できるだけお金を節約したんだよな?」

うんうんと黙って頷く。

「俺は食事を作ってくれて、できれば掃除や洗濯もしてくれる人が欲しい」

ならば、その答えは?
もうなんか、薄々わかっているけれど。

「イチコが俺と結婚すればいい」
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