1 / 4
1.恩人と私
しおりを挟む
……はぁーっ。
吐いた息はすでに白くない。
それほどまでに長い時間、ここでうずくまっているから。
細い路地から見上げた大通りにはたくさんの人が行き交っていた。
大多数の和装に混ざって、最近では珍しくなくなってきた洋装の人。
男、女。
大人、子供、老人。
時折通る、馬車や人力車が土煙を上げる。
でも、誰ひとり私に目を向ける人はいない。
……はぁーっ。
再び息を吐き出して目を閉じる。
腫れ上がった瞼で、長い時間目を開けているのはつらかった。
あちこちずきずきと痛む身体。
もしかしたら骨でも折れているのかもしれない。
今朝、とうとう追い出された屋敷は酷いところだった。
呉服商を営む旦那様も奥様もみんな、使用人のことはごみ扱いだった。
殴る蹴るは当たり前。
一度は、皿を投げつけられて額が切れた。
もちろん、医者になんて診せてもらえないから酷い跡になって髪で隠している。
けれど、そんなことをされても我慢するしかない。
私の家は貧しく、半ば口減らしでここへ奉公に出された。
だから追い出されても行くところがない。
今朝も味噌汁が熱すぎるって、突然あたまからかけられ殴られた。
ただ、いつもと違っていたのは、このところ商売が失敗続きで旦那様の虫の居所が悪かった、ってこと。
だから、私が動かなくなっても旦那様は私を殴り続けたし、立ち上がることもできない私をそのまま、屋敷から放り出した。
「雪だ」
聞こえる声に重い瞼を薄く開けると、地面にひらひらと白いものが舞い落ちてきた。
点々とシミを作っていくそれは、私の上にも少しずつ降り積もっていく。
寒いはずなのに、少しも感じない。
ああ、私はこのまま死ぬのかな。
ただただ、生きるためだけに生きてきた。
死んだところで、なにも変わらない気がする。
「そこでなにをしているんですか?」
誰かが、なにかを言っている。
もしかして、警官なのかもしれない。
こんなところにいるな、迷惑だ、と。
「寒いでしょう、それでは」
ふわり、かすかにいい匂いがしたかと思ったら、なにか暖かいものに包まれた。
のろのろと顔を上げ開かない瞼を必死で上げる。
ぼんやりと見えた視界の中で、洋装の若い男が立っていた。
「ああ、痛かったでしょう」
そっと、男の手が私の顔にふれ、思わずびくりと身体が震えた。
男は一瞬手を止めたが、そのまま自分のかけた外套で私をくるんで抱き上げる。
「私と一緒に、いらっしゃい」
温かい男の笑顔に身体を預け、目をつぶった。
きっと、この男は私をあの世に連れにきたお迎えなのだろう。
ならば……。
「祐典!
いい加減に俺の話を聞かないか!」
「だから。
何度お話しいただいても、私の気持ちは変わりませんから」
お茶を出しながら孝利さまと祐典さまの言い争いに、いつものことだとわかっていながらはらはらしてしまう。
「当主であるおまえが早く結婚しなければならいことくらいわかるだろ!」
孝利様が怒鳴りつけ、はぁーっと祐典さまの口から深いため息が落ちた。
「わかっていますよ、それくらい。
ただ、叔父上からご紹介いただく相手とは結婚しない、と言っているのです」
銀縁の、眼鏡の奥から送られる冷たい視線。
真っ赤な顔でわなわなと震えている孝利さまを無視して私からカップを受け取り、祐典さまは涼しい顔でお茶を飲んだ。
「知らないとでも思っているんですか?
叔父上がこの高遠の家の乗っ取りを考えていること」
カチャ、ソーサーにカップを戻した祐典さまが微笑む。
凍るように冷たく、美しい笑顔は目の奥が全く笑っていない。
「ま、また来るからな!」
足音荒く部屋を出、バン!と乱暴に孝利さまはドアを閉めた。
少しして女中の小さな悲鳴が聞こえてきたから、また誰かに八つ当たりしたのだろう。
「……はぁーっ」
ふたりっきりになった応接室、祐典さまが再び、深いため息を吐き出す。
「いい加減、諦めてくれないですかね」
カップを手に、お茶を一口。
「私はね、加代。
高遠の家など誰かにくれてやってかまわないのです。
けれど、あの叔父に譲ることだけは嫌なんですよ」
使用人の私にそんなことを言われても、できる返事などない。
曖昧に笑っていると、祐典さまは黙って皿の上からお菓子を摘んだ。
「風華堂のビスケットですか。
あの人、手みやげだけは外さないんですよね。
……ん、おいしい。
加代もどうですか?」
「は、はぁ……」
こうやってよく祐典さまは私にお菓子を勧めてくるが、そろそろ、それを気軽に受け取るわけにはいかないんだと、わかってくれないだろうか。
「まあいいです。
あとで、皆で分けて食べなさい」
「ありがとうございま……!」
差し出された皿を受け取る。
が、突然、佑典さまに手を掴まれた。。
思わず皿を落としそうになって、もう片方の手で慌てて掴み直す。
「最近、冷えてきたからですかね。
手が荒れています」
「えっと」
するり、私の手を撫でて、祐典さまの手が離れた。
「夜、私の部屋においでなさい」
「……はい」
大急ぎで食器をお盆に載せ、軽く一礼して逃げるように部屋をあとにする。
火がついたかのように熱い顔、ばくばくと早い心臓の鼓動。
このごろの私はどこか、おかしい。
祐典さまは前の屋敷を追い出され、死にそうになっていた私を救ってくれた恩人だ。
華族で、事業も成功してお金持ちの祐典さまからすればただ、哀れんでくれただけなのかもしれない。
あのまま死ねず、つらく苦しい人生をまだ歩まなければならいことがわかったときは恨みもした。
でも、いまは感謝している。
高遠の家は、前に奉公していた屋敷に比べなくても天国だった。
使用人なのにふかふかの布団を与えてくれて、ごはんもおなかいっぱい食べられる。
服だって、紺の着物に臙脂の帯、白の西洋風エプロンという奴が女中には揃いで支給されている。
訪れた孝利さまにたまに殴られることはあるが、祐典さまもほかの使用人も、私を殴ったりしない。
それどころか、小学校すら出ていない私に、祐典さまは執事の鷹司さんに命じて読み書きを教えてくれる。
この世に、こんなところがあったのかっていうくらい幸せで、こんな天国に連れてきてくれた祐典さまは神様じゃないかと思う。
吐いた息はすでに白くない。
それほどまでに長い時間、ここでうずくまっているから。
細い路地から見上げた大通りにはたくさんの人が行き交っていた。
大多数の和装に混ざって、最近では珍しくなくなってきた洋装の人。
男、女。
大人、子供、老人。
時折通る、馬車や人力車が土煙を上げる。
でも、誰ひとり私に目を向ける人はいない。
……はぁーっ。
再び息を吐き出して目を閉じる。
腫れ上がった瞼で、長い時間目を開けているのはつらかった。
あちこちずきずきと痛む身体。
もしかしたら骨でも折れているのかもしれない。
今朝、とうとう追い出された屋敷は酷いところだった。
呉服商を営む旦那様も奥様もみんな、使用人のことはごみ扱いだった。
殴る蹴るは当たり前。
一度は、皿を投げつけられて額が切れた。
もちろん、医者になんて診せてもらえないから酷い跡になって髪で隠している。
けれど、そんなことをされても我慢するしかない。
私の家は貧しく、半ば口減らしでここへ奉公に出された。
だから追い出されても行くところがない。
今朝も味噌汁が熱すぎるって、突然あたまからかけられ殴られた。
ただ、いつもと違っていたのは、このところ商売が失敗続きで旦那様の虫の居所が悪かった、ってこと。
だから、私が動かなくなっても旦那様は私を殴り続けたし、立ち上がることもできない私をそのまま、屋敷から放り出した。
「雪だ」
聞こえる声に重い瞼を薄く開けると、地面にひらひらと白いものが舞い落ちてきた。
点々とシミを作っていくそれは、私の上にも少しずつ降り積もっていく。
寒いはずなのに、少しも感じない。
ああ、私はこのまま死ぬのかな。
ただただ、生きるためだけに生きてきた。
死んだところで、なにも変わらない気がする。
「そこでなにをしているんですか?」
誰かが、なにかを言っている。
もしかして、警官なのかもしれない。
こんなところにいるな、迷惑だ、と。
「寒いでしょう、それでは」
ふわり、かすかにいい匂いがしたかと思ったら、なにか暖かいものに包まれた。
のろのろと顔を上げ開かない瞼を必死で上げる。
ぼんやりと見えた視界の中で、洋装の若い男が立っていた。
「ああ、痛かったでしょう」
そっと、男の手が私の顔にふれ、思わずびくりと身体が震えた。
男は一瞬手を止めたが、そのまま自分のかけた外套で私をくるんで抱き上げる。
「私と一緒に、いらっしゃい」
温かい男の笑顔に身体を預け、目をつぶった。
きっと、この男は私をあの世に連れにきたお迎えなのだろう。
ならば……。
「祐典!
いい加減に俺の話を聞かないか!」
「だから。
何度お話しいただいても、私の気持ちは変わりませんから」
お茶を出しながら孝利さまと祐典さまの言い争いに、いつものことだとわかっていながらはらはらしてしまう。
「当主であるおまえが早く結婚しなければならいことくらいわかるだろ!」
孝利様が怒鳴りつけ、はぁーっと祐典さまの口から深いため息が落ちた。
「わかっていますよ、それくらい。
ただ、叔父上からご紹介いただく相手とは結婚しない、と言っているのです」
銀縁の、眼鏡の奥から送られる冷たい視線。
真っ赤な顔でわなわなと震えている孝利さまを無視して私からカップを受け取り、祐典さまは涼しい顔でお茶を飲んだ。
「知らないとでも思っているんですか?
叔父上がこの高遠の家の乗っ取りを考えていること」
カチャ、ソーサーにカップを戻した祐典さまが微笑む。
凍るように冷たく、美しい笑顔は目の奥が全く笑っていない。
「ま、また来るからな!」
足音荒く部屋を出、バン!と乱暴に孝利さまはドアを閉めた。
少しして女中の小さな悲鳴が聞こえてきたから、また誰かに八つ当たりしたのだろう。
「……はぁーっ」
ふたりっきりになった応接室、祐典さまが再び、深いため息を吐き出す。
「いい加減、諦めてくれないですかね」
カップを手に、お茶を一口。
「私はね、加代。
高遠の家など誰かにくれてやってかまわないのです。
けれど、あの叔父に譲ることだけは嫌なんですよ」
使用人の私にそんなことを言われても、できる返事などない。
曖昧に笑っていると、祐典さまは黙って皿の上からお菓子を摘んだ。
「風華堂のビスケットですか。
あの人、手みやげだけは外さないんですよね。
……ん、おいしい。
加代もどうですか?」
「は、はぁ……」
こうやってよく祐典さまは私にお菓子を勧めてくるが、そろそろ、それを気軽に受け取るわけにはいかないんだと、わかってくれないだろうか。
「まあいいです。
あとで、皆で分けて食べなさい」
「ありがとうございま……!」
差し出された皿を受け取る。
が、突然、佑典さまに手を掴まれた。。
思わず皿を落としそうになって、もう片方の手で慌てて掴み直す。
「最近、冷えてきたからですかね。
手が荒れています」
「えっと」
するり、私の手を撫でて、祐典さまの手が離れた。
「夜、私の部屋においでなさい」
「……はい」
大急ぎで食器をお盆に載せ、軽く一礼して逃げるように部屋をあとにする。
火がついたかのように熱い顔、ばくばくと早い心臓の鼓動。
このごろの私はどこか、おかしい。
祐典さまは前の屋敷を追い出され、死にそうになっていた私を救ってくれた恩人だ。
華族で、事業も成功してお金持ちの祐典さまからすればただ、哀れんでくれただけなのかもしれない。
あのまま死ねず、つらく苦しい人生をまだ歩まなければならいことがわかったときは恨みもした。
でも、いまは感謝している。
高遠の家は、前に奉公していた屋敷に比べなくても天国だった。
使用人なのにふかふかの布団を与えてくれて、ごはんもおなかいっぱい食べられる。
服だって、紺の着物に臙脂の帯、白の西洋風エプロンという奴が女中には揃いで支給されている。
訪れた孝利さまにたまに殴られることはあるが、祐典さまもほかの使用人も、私を殴ったりしない。
それどころか、小学校すら出ていない私に、祐典さまは執事の鷹司さんに命じて読み書きを教えてくれる。
この世に、こんなところがあったのかっていうくらい幸せで、こんな天国に連れてきてくれた祐典さまは神様じゃないかと思う。
1
あなたにおすすめの小説
白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話
鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。
彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。
干渉しない。触れない。期待しない。
それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに――
静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。
越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。
壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。
これは、激情ではなく、
確かな意思で育つ夫婦の物語。
残り香
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
水城野乃花は煙草のにおいで目が覚めた。
自分は煙草を吸わないのになぜだろうと部屋の中を見渡すと、足下に男が座っている。
フードの付いた長い黒マントを纏う男は死神だと名乗った。
片思いの相手を事故で亡くし、自暴自棄になる野乃花と、彼女の元に現れた死神の、ある朝の話。
【短編】
甘い失恋
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私は今日、2年間務めた派遣先の会社の契約を終えた。
重い荷物を抱えエレベーターを待っていたら、上司の梅原課長が持ってくれた。
ふたりっきりのエレベター、彼の後ろ姿を見ながらふと思う。
ああ、私は――。
白衣と弁当
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
父にお弁当と届けに来た研究室。
背の高い白衣の男がばりばり駄菓子を囓りながらパソコンに向かってた。
その後も、訪れるたびに男は駄菓子、うまか棒を囓ってる。
曰く、この世で一番うまか棒がおいしく、これさえあれば他にいらないらしい。
そんな彼に私は……。
******
表紙 Photo by Ella Olsson on Unsplash
離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています
腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。
「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」
そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった!
今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。
冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。
彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――
チョコレートは澤田
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「食えば?」
突然、目の前に差し出された板チョコに驚いた。
同僚にきつく当たられ、つらくてトイレで泣いて出てきたところ。
戸惑ってる私を無視して、黒縁眼鏡の男、澤田さんは私にさらに板チョコを押しつけた。
……この日から。
私が泣くといつも、澤田さんは板チョコを差し出してくる。
彼は一体、なにがしたいんだろう……?
王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。
Wataru
恋愛
夜の街で、私は“偽名の男”に出会った。
ぶっきらぼうなのに、どこか寂しげで。
ほんの少しの優しさに、胸が高鳴った。
──まさかその人が、冷酷と噂の第一王子だなんて知らずに。
王宮で妃候補として暮らし始めた私は、
不可解な花束、噂、嫉妬、監視……
じわりと手のひらの上に絡め取られていく。
「妃候補のくせに、夜に男に触れて……面白ぇな」
無関心だと思っていた王子は、
私のすべてに目を光らせていた。
危険な笑みの裏で、王子は誰よりも執着していて──
けれど私はまだ知らない。
あの夜出会った“優しい彼”と、
王宮で君臨する“冷酷な王子”が同一人物だということを。
そして、
彼の溺愛が一度始まったら、もう逃げられないことも──。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる