冒険者の受難

清水薬子

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司祭の思惑

エリザベス

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 手紙に書かれた病室の番号と扉にかけられたプレートを見比べ、目当ての病室をついに見つけた。
 聞き耳を立てるが特に物音はせず、一度深呼吸をしてから扉をノックする。

 返答はない。留守だろうか。
 首を傾げながら扉を少しだけ開けて部屋の中を伺う。
 やはり人が動く気配はない。

 留守のようで、ガックリと肩を落としながらカーテンで仕切られた病室の中に入る。
 せめて見舞いの品だけでも置いていこうと、ベッドに視線を向けた。
 もぞもぞとベッドのシーツが動く。
 もしやと思いカーテンの裏に回ってみると、そこには穏やかな寝息を立てて眠っているサナの姿があった。
 恐らく前に見舞いに来た人物がしまい忘れたであろう椅子に腰掛ける。

 普段の生真面目そうな表情ではなく、力が抜けた年相応の寝顔を浮かべた彼女の口角はほんの少し緩んでいて、微笑んでいるように見える。
 枕元に買ってきたプリザーブドフラワーを置いてみると、驚くほど彼女とヒマワリは良く似合う。

 寝返りをうった拍子に顔にかかった髪をゆっくり払う。
 指先に伝わる微かな温度に脳髄がビリビリと痺れるような安堵感と多幸感に包まれる。

 無事で良かった。
 倒れた時とは違って随分と血色が良くなった顔を見て体の力が抜ける。
 医者から大体の話を聞いていたが、それでも実物に勝る説得力はない。

 ゆるゆると彼女の髪を梳いて頭を撫でる。
 これ以上触れれば起こしてしまうかもしれない、そんな警告じみた考えが頭の片隅で鳴り響く。
 まだ体力が回復しきっていないのか、深い眠りのなかにいるようで目を覚ます気配はない。
 目を覚まさないのをいいことにひとしきり満足するまで頭を撫で、更に調子に乗って彼女の白い頰を恐る恐る優しく突く。

 指に伝わるふにふにとした柔らかい感触は自分にはないもので、我を忘れて頰を堪能する。

 眠っている彼女を相手に愛の言葉でも囁いたら自分の思いが伝わらないだろうか。
 もし彼女に伝わったとして、彼女はなんと答えるのだろう。
 受け入れられる未来が全く見えなくて、心臓が締め付けられるように痛い。

 ーー期待を持たせるような態度をしないで欲しい。

 いっそ露骨に嫌われた方がスッキリ諦められるのに、彼女の中途半端な優しさが己の知りもしなかったどす黒い感情を引き摺り出す。
 思わず自分らしくない言葉を心のなかで連ねるが、件の相手はこちらの気も知らずに熟睡していた。
 それでもその寝顔を愛おしいと思ってしまう俺はとっくに諦めるなんて無理な話だろう、と自嘲めいたため息を溢す。
 夢のなかで何か食べているのか、むぐむぐと口を動かしている彼女は寝顔も相まってより幼く見えて、独占欲と庇護欲を唆られる。
 何度か味わったことのある唇に誘われるまま重ねた。

「んぅ……」

 起こさぬよう細心の注意を払ったが、悪戯が過ぎてサナの桜色の唇から悩ましげな声が漏れる。
 起こしてしまったかと思って硬直していると、サナはまた穏やかな寝息を立て始めた。
 バクバクと高鳴る心臓を手で押さえ、彼女を起こさないようゆっくり距離を取る。
 物音を立てないように部屋を退出し、誰もいない廊下で一人ため息をつく。

 何をやっているんだ、俺は。
 意識のない時にキスをするなんて、卑怯にも程がある。

 自己嫌悪に苛まれながら病院の外に出る。
 これ以上サナの側にいたら本当に取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。

 徹夜続きで最近碌に眠れてもいないから判断力が低下している。
 睡眠不足を解消してから見舞いに来たほうがいいと判断した俺は一度家に帰ることにした。



◇◆◇◆



 ベッドの上で何度目になるのか分からない寝返りを打つ。
 病院から帰る道中、どこを歩いて帰ったのかすら思い出せないほどピークに達していた眠気はうんともすんとも言わず姿を消していた。
 横たわった瞬間吹き飛ぶ眠気に殺意を覚える。

 理由はわかっている。
 久しぶりにサナに会ったから精神が昂っているのだろう。

「はぁ、何か別のことでもするか」

 忙しさを理由に疎かにしていた空間魔法に収納していた物品の手入れをしようと思い立ち、ベッドに横になったまま魔法を行使して取り出していく。
 そんな風に作業をしていればまた眠気が来るかもと期待を込めたが眠気は来ず、残すところあと僅かとなってしまった。

「なんだ、これ?」

 前にサナに着せた服に混じって見覚えのない衣服を見つけた。
 その三角形の布を明かりに透かしながらまじまじと見つめる。

「なんだ、パンツか」

 サナが似たような下着を持っていたような気がする。
 女性用の下着だということは間違いない。

 答えを見つけたので興味を無くし、仕舞おうとした矢先、一つの疑問が沸き起こる。
 すなわち、何故彼女の下着を自分が持っているのか。
 顔に熱が集まり、バネが弾けるように上体を起こす。

「返しそびれたのか」

 プールス村で回収し、なんだかんだやっているうちに忘れてしまい今に至ったというわけだ。
 催促がなかったことから恐らく彼女も忘れている、と願いたい。
 手に持った下着を見つめながらどうしたものかと頭を悩ませる。
 今更返すのもそれはそれで非常に宜しくない、気がする。
 かといって手元に残すのは更に問題であるし、勝手に処分する訳にもいかない。

「……どうしよう」

 口に出しても自分以外の人間がいない家の中に虚しく響くだけで、誰かが具体的な解決案を出してくれるわけでもない。
 答えが出ないまま、今日会ったばかりのサナの顔が脳裏を掠める。

「やべ」

 すぐさま体は反応して、タチの悪い欲望が鎌首をもたげる。
 冬場に似つかわしくない熱が体に篭り始め、ズボンを押し上げて窮屈になり始めた下半身の苦しさに耐えきれず衣服を緩める。
 最後に性欲を発散させたのはいつだったか、少なくとも片手では足りない日数なのは間違いない。

 今すぐ止めるべきだという理性を本能が押し退けてあの日彼女に着せた服を手繰り寄せる。
 真っ白のブラウスに顔を押し当てると仄かに甘い女性の香りが鼻腔を擽る。
 移り香とはいえ、想定していたよりも薄いそれに落胆を抱くが止める気はとうに失せた。

「ふーっ……ふーっ……」

 獣じみた荒い息で胸いっぱいに彼女の残滓を吸い込み、下着を見つめながら扱く。
 脳裏に思い描くのはやはり彼女の姿。
 一枚一枚服を剥いで、暴いた素肌をじっくり愛撫して、すっかり乱れた彼女を抱きしめて。
 妄想のなかの彼女はとろんとした瞳で与えられる快楽に酔いしれながらあられもない姿を曝す。
 ぷっくりと赤く色づいた唇は繰り返し俺の名前を呼んでキスを強請る。
 『貴方になら何をされてもいい』なんてあまりにも都合の良すぎる言葉を言わせることにほんの少しの罪悪感を抱くが、瞬く間に情欲が理性を押し流す。

「サナ、サナッ……うっ、く……」

 妄想の中の彼女が達すると同時に、小さな呻き声を漏らしながら限界を迎えて欲を吐き出す。
 どくどくと一定のリズムで吐き出される白濁を塵紙で拭いとってゴミ箱に放り捨てる。
 程よい疲労感に包まれているものの、目が冴えている。

「風呂でも入るか」

 息を詰めていたから微かに汗を吸い込んだ衣服が気持ち悪い。
 空間魔法で収納している間、時間の流れが違っているとはいえ、いつまでも彼女の服をこのままにしておく訳にもいかない。
 しばらく洗濯を疎かにしていたので、今着ている服も合わせて洗濯してしまおう。
 ついでに風呂に入れば眠気が来るかもしれない、と思い至って服を脱ぐ。

 そういえば、と記憶の片隅に引っかかったラッセルから押しつけられた贈り物の存在を思い出す。
 巷で流行りの成人向け恋愛小説にて新婚が甘ったるい台詞を吐きながら風呂場で致すという場面があった。
 個人で出版されたというそれは、印刷した紙を紐で束ねただけの簡素な作りでひたすら新婚が乳繰り合う光景を描写したものだった。
 なんでも著者は投獄されているため、次作は期待できないということでプレミア価格がついているらしいが全く興味が湧かなかった。
 読んだ時はくだらないと一蹴して本棚にしまったのは覚えているが、あれから見かけていない。

 恋人にでもなれば、一緒に風呂にでも入れるのだろうか。
 彼女は俺の知らない誰かと風呂に入ったのだろうか。

 そんな感傷を『下らない』と普段なら吐き捨てられたはずなのに、今日ばかりは妙に心にしこりを残した。



◇◆◇◆



 街の一角にある喫茶店にて、俺は妹のエリザベスを連れて昼食がてらコーヒーの香りを楽しんでいた。
 程よく眠気が訪れ掛けたところで、なんの約束もなくエリザベスが扉を叩いたことで俺の今日一日の予定が全てひっくり返された。
 何度言い聞かせても我が妹は性懲りもなく突撃してくるのだ、諦めが勝ってもう自由にさせる他ない。
 連日の徹夜明けで正直に言うと今すぐ家に帰って惰眠を貪りたい気分なのだが、困ったことにエリザベスは放っておくと後で厄介なことになる。
 前から気になっていたという喫茶店に行きたいと強請るので、今日はそこだけで勘弁してもらったのだ。
 小洒落た喫茶店のテラスから見える景色には、モルズ教団との決着から数日経ったというのに、まだ倒壊した家屋の瓦礫が散乱している。

「この前は災難だったわね、カイン。まさかモルズ教団に狙われていたなんて知らなかったわ!」
「俺も知らなかった」

 席に座り、店員へ注文を済ませた途端にエリザベスは持ち前の野次馬根性を発揮し始めた。
 噂好きの彼女らしく、どこの店の主人が被害に遭っただとか経済問題で家庭崩壊の危機にあるだとか個人情報がつらつらと捲し立てられる。
 生返事を返しながらサンドイッチを頬張っていると話題がモルズ教団の方へとシフトチェンジし始めた。

「この辺りで騒がれていたモルズ教団って野盗が信仰している宗教って聞いたわ! どんな教義なの?」
「分かりやすく言うなら、『死は救い』を掲げる組織だな」
「あら物騒ね、王都周辺だとまず聞かないわ。でもどうしてそんな宗教になったのかしら?」

 実家のある王都と新居からあまり外へ出たことがないエリザベスは興味津々と言った様子で更にモルズ教団について話を掘り下げてくる。
 教会からの箝口令がある以上、詳細は語れないので、随所随所ぼかさなければならないのだが、徹夜明けにはなかなか辛い頭脳労働を強いられる。

 少しでも気を抜くと瞼が休息を取ろうとするからコーヒーのカフェインで眠気覚ましを試みる。
 コーヒーは香りと眠気覚ましの効果は気に入っているが、苦味のなかに混じる雑味は何度口にしても慣れる事はない。
 疲労のせいもあってよく味もわからないままに嚥下すればようやく効き目が現れて意識が覚醒してきた。

「元はこの辺りに昔住んでいたと言う民族の精霊信仰がベースになっている。王の支配を拒み、闘いに明け暮れていたという。民の支持を得るため、戦争に合わせて変化したというのが通説だ」
「なるほどねえ。融和をとなえる唯一神教とは真逆だわ」

 熱心に信心があるわけでもないエリザベスは一人納得したようにクルクルとティースプーンで琥珀色の紅茶のなかの砂糖を混ぜ溶かす。
 エリザベスは教育熱心な俺の母親の影響で、所作から見ても分かるほど貴族としての振る舞いを好む。
 加えて母親と瓜二つのプラチナピンクヘアーにシルバーに輝く瞳というかなり目立つ外見もあって店内の男がエリザベスをチラチラと盗み見ている。

「そういえばお前、夫はどうした?」
「ん? ああ、彼ね。今日の午後に到着する予定よ」
「そうか。……何かあったのか?」
「ん~、マリッジブルーというやつかしら。彼が何を考えているのか分かりづらくて一緒にいるのが少し憂鬱なの」

 普段は勝気に微笑むエリザベスが珍しく目を伏せたことが気になって尋ねてみれば、彼女らしからぬ意外な答えが返ってきた。

「たしか、この街にも商会を構えてる伯爵家の跡取り……だったよな?」

 何せ顔を見たのは随分前のことなのであやふやな記憶を手繰り寄せる。
 商会の会計を任されているらしく、目が細くて神経質そうな男だったはずだ。

「そうよ。結婚前は誕生日の贈り物とかランチとか積極的に誘ってくれたのに、最近じゃあ『忙しい』の一点張り! ……私、子供欲しいのに家に帰ってきすらしないのよ!」
「そ、そうか。それは大変だな」

 どうやらエリザベスは気分転換がてら街に来たようだと安心し、ほんの少しだけ腹違いの妹に同情する。
 エリザベスは大の子供好きで、結婚できなければ保母になると本気で父親に直談判したこともあるぐらいだ。
 その彼女がようやく結婚できたというのに、肝心の相手がそういう態度では報われないのだろう。
 教会勤めで騎士から司祭になって日は浅いが、婦人からそういった“夜の悩み”に関する相談を受けたことがある。
 どう助言したものか一瞬考え込んでしまうと、俺の様子に気づいたエリザベスが慌てて両手を左右にブンブンと振る。

「カインがそこまで考え込む必要はないの! もう解決の目処が立ったし、手筈は既に整えたもの!」

 さっきとはうってかわって自信満々なエリザベスに嫌な予感が走る。
 フットワークが軽い彼女は、悪く言えば後先考えずに行動する節がある。
 実家にいた頃に彼女がしでかした数々の洒落にならない悪戯が脳裏を過る。
 今でも俺のトラウマになっている出来事ーー実家にいた頃、寝起きにいきなり見合いをさせられ、顔面にビンタを食らって手酷く断られた事件ーーの傷は未だに癒えておらず、思わず俺の顔が強張る。

「目処? 手筈? ……一体全体何をしでかすつもりだ?」
「やだ、そんな怖い顔しないでよ。あの件は本当に悪いと思ってるわ、まさか予定の三時間前に来るなんて思わなかったもの」

 エリザベスは口元で手を隠し、おほほほと気取って微笑む。

「ただ、ちょっと二人で過ごす愛の時間を濃密にするだけよ。そう、夫婦らしくね」
「…………何が起きても俺は知らないからな?」
「そんなこと言わないでよお! それで頼みなんだけどお……?」

 エリザベスはほんの少し上目遣いで俺の目を見つめた。
 少しだけ潤んだ瞳は微かに不安げに揺れ、きゅっと結んだ唇は緊張を現しているかのようだ。
 この小悪魔な表情に兄二人はたちまちのうちに懐柔され、なす術なく彼女の財布に成り果てている。
 まあ、黒髪黒眼の彼女サナに比べれば妹の笑みなど大したこともない。

「その手には乗らんぞ」
「そこを何とか!」
「あと二人も兄がいるだろ」
「選挙が近いから無理なのっ!」

 しつこく食い下がるエリザベスにうんざりしながらも彼女の言い分に苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
 たしかに貴族院の議員として活躍する兄二人は春の選挙に向けて活動を行なっている真っ最中である。
 王都、それも中央区ともなれば連絡するだけでも大変な作業を必要とする。

「……どうして俺なんだ? お気に入りの侍女やお前の母を頼ればいいだろう?」
「女性にはちょっと無理なの」

 理由を尋ねれば、エリザベスは周囲を気にしながらコソコソと小声で囁く。
 彼女の囁きは店内の客の話し声でかき消されて他の人には聞こえないだろう。

「それは、どういう意味だ?」

 嫌な予感はずばり的中し、さらに問い質せばエリザベスは茶色の小瓶を二つ机の上に置く。
 二つとも同じ薬品である事はなんとなく察したが、その効能まではラベルを確認しないとわからない。
 一瞬、麻薬や毒薬といった違法な劇薬の類かと勘ぐった目を向けるとエリザベスは慌ててラベルを俺の方に向けた。

『精力剤』

 所謂男性が使用するための“夜の悩み”用の薬品だ。
 素材は普段滅多に口にしないような怪しげな食材や香草、果てに毒々しいキノコなどをふんだんに使用している。
 高齢の司祭の話からそれについて聞いた事はあるが、お世話になったことはない。

「エリザベス、お前まさか盛るつもりか? 正気か?」
「ええ、そうよ。話し合う時間もくれない夫が悪いわ」

 なんと我が妹エリザベスは愛すべき夫に精力剤を盛って何がなんでも子供を設けるつもりらしい。
 これはエリザベスに内緒で夫に伝えるべきかそれともこの場で思い留まるように諭すべきか大いに悩む。

「それで、頼みというのはなんだ? 言っておくが、俺は盛らないからな」
「んもう、そんなこと頼まないわよ! 知りたいのはどれぐらい効果あるのかって話!」

 心外だと言わんばかりに頰を膨らませるエリザベスだが、俺はさらに眉間に皺が寄る。
 手に持ったコーヒーカップでも見えるほどなのだから、相当な顰め具合なのだろう。

「女が飲んでも効果があるわけじゃないし、こんなこと頼めるのカインだけなの~! おねが~い!」

 妹の言い分は確かに間違ってはいない。
 執事や庭師にこんなものを渡しているところを見つかれば、たちまちに不倫の疑惑が掛けられるだろう。
 貴族社会ではなによりも外聞を気にかける、というのは俺の実家で嫌というほど味わった。

「エリザベス、力になりたいのは山々だが……」

 恋人も過程があるわけでもない俺に使い時なんて自慰行為以外ありえない。
 エリザベスには悪いが、丁重に断るための口上を述べようとしたところで遮られる。

「ふふふっ、甘いわ! こっちは調べがついてるのよ」

 悪どい笑みを浮かべてエリザベスは豊満な胸元から一枚の紙を取り出した。
 机の上に置かれたその紙は、一般に流通しているものと質感が大きく異なり、艶々と光沢を持っている。
 実物かと見紛うほどの精巧な絵画は宮廷画家すら遠く及ばない技量の持ち主であることが伺える。

「由緒正しき貴族の子、それも司祭が女冒険者に夢中……お父様が聞いたらきっと憤死するわね。お義母様はきっと悲しむけど、お母様は両手を叩いて喜ぶわ」

 その絵の構図は実にシンプルで、ベッドで眠る女性に男性が口づけをするというものだ。
 その構図自体はありふれたもので特段問題はない。
 問題なのは、その精巧な絵のモデルに心当たりしかないこと。

「『格好の醜聞になるわ』って。お父様との約束、忘れてたの? 『結婚するならせめて社交界に連れて行ける身分にする』って」
「兄を脅すつもりか?」

 女性の外見はまさしくサナと瓜二つ。
 ご丁寧に枕元に置いた見舞いの品すら丁寧に書き込められているという点だ。

 一体いつの間に? どうやって?
 疑問は尽きないが、それよりも妹にサナのことがバレていることが大問題だ。

「脅すなんて人聞き悪いわ。『交渉する時は相手を良く知れ』お父様の言葉をお忘れで?」
「……お前はまさしくヤツの子だな。狡さと強請りに関して右に出るものはいないだろ」
「お褒めに預かり恐縮ですわ。彼女のこと他の誰かには言わないから、ね?」
「今回限りだ。この件を蒸し返したら……分かってるな?」

 舌打ちしながら小瓶を受け取り、絵画は半ばひったくるように奪い取って収納する。

「んもう、奪うなんて失礼ね! まあ、スペアがあるから別にいいんだけど~」

 厄介なことになった。
 背筋を伝う冷や汗が流れ落ちて気色悪い感触に鳥肌が立つ。
 恐らく、この絵画はエリザベスが最近囲い込んだという技術者がなんらかの魔道具を使ったのだろう。
 まったくもって、実の家族だというのに油断も隙もあったものじゃない。

「それにしても意外~! 『色恋沙汰など下らない』って吐き捨ててたカインにも春が訪れるなんて、私感激だわ!」
「お前がどう思っているのかはどうでもいいがその顔真似はやめろ」

 俺の真似をしているのか、眉を顰めながら低い声で呟くエリザベス。
 実の兄を数秒前に脅していたというのに、掌を返したように戯ける妹は心底恐ろしい。

「ねえねえ、どこまで進んだの? もう好きって伝えたの?」

 矢継ぎ早に降り注ぐ質問を全て黙殺し、コーヒーを飲み干す。

「どこが好きなの? 誰にも言わないし協力するから教えてー!!」
「帰る」

 食いつくエリザベスを切り捨て、机に少々乱暴に代金を叩きつける。

「奢ってくれてありがとー! 効果はあの魔道具で報告お願いねー!」

 足早に立ち去ろうとする俺に能天気なエリザベスの声が投げかけられた。
 積雪で転びやすい道を慎重に歩きつつも、心の中ではエリザベスへの罵倒と迂闊な自分への呪詛に支配されている。

 父との約束を忘れていたわけではない。
 どのみち叶わない恋だとうすうす覚悟はしていた。
 なまぬるい関係を続けられれば、と甘えた考えがあったことは否定しない。
 いずれ清算しなければと頭の片隅にはあったが、あまりにも彼女の体温は心地よかった。

 エリザベスの口は堅いわけではない。
 自分に有利と思えば他人の秘密は平然と暴露するし、自分に不利と思えば必要な情報であっても貝のように押し黙る。
 そのエリザベスが、異母兄妹の俺を蹴落とせる絶好のネタを墓まで持っていくとは考えられない。
 父に暴露されたが最後、実家に連れ戻すためにサナを『使う』ことは明確。
 このままズルズルと肉体関係を続ければさらに状況は悪化するのは必然であり、早急に手を打つ必要がある。
 決断し難い、究極の二択を迫られていた。

 手放すか、雁字搦めに捕らえるか。

 手放したとして、サナの安全が保証されるわけでもない。
 むしろ、エリザベスは更に調子に乗って無茶苦茶な要求を突きつけてくるだろう。
 ならば、答えは一つ。

「これも神の導きgod’s willか」

 奇しくも冬籠りの時期は近く、ポケットに入れた小瓶の中身がぽちゃんと音を立てる。
 まるで俺の決断を祝福するかのように次々と退路が絶たれていく。
 聖印を強く握りしめれば、掌に突起が突き刺さり高揚した気持ちを嗜めるように痛みが走る。

 せめて、少しでも快い環境になるように準備を整える必要がある。
 今日の予定を脳内で全て書き換えながら、進行方向を未だ復興の最中にある露天通りに変更する。

 嗚呼、こんなに買い物が楽しいと思ったのはいつぶりだろうか。
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