高嶺の娼婦は嫌われ騎士に囲われて

かべうち右近

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【番外編】乗馬のたのしみかた(上)

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 それはアルヤがエドフェルト邸に移り住んですぐのことである。アルヤとエーギルの二人が夕食時に、いつものようにとりとめのない話していた。

「では、乗馬を習ってみたいですわ」

 宝石やドレスがいらないのであれば、何かしたいことはないかと尋ねられての答えがこれである。

「乗馬?」
「ええ、わたくし、乗馬をしてみたかったと申し上げていましたでしょう?」
「それは覚えているが、一緒にスヴァルトに乗っただろう?」

 スヴァルトというのは、エーギルの愛馬のことだ。娼館からここに移動するときには、二人でスヴァルトに乗ってきた。そのときに乗馬をしたとエーギルは言いたいらしい。だがアルヤの主張は違う。

「あのときはエーギル様に乗せていただいただいただけですもの。それに横座りでしたわ」
「自分で手綱を持って、馬を操りたい、ということか」

 エーギルの問いかけに対し、ぱあっとアルヤの顔が明るくなる。だが次の瞬間には少しだけ心配そうな顔になった。

「だめでしょうか……?」
「いや、問題ない」
「ありがとうございます……!」

 そんな会話を経て、数日後、アルヤは特別な支度を終えた後に、庭へと呼び出された。

「まあ……!」

 庭で待っていたのは、エーギルと二頭の馬だった。一頭は見慣れた大きな黒馬のスヴァルトである。そしてもう一頭はスヴァルトより一回り小さい、栗毛の美しい馬である。まるで親子のように見えるサイズ差だが、スヴァルトは大型の品種なので、栗毛の馬が通常のサイズだろう。

「こちらの馬は?」

 馬のそばにいるエーギルに歩み寄りながら、アルヤは目を輝かせる。

「貴女の馬だ」
「もしかして、わたくしのためにご用意くださったの……?」

 心配そうに尋ねれば、エーギルは穏やかに微笑む。それからスヴァルトの首を撫でなでて見せた。

「貴女にスヴァルトは大きすぎるからな。それに貴女に合う馬を贈らせてくれ」

 確かに馬に乗るのであれば、自力で乗り降りできねば話しにならないだろう。だがスヴァルトほど大きいとなると、アルヤは自力では足をかけるあぶみにまで届かない。栗毛の馬なら、アルヤでもかろうじて足をかけることができそうだ。

(馬は高いと聞きますのに……)

 購入費も維持費も決して安いものではない。それを考えたらとんでもないが、何かを贈りたいというエーギルの気持ちだろう。

(嬉しいわ)

 ただ好意からくるその贈り物が嬉しくて、アルヤの目元が自然と緩む。

「ありがとうございます」

 心から礼を告げたところで、ついでに伝えたかったもう一つのことも思い出す。

「乗馬用の服もあつらえてくださって、ありがとうございます。……なんだかわたくしのわがままでとても散財させてしまったようで気が引けますが……」

「ああ。それも気にしなくていい。装飾品類を断ったんだからこれくらい贈らせてくれ。それに貴女はポールの帳簿付けを手伝ってくれたらしいじゃないか。その礼もせねばな」

「まあ」

(ポールったら、内緒だと言ったのに)

 しかしばれてしまっては仕方ない。

「ではありがたくちょうだいいたしますわ」

 くすくすと笑いながらアルヤは言って、今一度自分の身に着けている服を見下ろす。

「……貴女のそんな姿は新鮮だな」

 そう言いながら、エーギルはしげしげとアルヤの服を頭からつま先までじっくりと眺める。いつも彼の前では淑女らしいドレスか、煽情的なナイトウエア、あるいは全裸だから珍しいのだろう。

 今、アルヤが身に着けているのは、女性用の乗馬服だった。馬を跨げるように、スカートではなくズボンである。ただし、足の形は全くわからないごくごくゆったりとした形状だ。特別な支度というのはこれである。

 通常、貴族の女性はズボンを履かないものだし、乗馬もする女性の方が少ない。やる場合でもドレスのまま横座りで女性専用の鞍をつけて乗るのが今までは一般的だった。だが、近頃は女性も馬にきちんとまたがって乗馬をすることも増え、その時に足が隠れるようにズボンを着用する機会が増えてきているらしい。淑女の足は本来夫にしか見せないものだからだ。

 エーギルの視線に促されるように、アルヤは自身の足を見て、ズボンの端をつまんだ。

「わたくし、初めてズボンをはきましたわ。変じゃありませんか?」

 まるでドロワーズを重ねばきしているような感覚である。足首のところできゅっとすぼまっていて、ブーツを見せているのがなんだか新鮮だった。そもそもアルヤは普段、ブーツだってあまりはかない。

「いいや、貴女は何を着てもよく似合う」

「まあ、お上手ね」

 言いながらも嬉しくてアルヤはくすくすと笑み崩れる。

「世辞ではないが……」

「ええ、わかっておりますわ」

 娼館にいた頃ならお世辞だと思っただろうが、エーギルのくれる言葉の全てに嘘はない。それが素直に受け止められるのがくすぐったかった。戸惑い顔だったエーギルも、アルヤがわかっていて言っているのが伝わったのか、ほっとした様子で苦笑するとすっと手を出した。

「では早速、乗ってみよう」

「はい、ご指導お願いいたしますわ」

 そっと手をのせて、アルヤは栗毛の馬に近づく。

「まずは俺が乗る様子を見ててくれ」

「はい」

 エーギルが馬に乗る様子は何度も見ているはずだが、彼は一つ一つの動作をゆっくり、丁寧に見せてくれる。

「まず手綱を外して、馬の首にかける。それから手綱を持ちながら、左足をかけて……」

 最後に、ひらりとスヴァルトの上に跨った。難なくこなしているようで、スヴァルトの背はかなり高い。脚力が必要そうだった。

(以前乗せていただいたときには、エーギル様にお任せしていたけれど……わたくしできるかしら?)

「よし、次は貴女の番だ」

 再びひらりと馬上から降りてきたエーギルが、手綱を木に繋ぎなおして、今度は栗毛の馬の手綱を外す。

「よろしくお願いいたします。では……」

 馬に挨拶をしようと思って、名前を聞き忘れていたことを思い出す。

「この子のお名前は?」

「アルヤがつけてやってくれるか」

「あら……よろしいんですの?」

「貴女の馬だからな」

 こともなげに言われて、嬉しくなる。

(わたくしの馬……)

 宝石やドレスは、令嬢だった頃のみならず娼婦だった時も飽きるほど与えられていた。だが、愛玩動物は今まで許されたことがない。娼館で動物を飼うのは禁止されていたし、令嬢時代に傷ついた小鳥を世話したときには、父に『そんなものにうつつを抜かすな』と頬を叩かれて、捨てられてしまった。

「この子は、わたくしがお世話してよろしいんですの……?」

「ああ、基本的には厩番に任せようとは思っているが、貴女がそうしたいならやってくれ。馬も喜ぶだろう」

「そうなんですのね」

 禁止なんかせずに、エーギルはアルヤの意見をしっかりと聞いてくれる。

(わたくし、甘やかされているわ)

「エーギル様、わたくしのわがままを聞いてくださってありがとうございます」

「アルヤはもっとねだってもいいくらいだろう」

 言下にそんなことを言うエーギルに対し、アルヤはふるふると首を振った。

(エーギル様は、わたくしに色々なものをくださるわ)

 初めての想いに、初めての馬、それに初めての自由な暮らしだ。許されていなかったものをエーギルからはたくさん、与えられている。それを当たり前だと思っているらしいエーギルにほんのりと胸が温かくなる。

「いいえ、わたくしは、本当はエーギル様のおそばにいるだけで幸せですもの」

 心からそう言えば、エーギルは苦虫を潰したような顔になっただけで彼からの返事はない。

(リップサービスだと思ってらっしゃるのかしら。でも、少しずつわかっていただければいいわ)

 内心でそう思う。今これ以上言葉を重ねても、エーギルを困らせるだけだろう。

(今日も明日も、時間があるんだもの。今はいただいたものを享受しなきゃ)

 もう一歩、アルヤは栗毛の馬に近寄る。

「触らせてね」

 そっと声をかけて、首筋を撫でてやると馬がアルヤをちらりと見る。彼女に鼻を近づけてスンスンと匂いを確かめたあとは、好きにしていいとばかりに前を向いた。

「まあ、ずいぶん大人しい子ですのね」

「そうだな、初めての馬は温和なほうがいい。だから一番落ち着いたのを選んできた」

「温和……そうだったんですね。では、この子の名前はレンペアにしようと思います」

「レンペアか、いいんじゃないか」

 それはアルヤの国の言葉で『温和』という意味の言葉だ。安直かとも思ったが、エーギルは気にしていない様子だ。

「ありがとうございます。では、レンペア、これからよろしくお願いいたしますわね」

 もう一度首を撫でてやると、栗毛の馬――レンペアは了承したようにちらりとアルヤを見る。

「ではやろうか」

「ええ」

 レンぺアの首に手綱をかけるのは、今回はエーギルがやってくれた。手綱をアルヤに握らせると、エーギルはレンペアの首を抱えて動かないようにホールドしながら、アルヤの腰を支えてくれる。

「足をかけられるか」

「はい」

 さっき見たお手本通りに左足をかけたが、ずいぶんと高い位置だ。

(こんなに足をあげたのは初めてかしら?)

 思ってもなかった角度に驚いたところで、そうでもないなとすぐに考え直す。

(閨ではもっと大体に足を広げているもの。……淑女教育を考えていた頃なら、『馬を跨ぐ』なんて考えられなかったわね)

 なんだか単純に乗馬をさせてもらえるという事実以上にアルヤは楽しくなってくる。その内心の喜びを見抜いたのかどうかはわからないが、エーギルは続いての指導をする。

「俺が補助する。右足で地面を蹴るようにして、乗り上げるんだ。一気に跨げるか?」

「やってみますわ」

「ではタイミングを合わせよう。三、二、一……!」

「んっ」

 ぐんっと地を蹴って右足を振り上げると、エーギルが腰をぐっと持ち上げてくれた。

「まあ……! エーギル様! ありがとうございます、わたくしにもできましたわ!」

 補助がなければ一度では難しかっただろう。それでも初めてのことにアルヤは興奮する。はしゃいで見せれば、先ほど複雑な顔をしていたエーギルも自然と顔が緩んでいる。

「ああ、貴女は筋があるようだ。座った姿勢も悪くない」

「ふふふ、お世辞でも嬉しいですわ」

「高さは怖くないか?」

 問われてアルヤは周囲に視線を巡らせる。以前スヴァルトに乗ったときに比べたら低いが、それでもエーギルと目線が近いのでかなり高いのだろう。立っていた時には見えなかった庭の先のほうまでよく見える。

「大丈夫です。……エーギル様はこんな世界をご覧になっていらっしゃるのね?」

 つい感心した声が出てしまい、エーギルにほんのり笑われる。

「世界か。そうだな。高さが違えば、見えるものも違うのか」

「ええ、エーギル様はわたくしにいつも新しいものを見せてくださるわ」

「そうなのか……?」

 少し不思議そうではあるものの、アルヤが本音で言っているのが少しは伝わったのだろうか。エーギルは頷くと、わずかに目元を緩めた。

「よし、大丈夫そうだから続いてそのまま、馬を歩かせてみよう」

 レンペアの首を抱えていたのをやんわりと離したエーギルは、手綱を握っているアルヤの手にそっと触れる。

「まずは跨った状態で、一人で馬に揺られる感覚に慣れよう。できるだけ姿勢をまっすぐに保つようにしてみてくれ。俺が馬を引くから、アルヤは鞍を手綱代わりに持つといい」

「わかりましたわ」

 頷いたアルヤが鞍を持ったのを確認してから、エーギルが手綱をとってゆっくりと歩きだす。ぽくぽくという足音と共に、視界が上下に揺れた。

(あら……?)

 馬の背に乗るのは初めてではない。だが今日はエーギルの支えもない状態なので、揺れが強く感じられた。きっと初めて馬に乗る者は、この揺れで姿勢を崩してしまうのだろう。だというのに、初心者であるはずのアルヤは背筋を伸ばしたま、ブレることなく座っていられる。

(横乗りをしていた時には気づかなかったけれど……)

 この揺れには既視感がある。その正体に思い至って、アルヤはほんのりと微笑んだ。馬乗りになるこの姿勢は、アルヤには慣れきったものだ。理由がわかってしまえば、より姿勢を保ちやすくなった。その余裕ありげな様子に、様子をうかがいながらレンペアを引いてくれていたエーギルが目を瞠る。

「本当に貴女は乗馬の才があるようだな。姿勢が全くブレない。一人で乗ったのは本当に初めてか?」

「ええ、初めてですわ」

「では、もともと身体を動かすのが得意なのか? 何か運動の経験が?」

「特にありませんわ。得意がどうかはわかりませんが……姿勢を維持するコツのようなものには心当たりがございます」

 ふふ、と笑って見せればエーギルが首を傾げる。アルヤが思い至っているあることに、エーギルは気づかないらしい。

「それはなんだ?」

「乗馬にはあまり関係のないことですから、あとでお話しいたしますわ。今はご指導くださいませ」

 意味深に微笑んで見せれば、エーギルは眉間に皺を寄せたが、それ以上は追及しないことにしたらしい。「わかった」と答えて歩みを止めると、手綱をアルヤに渡してくれた。

「では次は手綱のさばき方を教えよう」

 そう言って次は止まり方、歩かせ方の手綱の操り方、馬を驚かせてしまうから避けたほうがいい動きなどを丁寧に教えてくれた。一通り教えてもらう頃には、アルヤは一人で庭を回れるようになっている。ゆっくりとではあるが、一周してエーギルのところまで戻ると、彼はまたしても目を瞠っていた。

「驚いたな……本当に上手だ」

「エーギル様のご指導が良いからですわ。それにレンペアが大人しく言うことを聞いてくれますから」

「貴女は謙遜が上手だな」

 そう話したところで、エーギルは心配そうな顔になった。

「疲れてはいないか?」

「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」

「では今度は一緒に並んで巡ってみよう」

「まあ! ぜひお願いいたします」

 そう言って、二人はレンペアとスヴァルトに乗って乗馬を楽しんだのだった。
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