33 / 34
【番外編】乗馬のたのしみかた(上)
しおりを挟む
それはアルヤがエドフェルト邸に移り住んですぐのことである。アルヤとエーギルの二人が夕食時に、いつものようにとりとめのない話していた。
「では、乗馬を習ってみたいですわ」
宝石やドレスがいらないのであれば、何かしたいことはないかと尋ねられての答えがこれである。
「乗馬?」
「ええ、わたくし、乗馬をしてみたかったと申し上げていましたでしょう?」
「それは覚えているが、一緒にスヴァルトに乗っただろう?」
スヴァルトというのは、エーギルの愛馬のことだ。娼館からここに移動するときには、二人でスヴァルトに乗ってきた。そのときに乗馬をしたとエーギルは言いたいらしい。だがアルヤの主張は違う。
「あのときはエーギル様に乗せていただいただいただけですもの。それに横座りでしたわ」
「自分で手綱を持って、馬を操りたい、ということか」
エーギルの問いかけに対し、ぱあっとアルヤの顔が明るくなる。だが次の瞬間には少しだけ心配そうな顔になった。
「だめでしょうか……?」
「いや、問題ない」
「ありがとうございます……!」
そんな会話を経て、数日後、アルヤは特別な支度を終えた後に、庭へと呼び出された。
「まあ……!」
庭で待っていたのは、エーギルと二頭の馬だった。一頭は見慣れた大きな黒馬のスヴァルトである。そしてもう一頭はスヴァルトより一回り小さい、栗毛の美しい馬である。まるで親子のように見えるサイズ差だが、スヴァルトは大型の品種なので、栗毛の馬が通常のサイズだろう。
「こちらの馬は?」
馬のそばにいるエーギルに歩み寄りながら、アルヤは目を輝かせる。
「貴女の馬だ」
「もしかして、わたくしのためにご用意くださったの……?」
心配そうに尋ねれば、エーギルは穏やかに微笑む。それからスヴァルトの首を撫でなでて見せた。
「貴女にスヴァルトは大きすぎるからな。それに貴女に合う馬を贈らせてくれ」
確かに馬に乗るのであれば、自力で乗り降りできねば話しにならないだろう。だがスヴァルトほど大きいとなると、アルヤは自力では足をかける鐙にまで届かない。栗毛の馬なら、アルヤでもかろうじて足をかけることができそうだ。
(馬は高いと聞きますのに……)
購入費も維持費も決して安いものではない。それを考えたらとんでもないが、何かを贈りたいというエーギルの気持ちだろう。
(嬉しいわ)
ただ好意からくるその贈り物が嬉しくて、アルヤの目元が自然と緩む。
「ありがとうございます」
心から礼を告げたところで、ついでに伝えたかったもう一つのことも思い出す。
「乗馬用の服もあつらえてくださって、ありがとうございます。……なんだかわたくしのわがままでとても散財させてしまったようで気が引けますが……」
「ああ。それも気にしなくていい。装飾品類を断ったんだからこれくらい贈らせてくれ。それに貴女はポールの帳簿付けを手伝ってくれたらしいじゃないか。その礼もせねばな」
「まあ」
(ポールったら、内緒だと言ったのに)
しかしばれてしまっては仕方ない。
「ではありがたくちょうだいいたしますわ」
くすくすと笑いながらアルヤは言って、今一度自分の身に着けている服を見下ろす。
「……貴女のそんな姿は新鮮だな」
そう言いながら、エーギルはしげしげとアルヤの服を頭からつま先までじっくりと眺める。いつも彼の前では淑女らしいドレスか、煽情的なナイトウエア、あるいは全裸だから珍しいのだろう。
今、アルヤが身に着けているのは、女性用の乗馬服だった。馬を跨げるように、スカートではなくズボンである。ただし、足の形は全くわからないごくごくゆったりとした形状だ。特別な支度というのはこれである。
通常、貴族の女性はズボンを履かないものだし、乗馬もする女性の方が少ない。やる場合でもドレスのまま横座りで女性専用の鞍をつけて乗るのが今までは一般的だった。だが、近頃は女性も馬にきちんとまたがって乗馬をすることも増え、その時に足が隠れるようにズボンを着用する機会が増えてきているらしい。淑女の足は本来夫にしか見せないものだからだ。
エーギルの視線に促されるように、アルヤは自身の足を見て、ズボンの端をつまんだ。
「わたくし、初めてズボンをはきましたわ。変じゃありませんか?」
まるでドロワーズを重ねばきしているような感覚である。足首のところできゅっとすぼまっていて、ブーツを見せているのがなんだか新鮮だった。そもそもアルヤは普段、ブーツだってあまりはかない。
「いいや、貴女は何を着てもよく似合う」
「まあ、お上手ね」
言いながらも嬉しくてアルヤはくすくすと笑み崩れる。
「世辞ではないが……」
「ええ、わかっておりますわ」
娼館にいた頃ならお世辞だと思っただろうが、エーギルのくれる言葉の全てに嘘はない。それが素直に受け止められるのがくすぐったかった。戸惑い顔だったエーギルも、アルヤがわかっていて言っているのが伝わったのか、ほっとした様子で苦笑するとすっと手を出した。
「では早速、乗ってみよう」
「はい、ご指導お願いいたしますわ」
そっと手をのせて、アルヤは栗毛の馬に近づく。
「まずは俺が乗る様子を見ててくれ」
「はい」
エーギルが馬に乗る様子は何度も見ているはずだが、彼は一つ一つの動作をゆっくり、丁寧に見せてくれる。
「まず手綱を外して、馬の首にかける。それから手綱を持ちながら、左足をかけて……」
最後に、ひらりとスヴァルトの上に跨った。難なくこなしているようで、スヴァルトの背はかなり高い。脚力が必要そうだった。
(以前乗せていただいたときには、エーギル様にお任せしていたけれど……わたくしできるかしら?)
「よし、次は貴女の番だ」
再びひらりと馬上から降りてきたエーギルが、手綱を木に繋ぎなおして、今度は栗毛の馬の手綱を外す。
「よろしくお願いいたします。では……」
馬に挨拶をしようと思って、名前を聞き忘れていたことを思い出す。
「この子のお名前は?」
「アルヤがつけてやってくれるか」
「あら……よろしいんですの?」
「貴女の馬だからな」
こともなげに言われて、嬉しくなる。
(わたくしの馬……)
宝石やドレスは、令嬢だった頃のみならず娼婦だった時も飽きるほど与えられていた。だが、愛玩動物は今まで許されたことがない。娼館で動物を飼うのは禁止されていたし、令嬢時代に傷ついた小鳥を世話したときには、父に『そんなものにうつつを抜かすな』と頬を叩かれて、捨てられてしまった。
「この子は、わたくしがお世話してよろしいんですの……?」
「ああ、基本的には厩番に任せようとは思っているが、貴女がそうしたいならやってくれ。馬も喜ぶだろう」
「そうなんですのね」
禁止なんかせずに、エーギルはアルヤの意見をしっかりと聞いてくれる。
(わたくし、甘やかされているわ)
「エーギル様、わたくしのわがままを聞いてくださってありがとうございます」
「アルヤはもっとねだってもいいくらいだろう」
言下にそんなことを言うエーギルに対し、アルヤはふるふると首を振った。
(エーギル様は、わたくしに色々なものをくださるわ)
初めての想いに、初めての馬、それに初めての自由な暮らしだ。許されていなかったものをエーギルからはたくさん、与えられている。それを当たり前だと思っているらしいエーギルにほんのりと胸が温かくなる。
「いいえ、わたくしは、本当はエーギル様のおそばにいるだけで幸せですもの」
心からそう言えば、エーギルは苦虫を潰したような顔になっただけで彼からの返事はない。
(リップサービスだと思ってらっしゃるのかしら。でも、少しずつわかっていただければいいわ)
内心でそう思う。今これ以上言葉を重ねても、エーギルを困らせるだけだろう。
(今日も明日も、時間があるんだもの。今はいただいたものを享受しなきゃ)
もう一歩、アルヤは栗毛の馬に近寄る。
「触らせてね」
そっと声をかけて、首筋を撫でてやると馬がアルヤをちらりと見る。彼女に鼻を近づけてスンスンと匂いを確かめたあとは、好きにしていいとばかりに前を向いた。
「まあ、ずいぶん大人しい子ですのね」
「そうだな、初めての馬は温和なほうがいい。だから一番落ち着いたのを選んできた」
「温和……そうだったんですね。では、この子の名前はレンペアにしようと思います」
「レンペアか、いいんじゃないか」
それはアルヤの国の言葉で『温和』という意味の言葉だ。安直かとも思ったが、エーギルは気にしていない様子だ。
「ありがとうございます。では、レンペア、これからよろしくお願いいたしますわね」
もう一度首を撫でてやると、栗毛の馬――レンペアは了承したようにちらりとアルヤを見る。
「ではやろうか」
「ええ」
レンぺアの首に手綱をかけるのは、今回はエーギルがやってくれた。手綱をアルヤに握らせると、エーギルはレンペアの首を抱えて動かないようにホールドしながら、アルヤの腰を支えてくれる。
「足をかけられるか」
「はい」
さっき見たお手本通りに左足をかけたが、ずいぶんと高い位置だ。
(こんなに足をあげたのは初めてかしら?)
思ってもなかった角度に驚いたところで、そうでもないなとすぐに考え直す。
(閨ではもっと大体に足を広げているもの。……淑女教育を考えていた頃なら、『馬を跨ぐ』なんて考えられなかったわね)
なんだか単純に乗馬をさせてもらえるという事実以上にアルヤは楽しくなってくる。その内心の喜びを見抜いたのかどうかはわからないが、エーギルは続いての指導をする。
「俺が補助する。右足で地面を蹴るようにして、乗り上げるんだ。一気に跨げるか?」
「やってみますわ」
「ではタイミングを合わせよう。三、二、一……!」
「んっ」
ぐんっと地を蹴って右足を振り上げると、エーギルが腰をぐっと持ち上げてくれた。
「まあ……! エーギル様! ありがとうございます、わたくしにもできましたわ!」
補助がなければ一度では難しかっただろう。それでも初めてのことにアルヤは興奮する。はしゃいで見せれば、先ほど複雑な顔をしていたエーギルも自然と顔が緩んでいる。
「ああ、貴女は筋があるようだ。座った姿勢も悪くない」
「ふふふ、お世辞でも嬉しいですわ」
「高さは怖くないか?」
問われてアルヤは周囲に視線を巡らせる。以前スヴァルトに乗ったときに比べたら低いが、それでもエーギルと目線が近いのでかなり高いのだろう。立っていた時には見えなかった庭の先のほうまでよく見える。
「大丈夫です。……エーギル様はこんな世界をご覧になっていらっしゃるのね?」
つい感心した声が出てしまい、エーギルにほんのり笑われる。
「世界か。そうだな。高さが違えば、見えるものも違うのか」
「ええ、エーギル様はわたくしにいつも新しいものを見せてくださるわ」
「そうなのか……?」
少し不思議そうではあるものの、アルヤが本音で言っているのが少しは伝わったのだろうか。エーギルは頷くと、わずかに目元を緩めた。
「よし、大丈夫そうだから続いてそのまま、馬を歩かせてみよう」
レンペアの首を抱えていたのをやんわりと離したエーギルは、手綱を握っているアルヤの手にそっと触れる。
「まずは跨った状態で、一人で馬に揺られる感覚に慣れよう。できるだけ姿勢をまっすぐに保つようにしてみてくれ。俺が馬を引くから、アルヤは鞍を手綱代わりに持つといい」
「わかりましたわ」
頷いたアルヤが鞍を持ったのを確認してから、エーギルが手綱をとってゆっくりと歩きだす。ぽくぽくという足音と共に、視界が上下に揺れた。
(あら……?)
馬の背に乗るのは初めてではない。だが今日はエーギルの支えもない状態なので、揺れが強く感じられた。きっと初めて馬に乗る者は、この揺れで姿勢を崩してしまうのだろう。だというのに、初心者であるはずのアルヤは背筋を伸ばしたま、ブレることなく座っていられる。
(横乗りをしていた時には気づかなかったけれど……)
この揺れには既視感がある。その正体に思い至って、アルヤはほんのりと微笑んだ。馬乗りになるこの姿勢は、アルヤには慣れきったものだ。理由がわかってしまえば、より姿勢を保ちやすくなった。その余裕ありげな様子に、様子をうかがいながらレンペアを引いてくれていたエーギルが目を瞠る。
「本当に貴女は乗馬の才があるようだな。姿勢が全くブレない。一人で乗ったのは本当に初めてか?」
「ええ、初めてですわ」
「では、もともと身体を動かすのが得意なのか? 何か運動の経験が?」
「特にありませんわ。得意がどうかはわかりませんが……姿勢を維持するコツのようなものには心当たりがございます」
ふふ、と笑って見せればエーギルが首を傾げる。アルヤが思い至っているあることに、エーギルは気づかないらしい。
「それはなんだ?」
「乗馬にはあまり関係のないことですから、あとでお話しいたしますわ。今はご指導くださいませ」
意味深に微笑んで見せれば、エーギルは眉間に皺を寄せたが、それ以上は追及しないことにしたらしい。「わかった」と答えて歩みを止めると、手綱をアルヤに渡してくれた。
「では次は手綱のさばき方を教えよう」
そう言って次は止まり方、歩かせ方の手綱の操り方、馬を驚かせてしまうから避けたほうがいい動きなどを丁寧に教えてくれた。一通り教えてもらう頃には、アルヤは一人で庭を回れるようになっている。ゆっくりとではあるが、一周してエーギルのところまで戻ると、彼はまたしても目を瞠っていた。
「驚いたな……本当に上手だ」
「エーギル様のご指導が良いからですわ。それにレンペアが大人しく言うことを聞いてくれますから」
「貴女は謙遜が上手だな」
そう話したところで、エーギルは心配そうな顔になった。
「疲れてはいないか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
「では今度は一緒に並んで巡ってみよう」
「まあ! ぜひお願いいたします」
そう言って、二人はレンペアとスヴァルトに乗って乗馬を楽しんだのだった。
「では、乗馬を習ってみたいですわ」
宝石やドレスがいらないのであれば、何かしたいことはないかと尋ねられての答えがこれである。
「乗馬?」
「ええ、わたくし、乗馬をしてみたかったと申し上げていましたでしょう?」
「それは覚えているが、一緒にスヴァルトに乗っただろう?」
スヴァルトというのは、エーギルの愛馬のことだ。娼館からここに移動するときには、二人でスヴァルトに乗ってきた。そのときに乗馬をしたとエーギルは言いたいらしい。だがアルヤの主張は違う。
「あのときはエーギル様に乗せていただいただいただけですもの。それに横座りでしたわ」
「自分で手綱を持って、馬を操りたい、ということか」
エーギルの問いかけに対し、ぱあっとアルヤの顔が明るくなる。だが次の瞬間には少しだけ心配そうな顔になった。
「だめでしょうか……?」
「いや、問題ない」
「ありがとうございます……!」
そんな会話を経て、数日後、アルヤは特別な支度を終えた後に、庭へと呼び出された。
「まあ……!」
庭で待っていたのは、エーギルと二頭の馬だった。一頭は見慣れた大きな黒馬のスヴァルトである。そしてもう一頭はスヴァルトより一回り小さい、栗毛の美しい馬である。まるで親子のように見えるサイズ差だが、スヴァルトは大型の品種なので、栗毛の馬が通常のサイズだろう。
「こちらの馬は?」
馬のそばにいるエーギルに歩み寄りながら、アルヤは目を輝かせる。
「貴女の馬だ」
「もしかして、わたくしのためにご用意くださったの……?」
心配そうに尋ねれば、エーギルは穏やかに微笑む。それからスヴァルトの首を撫でなでて見せた。
「貴女にスヴァルトは大きすぎるからな。それに貴女に合う馬を贈らせてくれ」
確かに馬に乗るのであれば、自力で乗り降りできねば話しにならないだろう。だがスヴァルトほど大きいとなると、アルヤは自力では足をかける鐙にまで届かない。栗毛の馬なら、アルヤでもかろうじて足をかけることができそうだ。
(馬は高いと聞きますのに……)
購入費も維持費も決して安いものではない。それを考えたらとんでもないが、何かを贈りたいというエーギルの気持ちだろう。
(嬉しいわ)
ただ好意からくるその贈り物が嬉しくて、アルヤの目元が自然と緩む。
「ありがとうございます」
心から礼を告げたところで、ついでに伝えたかったもう一つのことも思い出す。
「乗馬用の服もあつらえてくださって、ありがとうございます。……なんだかわたくしのわがままでとても散財させてしまったようで気が引けますが……」
「ああ。それも気にしなくていい。装飾品類を断ったんだからこれくらい贈らせてくれ。それに貴女はポールの帳簿付けを手伝ってくれたらしいじゃないか。その礼もせねばな」
「まあ」
(ポールったら、内緒だと言ったのに)
しかしばれてしまっては仕方ない。
「ではありがたくちょうだいいたしますわ」
くすくすと笑いながらアルヤは言って、今一度自分の身に着けている服を見下ろす。
「……貴女のそんな姿は新鮮だな」
そう言いながら、エーギルはしげしげとアルヤの服を頭からつま先までじっくりと眺める。いつも彼の前では淑女らしいドレスか、煽情的なナイトウエア、あるいは全裸だから珍しいのだろう。
今、アルヤが身に着けているのは、女性用の乗馬服だった。馬を跨げるように、スカートではなくズボンである。ただし、足の形は全くわからないごくごくゆったりとした形状だ。特別な支度というのはこれである。
通常、貴族の女性はズボンを履かないものだし、乗馬もする女性の方が少ない。やる場合でもドレスのまま横座りで女性専用の鞍をつけて乗るのが今までは一般的だった。だが、近頃は女性も馬にきちんとまたがって乗馬をすることも増え、その時に足が隠れるようにズボンを着用する機会が増えてきているらしい。淑女の足は本来夫にしか見せないものだからだ。
エーギルの視線に促されるように、アルヤは自身の足を見て、ズボンの端をつまんだ。
「わたくし、初めてズボンをはきましたわ。変じゃありませんか?」
まるでドロワーズを重ねばきしているような感覚である。足首のところできゅっとすぼまっていて、ブーツを見せているのがなんだか新鮮だった。そもそもアルヤは普段、ブーツだってあまりはかない。
「いいや、貴女は何を着てもよく似合う」
「まあ、お上手ね」
言いながらも嬉しくてアルヤはくすくすと笑み崩れる。
「世辞ではないが……」
「ええ、わかっておりますわ」
娼館にいた頃ならお世辞だと思っただろうが、エーギルのくれる言葉の全てに嘘はない。それが素直に受け止められるのがくすぐったかった。戸惑い顔だったエーギルも、アルヤがわかっていて言っているのが伝わったのか、ほっとした様子で苦笑するとすっと手を出した。
「では早速、乗ってみよう」
「はい、ご指導お願いいたしますわ」
そっと手をのせて、アルヤは栗毛の馬に近づく。
「まずは俺が乗る様子を見ててくれ」
「はい」
エーギルが馬に乗る様子は何度も見ているはずだが、彼は一つ一つの動作をゆっくり、丁寧に見せてくれる。
「まず手綱を外して、馬の首にかける。それから手綱を持ちながら、左足をかけて……」
最後に、ひらりとスヴァルトの上に跨った。難なくこなしているようで、スヴァルトの背はかなり高い。脚力が必要そうだった。
(以前乗せていただいたときには、エーギル様にお任せしていたけれど……わたくしできるかしら?)
「よし、次は貴女の番だ」
再びひらりと馬上から降りてきたエーギルが、手綱を木に繋ぎなおして、今度は栗毛の馬の手綱を外す。
「よろしくお願いいたします。では……」
馬に挨拶をしようと思って、名前を聞き忘れていたことを思い出す。
「この子のお名前は?」
「アルヤがつけてやってくれるか」
「あら……よろしいんですの?」
「貴女の馬だからな」
こともなげに言われて、嬉しくなる。
(わたくしの馬……)
宝石やドレスは、令嬢だった頃のみならず娼婦だった時も飽きるほど与えられていた。だが、愛玩動物は今まで許されたことがない。娼館で動物を飼うのは禁止されていたし、令嬢時代に傷ついた小鳥を世話したときには、父に『そんなものにうつつを抜かすな』と頬を叩かれて、捨てられてしまった。
「この子は、わたくしがお世話してよろしいんですの……?」
「ああ、基本的には厩番に任せようとは思っているが、貴女がそうしたいならやってくれ。馬も喜ぶだろう」
「そうなんですのね」
禁止なんかせずに、エーギルはアルヤの意見をしっかりと聞いてくれる。
(わたくし、甘やかされているわ)
「エーギル様、わたくしのわがままを聞いてくださってありがとうございます」
「アルヤはもっとねだってもいいくらいだろう」
言下にそんなことを言うエーギルに対し、アルヤはふるふると首を振った。
(エーギル様は、わたくしに色々なものをくださるわ)
初めての想いに、初めての馬、それに初めての自由な暮らしだ。許されていなかったものをエーギルからはたくさん、与えられている。それを当たり前だと思っているらしいエーギルにほんのりと胸が温かくなる。
「いいえ、わたくしは、本当はエーギル様のおそばにいるだけで幸せですもの」
心からそう言えば、エーギルは苦虫を潰したような顔になっただけで彼からの返事はない。
(リップサービスだと思ってらっしゃるのかしら。でも、少しずつわかっていただければいいわ)
内心でそう思う。今これ以上言葉を重ねても、エーギルを困らせるだけだろう。
(今日も明日も、時間があるんだもの。今はいただいたものを享受しなきゃ)
もう一歩、アルヤは栗毛の馬に近寄る。
「触らせてね」
そっと声をかけて、首筋を撫でてやると馬がアルヤをちらりと見る。彼女に鼻を近づけてスンスンと匂いを確かめたあとは、好きにしていいとばかりに前を向いた。
「まあ、ずいぶん大人しい子ですのね」
「そうだな、初めての馬は温和なほうがいい。だから一番落ち着いたのを選んできた」
「温和……そうだったんですね。では、この子の名前はレンペアにしようと思います」
「レンペアか、いいんじゃないか」
それはアルヤの国の言葉で『温和』という意味の言葉だ。安直かとも思ったが、エーギルは気にしていない様子だ。
「ありがとうございます。では、レンペア、これからよろしくお願いいたしますわね」
もう一度首を撫でてやると、栗毛の馬――レンペアは了承したようにちらりとアルヤを見る。
「ではやろうか」
「ええ」
レンぺアの首に手綱をかけるのは、今回はエーギルがやってくれた。手綱をアルヤに握らせると、エーギルはレンペアの首を抱えて動かないようにホールドしながら、アルヤの腰を支えてくれる。
「足をかけられるか」
「はい」
さっき見たお手本通りに左足をかけたが、ずいぶんと高い位置だ。
(こんなに足をあげたのは初めてかしら?)
思ってもなかった角度に驚いたところで、そうでもないなとすぐに考え直す。
(閨ではもっと大体に足を広げているもの。……淑女教育を考えていた頃なら、『馬を跨ぐ』なんて考えられなかったわね)
なんだか単純に乗馬をさせてもらえるという事実以上にアルヤは楽しくなってくる。その内心の喜びを見抜いたのかどうかはわからないが、エーギルは続いての指導をする。
「俺が補助する。右足で地面を蹴るようにして、乗り上げるんだ。一気に跨げるか?」
「やってみますわ」
「ではタイミングを合わせよう。三、二、一……!」
「んっ」
ぐんっと地を蹴って右足を振り上げると、エーギルが腰をぐっと持ち上げてくれた。
「まあ……! エーギル様! ありがとうございます、わたくしにもできましたわ!」
補助がなければ一度では難しかっただろう。それでも初めてのことにアルヤは興奮する。はしゃいで見せれば、先ほど複雑な顔をしていたエーギルも自然と顔が緩んでいる。
「ああ、貴女は筋があるようだ。座った姿勢も悪くない」
「ふふふ、お世辞でも嬉しいですわ」
「高さは怖くないか?」
問われてアルヤは周囲に視線を巡らせる。以前スヴァルトに乗ったときに比べたら低いが、それでもエーギルと目線が近いのでかなり高いのだろう。立っていた時には見えなかった庭の先のほうまでよく見える。
「大丈夫です。……エーギル様はこんな世界をご覧になっていらっしゃるのね?」
つい感心した声が出てしまい、エーギルにほんのり笑われる。
「世界か。そうだな。高さが違えば、見えるものも違うのか」
「ええ、エーギル様はわたくしにいつも新しいものを見せてくださるわ」
「そうなのか……?」
少し不思議そうではあるものの、アルヤが本音で言っているのが少しは伝わったのだろうか。エーギルは頷くと、わずかに目元を緩めた。
「よし、大丈夫そうだから続いてそのまま、馬を歩かせてみよう」
レンペアの首を抱えていたのをやんわりと離したエーギルは、手綱を握っているアルヤの手にそっと触れる。
「まずは跨った状態で、一人で馬に揺られる感覚に慣れよう。できるだけ姿勢をまっすぐに保つようにしてみてくれ。俺が馬を引くから、アルヤは鞍を手綱代わりに持つといい」
「わかりましたわ」
頷いたアルヤが鞍を持ったのを確認してから、エーギルが手綱をとってゆっくりと歩きだす。ぽくぽくという足音と共に、視界が上下に揺れた。
(あら……?)
馬の背に乗るのは初めてではない。だが今日はエーギルの支えもない状態なので、揺れが強く感じられた。きっと初めて馬に乗る者は、この揺れで姿勢を崩してしまうのだろう。だというのに、初心者であるはずのアルヤは背筋を伸ばしたま、ブレることなく座っていられる。
(横乗りをしていた時には気づかなかったけれど……)
この揺れには既視感がある。その正体に思い至って、アルヤはほんのりと微笑んだ。馬乗りになるこの姿勢は、アルヤには慣れきったものだ。理由がわかってしまえば、より姿勢を保ちやすくなった。その余裕ありげな様子に、様子をうかがいながらレンペアを引いてくれていたエーギルが目を瞠る。
「本当に貴女は乗馬の才があるようだな。姿勢が全くブレない。一人で乗ったのは本当に初めてか?」
「ええ、初めてですわ」
「では、もともと身体を動かすのが得意なのか? 何か運動の経験が?」
「特にありませんわ。得意がどうかはわかりませんが……姿勢を維持するコツのようなものには心当たりがございます」
ふふ、と笑って見せればエーギルが首を傾げる。アルヤが思い至っているあることに、エーギルは気づかないらしい。
「それはなんだ?」
「乗馬にはあまり関係のないことですから、あとでお話しいたしますわ。今はご指導くださいませ」
意味深に微笑んで見せれば、エーギルは眉間に皺を寄せたが、それ以上は追及しないことにしたらしい。「わかった」と答えて歩みを止めると、手綱をアルヤに渡してくれた。
「では次は手綱のさばき方を教えよう」
そう言って次は止まり方、歩かせ方の手綱の操り方、馬を驚かせてしまうから避けたほうがいい動きなどを丁寧に教えてくれた。一通り教えてもらう頃には、アルヤは一人で庭を回れるようになっている。ゆっくりとではあるが、一周してエーギルのところまで戻ると、彼はまたしても目を瞠っていた。
「驚いたな……本当に上手だ」
「エーギル様のご指導が良いからですわ。それにレンペアが大人しく言うことを聞いてくれますから」
「貴女は謙遜が上手だな」
そう話したところで、エーギルは心配そうな顔になった。
「疲れてはいないか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
「では今度は一緒に並んで巡ってみよう」
「まあ! ぜひお願いいたします」
そう言って、二人はレンペアとスヴァルトに乗って乗馬を楽しんだのだった。
32
あなたにおすすめの小説
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
【書籍化決定】憂鬱なお茶会〜殿下、お茶会を止めて番探しをされては?え?義務?彼女は自分が殿下の番であることを知らない。溺愛まであと半年〜
降魔 鬼灯
恋愛
コミカライズ化決定しました。
ユリアンナは王太子ルードヴィッヒの婚約者。
幼い頃は仲良しの2人だったのに、最近では全く会話がない。
月一度の砂時計で時間を計られた義務の様なお茶会もルードヴィッヒはこちらを睨みつけるだけで、なんの会話もない。
お茶会が終わったあとに義務的に届く手紙や花束。義務的に届くドレスやアクセサリー。
しまいには「ずっと番と一緒にいたい」なんて言葉も聞いてしまって。
よし分かった、もう無理、婚約破棄しよう!
誤解から婚約破棄を申し出て自制していた番を怒らせ、執着溺愛のブーメランを食らうユリアンナの運命は?
全十話。一日2回更新
7月31日完結予定
1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。
尾道小町
恋愛
登場人物紹介
ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢
17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。
ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。
シェーン・ロングベルク公爵 25歳
結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。
ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳
優秀でシェーンに、こき使われている。
コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳
ヴィヴィアンの幼馴染み。
アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳
シェーンの元婚約者。
ルーク・ダルシュール侯爵25歳
嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。
ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。
ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。
この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。
ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳
ロミオ王太子殿下の婚約者。
ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳
私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。
一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。
正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる