18 / 19
番外編
【番外編】乗馬のたのしみかた(上)
しおりを挟む
それはアルヤがエドフェルト邸に移り住んですぐのことである。アルヤとエーギルの二人が夕食時に、いつものようにとりとめのない話していた。
「では、乗馬を習ってみたいですわ」
宝石やドレスがいらないのであれば、何かしたいことはないかと尋ねられての答えがこれである。
「乗馬?」
「ええ、わたくし、乗馬をしてみたかったと申し上げていましたでしょう?」
「それは覚えているが、一緒にスヴァルトに乗っただろう?」
スヴァルトというのは、エーギルの愛馬のことだ。娼館からここに移動するときには、二人でスヴァルトに乗ってきた。そのときに乗馬をしたとエーギルは言いたいらしい。だがアルヤの主張は違う。
「あのときはエーギル様に乗せていただいただいただけですもの。それに横座りでしたわ」
「自分で手綱を持って、馬を操りたい、ということか」
エーギルの問いかけに対し、ぱあっとアルヤの顔が明るくなる。だが次の瞬間には少しだけ心配そうな顔になった。
「だめでしょうか……?」
「いや、問題ない」
「ありがとうございます……!」
そんな会話を経て、数日後、アルヤは特別な支度を終えた後に、庭へと呼び出された。
「まあ……!」
庭で待っていたのは、エーギルと二頭の馬だった。一頭は見慣れた大きな黒馬のスヴァルトである。そしてもう一頭はスヴァルトより一回り小さい、栗毛の美しい馬である。まるで親子のように見えるサイズ差だが、スヴァルトは大型の品種なので、栗毛の馬が通常のサイズだろう。
「こちらの馬は?」
馬のそばにいるエーギルに歩み寄りながら、アルヤは目を輝かせる。
「貴女の馬だ」
「もしかして、わたくしのためにご用意くださったの……?」
心配そうに尋ねれば、エーギルは穏やかに微笑む。それからスヴァルトの首を撫でなでて見せた。
「貴女にスヴァルトは大きすぎるからな。それに貴女に合う馬を贈らせてくれ」
確かに馬に乗るのであれば、自力で乗り降りできねば話しにならないだろう。だがスヴァルトほど大きいとなると、アルヤは自力では足をかける鐙にまで届かない。栗毛の馬なら、アルヤでもかろうじて足をかけることができそうだ。
(馬は高いと聞きますのに……)
購入費も維持費も決して安いものではない。それを考えたらとんでもないが、何かを贈りたいというエーギルの気持ちだろう。
(嬉しいわ)
ただ好意からくるその贈り物が嬉しくて、アルヤの目元が自然と緩む。
「ありがとうございます」
心から礼を告げたところで、ついでに伝えたかったもう一つのことも思い出す。
「乗馬用の服もあつらえてくださって、ありがとうございます。……なんだかわたくしのわがままでとても散財させてしまったようで気が引けますが……」
「ああ。それも気にしなくていい。装飾品類を断ったんだからこれくらい贈らせてくれ。それに貴女はポールの帳簿付けを手伝ってくれたらしいじゃないか。その礼もせねばな」
「まあ」
(ポールったら、内緒だと言ったのに)
しかしばれてしまっては仕方ない。
「ではありがたくちょうだいいたしますわ」
くすくすと笑いながらアルヤは言って、今一度自分の身に着けている服を見下ろす。
「……貴女のそんな姿は新鮮だな」
そう言いながら、エーギルはしげしげとアルヤの服を頭からつま先までじっくりと眺める。いつも彼の前では淑女らしいドレスか、煽情的なナイトウエア、あるいは全裸だから珍しいのだろう。
今、アルヤが身に着けているのは、女性用の乗馬服だった。馬を跨げるように、スカートではなくズボンである。ただし、足の形は全くわからないごくごくゆったりとした形状だ。特別な支度というのはこれである。
通常、貴族の女性はズボンを履かないものだし、乗馬もする女性の方が少ない。やる場合でもドレスのまま横座りで女性専用の鞍をつけて乗るのが今までは一般的だった。だが、近頃は女性も馬にきちんとまたがって乗馬をすることも増え、その時に足が隠れるようにズボンを着用する機会が増えてきているらしい。淑女の足は本来夫にしか見せないものだからだ。
エーギルの視線に促されるように、アルヤは自身の足を見て、ズボンの端をつまんだ。
「わたくし、初めてズボンをはきましたわ。変じゃありませんか?」
まるでドロワーズを重ねばきしているような感覚である。足首のところできゅっとすぼまっていて、ブーツを見せているのがなんだか新鮮だった。そもそもアルヤは普段、ブーツだってあまりはかない。
「いいや、貴女は何を着てもよく似合う」
「まあ、お上手ね」
言いながらも嬉しくてアルヤはくすくすと笑み崩れる。
「世辞ではないが……」
「ええ、わかっておりますわ」
娼館にいた頃ならお世辞だと思っただろうが、エーギルのくれる言葉の全てに嘘はない。それが素直に受け止められるのがくすぐったかった。戸惑い顔だったエーギルも、アルヤがわかっていて言っているのが伝わったのか、ほっとした様子で苦笑するとすっと手を出した。
「では早速、乗ってみよう」
「はい、ご指導お願いいたしますわ」
そっと手をのせて、アルヤは栗毛の馬に近づく。
「まずは俺が乗る様子を見ててくれ」
「はい」
エーギルが馬に乗る様子は何度も見ているはずだが、彼は一つ一つの動作をゆっくり、丁寧に見せてくれる。
「まず手綱を外して、馬の首にかける。それから手綱を持ちながら、左足をかけて……」
最後に、ひらりとスヴァルトの上に跨った。難なくこなしているようで、スヴァルトの背はかなり高い。脚力が必要そうだった。
(以前乗せていただいたときには、エーギル様にお任せしていたけれど……わたくしできるかしら?)
「よし、次は貴女の番だ」
再びひらりと馬上から降りてきたエーギルが、手綱を木に繋ぎなおして、今度は栗毛の馬の手綱を外す。
「よろしくお願いいたします。では……」
馬に挨拶をしようと思って、名前を聞き忘れていたことを思い出す。
「この子のお名前は?」
「アルヤがつけてやってくれるか」
「あら……よろしいんですの?」
「貴女の馬だからな」
こともなげに言われて、嬉しくなる。
(わたくしの馬……)
宝石やドレスは、令嬢だった頃のみならず娼婦だった時も飽きるほど与えられていた。だが、愛玩動物は今まで許されたことがない。娼館で動物を飼うのは禁止されていたし、令嬢時代に傷ついた小鳥を世話したときには、父に『そんなものにうつつを抜かすな』と頬を叩かれて、捨てられてしまった。
「この子は、わたくしがお世話してよろしいんですの……?」
「ああ、基本的には厩番に任せようとは思っているが、貴女がそうしたいならやってくれ。馬も喜ぶだろう」
「そうなんですのね」
禁止なんかせずに、エーギルはアルヤの意見をしっかりと聞いてくれる。
(わたくし、甘やかされているわ)
「エーギル様、わたくしのわがままを聞いてくださってありがとうございます」
「アルヤはもっとねだってもいいくらいだろう」
言下にそんなことを言うエーギルに対し、アルヤはふるふると首を振った。
(エーギル様は、わたくしに色々なものをくださるわ)
初めての想いに、初めての馬、それに初めての自由な暮らしだ。許されていなかったものをエーギルからはたくさん、与えられている。それを当たり前だと思っているらしいエーギルにほんのりと胸が温かくなる。
「いいえ、わたくしは、本当はエーギル様のおそばにいるだけで幸せですもの」
心からそう言えば、エーギルは苦虫を潰したような顔になっただけで彼からの返事はない。
(リップサービスだと思ってらっしゃるのかしら。でも、少しずつわかっていただければいいわ)
内心でそう思う。今これ以上言葉を重ねても、エーギルを困らせるだけだろう。
(今日も明日も、時間があるんだもの。今はいただいたものを享受しなきゃ)
もう一歩、アルヤは栗毛の馬に近寄る。
「触らせてね」
そっと声をかけて、首筋を撫でてやると馬がアルヤをちらりと見る。彼女に鼻を近づけてスンスンと匂いを確かめたあとは、好きにしていいとばかりに前を向いた。
「まあ、ずいぶん大人しい子ですのね」
「そうだな、初めての馬は温和なほうがいい。だから一番落ち着いたのを選んできた」
「温和……そうだったんですね。では、この子の名前はレンペアにしようと思います」
「レンペアか、いいんじゃないか」
それはアルヤの国の言葉で『温和』という意味の言葉だ。安直かとも思ったが、エーギルは気にしていない様子だ。
「ありがとうございます。では、レンペア、これからよろしくお願いいたしますわね」
もう一度首を撫でてやると、栗毛の馬――レンペアは了承したようにちらりとアルヤを見る。
「ではやろうか」
「ええ」
レンぺアの首に手綱をかけるのは、今回はエーギルがやってくれた。手綱をアルヤに握らせると、エーギルはレンペアの首を抱えて動かないようにホールドしながら、アルヤの腰を支えてくれる。
「足をかけられるか」
「はい」
さっき見たお手本通りに左足をかけたが、ずいぶんと高い位置だ。
(こんなに足をあげたのは初めてかしら?)
思ってもなかった角度に驚いたところで、そうでもないなとすぐに考え直す。
(閨ではもっと大体に足を広げているもの。……淑女教育を考えていた頃なら、『馬を跨ぐ』なんて考えられなかったわね)
なんだか単純に乗馬をさせてもらえるという事実以上にアルヤは楽しくなってくる。その内心の喜びを見抜いたのかどうかはわからないが、エーギルは続いての指導をする。
「俺が補助する。右足で地面を蹴るようにして、乗り上げるんだ。一気に跨げるか?」
「やってみますわ」
「ではタイミングを合わせよう。三、二、一……!」
「んっ」
ぐんっと地を蹴って右足を振り上げると、エーギルが腰をぐっと持ち上げてくれた。
「まあ……! エーギル様! ありがとうございます、わたくしにもできましたわ!」
補助がなければ一度では難しかっただろう。それでも初めてのことにアルヤは興奮する。はしゃいで見せれば、先ほど複雑な顔をしていたエーギルも自然と顔が緩んでいる。
「ああ、貴女は筋があるようだ。座った姿勢も悪くない」
「ふふふ、お世辞でも嬉しいですわ」
「高さは怖くないか?」
問われてアルヤは周囲に視線を巡らせる。以前スヴァルトに乗ったときに比べたら低いが、それでもエーギルと目線が近いのでかなり高いのだろう。立っていた時には見えなかった庭の先のほうまでよく見える。
「大丈夫です。……エーギル様はこんな世界をご覧になっていらっしゃるのね?」
つい感心した声が出てしまい、エーギルにほんのり笑われる。
「世界か。そうだな。高さが違えば、見えるものも違うのか」
「ええ、エーギル様はわたくしにいつも新しいものを見せてくださるわ」
「そうなのか……?」
少し不思議そうではあるものの、アルヤが本音で言っているのが少しは伝わったのだろうか。エーギルは頷くと、わずかに目元を緩めた。
「よし、大丈夫そうだから続いてそのまま、馬を歩かせてみよう」
レンペアの首を抱えていたのをやんわりと離したエーギルは、手綱を握っているアルヤの手にそっと触れる。
「まずは跨った状態で、一人で馬に揺られる感覚に慣れよう。できるだけ姿勢をまっすぐに保つようにしてみてくれ。俺が馬を引くから、アルヤは鞍を手綱代わりに持つといい」
「わかりましたわ」
頷いたアルヤが鞍を持ったのを確認してから、エーギルが手綱をとってゆっくりと歩きだす。ぽくぽくという足音と共に、視界が上下に揺れた。
(あら……?)
馬の背に乗るのは初めてではない。だが今日はエーギルの支えもない状態なので、揺れが強く感じられた。きっと初めて馬に乗る者は、この揺れで姿勢を崩してしまうのだろう。だというのに、初心者であるはずのアルヤは背筋を伸ばしたま、ブレることなく座っていられる。
(横乗りをしていた時には気づかなかったけれど……)
この揺れには既視感がある。その正体に思い至って、アルヤはほんのりと微笑んだ。馬乗りになるこの姿勢は、アルヤには慣れきったものだ。理由がわかってしまえば、より姿勢を保ちやすくなった。その余裕ありげな様子に、様子をうかがいながらレンペアを引いてくれていたエーギルが目を瞠る。
「本当に貴女は乗馬の才があるようだな。姿勢が全くブレない。一人で乗ったのは本当に初めてか?」
「ええ、初めてですわ」
「では、もともと身体を動かすのが得意なのか? 何か運動の経験が?」
「特にありませんわ。得意がどうかはわかりませんが……姿勢を維持するコツのようなものには心当たりがございます」
ふふ、と笑って見せればエーギルが首を傾げる。アルヤが思い至っているあることに、エーギルは気づかないらしい。
「それはなんだ?」
「乗馬にはあまり関係のないことですから、あとでお話しいたしますわ。今はご指導くださいませ」
意味深に微笑んで見せれば、エーギルは眉間に皺を寄せたが、それ以上は追及しないことにしたらしい。「わかった」と答えて歩みを止めると、手綱をアルヤに渡してくれた。
「では次は手綱のさばき方を教えよう」
そう言って次は止まり方、歩かせ方の手綱の操り方、馬を驚かせてしまうから避けたほうがいい動きなどを丁寧に教えてくれた。一通り教えてもらう頃には、アルヤは一人で庭を回れるようになっている。ゆっくりとではあるが、一周してエーギルのところまで戻ると、彼はまたしても目を瞠っていた。
「驚いたな……本当に上手だ」
「エーギル様のご指導が良いからですわ。それにレンペアが大人しく言うことを聞いてくれますから」
「貴女は謙遜が上手だな」
そう話したところで、エーギルは心配そうな顔になった。
「疲れてはいないか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
「では今度は一緒に並んで巡ってみよう」
「まあ! ぜひお願いいたします」
そう言って、二人はレンペアとスヴァルトに乗って乗馬を楽しんだのだった。
「では、乗馬を習ってみたいですわ」
宝石やドレスがいらないのであれば、何かしたいことはないかと尋ねられての答えがこれである。
「乗馬?」
「ええ、わたくし、乗馬をしてみたかったと申し上げていましたでしょう?」
「それは覚えているが、一緒にスヴァルトに乗っただろう?」
スヴァルトというのは、エーギルの愛馬のことだ。娼館からここに移動するときには、二人でスヴァルトに乗ってきた。そのときに乗馬をしたとエーギルは言いたいらしい。だがアルヤの主張は違う。
「あのときはエーギル様に乗せていただいただいただけですもの。それに横座りでしたわ」
「自分で手綱を持って、馬を操りたい、ということか」
エーギルの問いかけに対し、ぱあっとアルヤの顔が明るくなる。だが次の瞬間には少しだけ心配そうな顔になった。
「だめでしょうか……?」
「いや、問題ない」
「ありがとうございます……!」
そんな会話を経て、数日後、アルヤは特別な支度を終えた後に、庭へと呼び出された。
「まあ……!」
庭で待っていたのは、エーギルと二頭の馬だった。一頭は見慣れた大きな黒馬のスヴァルトである。そしてもう一頭はスヴァルトより一回り小さい、栗毛の美しい馬である。まるで親子のように見えるサイズ差だが、スヴァルトは大型の品種なので、栗毛の馬が通常のサイズだろう。
「こちらの馬は?」
馬のそばにいるエーギルに歩み寄りながら、アルヤは目を輝かせる。
「貴女の馬だ」
「もしかして、わたくしのためにご用意くださったの……?」
心配そうに尋ねれば、エーギルは穏やかに微笑む。それからスヴァルトの首を撫でなでて見せた。
「貴女にスヴァルトは大きすぎるからな。それに貴女に合う馬を贈らせてくれ」
確かに馬に乗るのであれば、自力で乗り降りできねば話しにならないだろう。だがスヴァルトほど大きいとなると、アルヤは自力では足をかける鐙にまで届かない。栗毛の馬なら、アルヤでもかろうじて足をかけることができそうだ。
(馬は高いと聞きますのに……)
購入費も維持費も決して安いものではない。それを考えたらとんでもないが、何かを贈りたいというエーギルの気持ちだろう。
(嬉しいわ)
ただ好意からくるその贈り物が嬉しくて、アルヤの目元が自然と緩む。
「ありがとうございます」
心から礼を告げたところで、ついでに伝えたかったもう一つのことも思い出す。
「乗馬用の服もあつらえてくださって、ありがとうございます。……なんだかわたくしのわがままでとても散財させてしまったようで気が引けますが……」
「ああ。それも気にしなくていい。装飾品類を断ったんだからこれくらい贈らせてくれ。それに貴女はポールの帳簿付けを手伝ってくれたらしいじゃないか。その礼もせねばな」
「まあ」
(ポールったら、内緒だと言ったのに)
しかしばれてしまっては仕方ない。
「ではありがたくちょうだいいたしますわ」
くすくすと笑いながらアルヤは言って、今一度自分の身に着けている服を見下ろす。
「……貴女のそんな姿は新鮮だな」
そう言いながら、エーギルはしげしげとアルヤの服を頭からつま先までじっくりと眺める。いつも彼の前では淑女らしいドレスか、煽情的なナイトウエア、あるいは全裸だから珍しいのだろう。
今、アルヤが身に着けているのは、女性用の乗馬服だった。馬を跨げるように、スカートではなくズボンである。ただし、足の形は全くわからないごくごくゆったりとした形状だ。特別な支度というのはこれである。
通常、貴族の女性はズボンを履かないものだし、乗馬もする女性の方が少ない。やる場合でもドレスのまま横座りで女性専用の鞍をつけて乗るのが今までは一般的だった。だが、近頃は女性も馬にきちんとまたがって乗馬をすることも増え、その時に足が隠れるようにズボンを着用する機会が増えてきているらしい。淑女の足は本来夫にしか見せないものだからだ。
エーギルの視線に促されるように、アルヤは自身の足を見て、ズボンの端をつまんだ。
「わたくし、初めてズボンをはきましたわ。変じゃありませんか?」
まるでドロワーズを重ねばきしているような感覚である。足首のところできゅっとすぼまっていて、ブーツを見せているのがなんだか新鮮だった。そもそもアルヤは普段、ブーツだってあまりはかない。
「いいや、貴女は何を着てもよく似合う」
「まあ、お上手ね」
言いながらも嬉しくてアルヤはくすくすと笑み崩れる。
「世辞ではないが……」
「ええ、わかっておりますわ」
娼館にいた頃ならお世辞だと思っただろうが、エーギルのくれる言葉の全てに嘘はない。それが素直に受け止められるのがくすぐったかった。戸惑い顔だったエーギルも、アルヤがわかっていて言っているのが伝わったのか、ほっとした様子で苦笑するとすっと手を出した。
「では早速、乗ってみよう」
「はい、ご指導お願いいたしますわ」
そっと手をのせて、アルヤは栗毛の馬に近づく。
「まずは俺が乗る様子を見ててくれ」
「はい」
エーギルが馬に乗る様子は何度も見ているはずだが、彼は一つ一つの動作をゆっくり、丁寧に見せてくれる。
「まず手綱を外して、馬の首にかける。それから手綱を持ちながら、左足をかけて……」
最後に、ひらりとスヴァルトの上に跨った。難なくこなしているようで、スヴァルトの背はかなり高い。脚力が必要そうだった。
(以前乗せていただいたときには、エーギル様にお任せしていたけれど……わたくしできるかしら?)
「よし、次は貴女の番だ」
再びひらりと馬上から降りてきたエーギルが、手綱を木に繋ぎなおして、今度は栗毛の馬の手綱を外す。
「よろしくお願いいたします。では……」
馬に挨拶をしようと思って、名前を聞き忘れていたことを思い出す。
「この子のお名前は?」
「アルヤがつけてやってくれるか」
「あら……よろしいんですの?」
「貴女の馬だからな」
こともなげに言われて、嬉しくなる。
(わたくしの馬……)
宝石やドレスは、令嬢だった頃のみならず娼婦だった時も飽きるほど与えられていた。だが、愛玩動物は今まで許されたことがない。娼館で動物を飼うのは禁止されていたし、令嬢時代に傷ついた小鳥を世話したときには、父に『そんなものにうつつを抜かすな』と頬を叩かれて、捨てられてしまった。
「この子は、わたくしがお世話してよろしいんですの……?」
「ああ、基本的には厩番に任せようとは思っているが、貴女がそうしたいならやってくれ。馬も喜ぶだろう」
「そうなんですのね」
禁止なんかせずに、エーギルはアルヤの意見をしっかりと聞いてくれる。
(わたくし、甘やかされているわ)
「エーギル様、わたくしのわがままを聞いてくださってありがとうございます」
「アルヤはもっとねだってもいいくらいだろう」
言下にそんなことを言うエーギルに対し、アルヤはふるふると首を振った。
(エーギル様は、わたくしに色々なものをくださるわ)
初めての想いに、初めての馬、それに初めての自由な暮らしだ。許されていなかったものをエーギルからはたくさん、与えられている。それを当たり前だと思っているらしいエーギルにほんのりと胸が温かくなる。
「いいえ、わたくしは、本当はエーギル様のおそばにいるだけで幸せですもの」
心からそう言えば、エーギルは苦虫を潰したような顔になっただけで彼からの返事はない。
(リップサービスだと思ってらっしゃるのかしら。でも、少しずつわかっていただければいいわ)
内心でそう思う。今これ以上言葉を重ねても、エーギルを困らせるだけだろう。
(今日も明日も、時間があるんだもの。今はいただいたものを享受しなきゃ)
もう一歩、アルヤは栗毛の馬に近寄る。
「触らせてね」
そっと声をかけて、首筋を撫でてやると馬がアルヤをちらりと見る。彼女に鼻を近づけてスンスンと匂いを確かめたあとは、好きにしていいとばかりに前を向いた。
「まあ、ずいぶん大人しい子ですのね」
「そうだな、初めての馬は温和なほうがいい。だから一番落ち着いたのを選んできた」
「温和……そうだったんですね。では、この子の名前はレンペアにしようと思います」
「レンペアか、いいんじゃないか」
それはアルヤの国の言葉で『温和』という意味の言葉だ。安直かとも思ったが、エーギルは気にしていない様子だ。
「ありがとうございます。では、レンペア、これからよろしくお願いいたしますわね」
もう一度首を撫でてやると、栗毛の馬――レンペアは了承したようにちらりとアルヤを見る。
「ではやろうか」
「ええ」
レンぺアの首に手綱をかけるのは、今回はエーギルがやってくれた。手綱をアルヤに握らせると、エーギルはレンペアの首を抱えて動かないようにホールドしながら、アルヤの腰を支えてくれる。
「足をかけられるか」
「はい」
さっき見たお手本通りに左足をかけたが、ずいぶんと高い位置だ。
(こんなに足をあげたのは初めてかしら?)
思ってもなかった角度に驚いたところで、そうでもないなとすぐに考え直す。
(閨ではもっと大体に足を広げているもの。……淑女教育を考えていた頃なら、『馬を跨ぐ』なんて考えられなかったわね)
なんだか単純に乗馬をさせてもらえるという事実以上にアルヤは楽しくなってくる。その内心の喜びを見抜いたのかどうかはわからないが、エーギルは続いての指導をする。
「俺が補助する。右足で地面を蹴るようにして、乗り上げるんだ。一気に跨げるか?」
「やってみますわ」
「ではタイミングを合わせよう。三、二、一……!」
「んっ」
ぐんっと地を蹴って右足を振り上げると、エーギルが腰をぐっと持ち上げてくれた。
「まあ……! エーギル様! ありがとうございます、わたくしにもできましたわ!」
補助がなければ一度では難しかっただろう。それでも初めてのことにアルヤは興奮する。はしゃいで見せれば、先ほど複雑な顔をしていたエーギルも自然と顔が緩んでいる。
「ああ、貴女は筋があるようだ。座った姿勢も悪くない」
「ふふふ、お世辞でも嬉しいですわ」
「高さは怖くないか?」
問われてアルヤは周囲に視線を巡らせる。以前スヴァルトに乗ったときに比べたら低いが、それでもエーギルと目線が近いのでかなり高いのだろう。立っていた時には見えなかった庭の先のほうまでよく見える。
「大丈夫です。……エーギル様はこんな世界をご覧になっていらっしゃるのね?」
つい感心した声が出てしまい、エーギルにほんのり笑われる。
「世界か。そうだな。高さが違えば、見えるものも違うのか」
「ええ、エーギル様はわたくしにいつも新しいものを見せてくださるわ」
「そうなのか……?」
少し不思議そうではあるものの、アルヤが本音で言っているのが少しは伝わったのだろうか。エーギルは頷くと、わずかに目元を緩めた。
「よし、大丈夫そうだから続いてそのまま、馬を歩かせてみよう」
レンペアの首を抱えていたのをやんわりと離したエーギルは、手綱を握っているアルヤの手にそっと触れる。
「まずは跨った状態で、一人で馬に揺られる感覚に慣れよう。できるだけ姿勢をまっすぐに保つようにしてみてくれ。俺が馬を引くから、アルヤは鞍を手綱代わりに持つといい」
「わかりましたわ」
頷いたアルヤが鞍を持ったのを確認してから、エーギルが手綱をとってゆっくりと歩きだす。ぽくぽくという足音と共に、視界が上下に揺れた。
(あら……?)
馬の背に乗るのは初めてではない。だが今日はエーギルの支えもない状態なので、揺れが強く感じられた。きっと初めて馬に乗る者は、この揺れで姿勢を崩してしまうのだろう。だというのに、初心者であるはずのアルヤは背筋を伸ばしたま、ブレることなく座っていられる。
(横乗りをしていた時には気づかなかったけれど……)
この揺れには既視感がある。その正体に思い至って、アルヤはほんのりと微笑んだ。馬乗りになるこの姿勢は、アルヤには慣れきったものだ。理由がわかってしまえば、より姿勢を保ちやすくなった。その余裕ありげな様子に、様子をうかがいながらレンペアを引いてくれていたエーギルが目を瞠る。
「本当に貴女は乗馬の才があるようだな。姿勢が全くブレない。一人で乗ったのは本当に初めてか?」
「ええ、初めてですわ」
「では、もともと身体を動かすのが得意なのか? 何か運動の経験が?」
「特にありませんわ。得意がどうかはわかりませんが……姿勢を維持するコツのようなものには心当たりがございます」
ふふ、と笑って見せればエーギルが首を傾げる。アルヤが思い至っているあることに、エーギルは気づかないらしい。
「それはなんだ?」
「乗馬にはあまり関係のないことですから、あとでお話しいたしますわ。今はご指導くださいませ」
意味深に微笑んで見せれば、エーギルは眉間に皺を寄せたが、それ以上は追及しないことにしたらしい。「わかった」と答えて歩みを止めると、手綱をアルヤに渡してくれた。
「では次は手綱のさばき方を教えよう」
そう言って次は止まり方、歩かせ方の手綱の操り方、馬を驚かせてしまうから避けたほうがいい動きなどを丁寧に教えてくれた。一通り教えてもらう頃には、アルヤは一人で庭を回れるようになっている。ゆっくりとではあるが、一周してエーギルのところまで戻ると、彼はまたしても目を瞠っていた。
「驚いたな……本当に上手だ」
「エーギル様のご指導が良いからですわ。それにレンペアが大人しく言うことを聞いてくれますから」
「貴女は謙遜が上手だな」
そう話したところで、エーギルは心配そうな顔になった。
「疲れてはいないか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
「では今度は一緒に並んで巡ってみよう」
「まあ! ぜひお願いいたします」
そう言って、二人はレンペアとスヴァルトに乗って乗馬を楽しんだのだった。
35
あなたにおすすめの小説
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつもりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
余命わずかな私は、好きな人に愛を伝えて素っ気なくあしらわれる日々を楽しんでいる
ラム猫
恋愛
王城の図書室で働くルーナは、見た目には全く分からない特殊な病により、余命わずかであった。悲観はせず、彼女はかねてより憧れていた冷徹な第一騎士団長アシェンに毎日愛を告白し、彼の困惑した反応を見ることを最後の人生の楽しみとする。アシェンは一貫してそっけない態度を取り続けるが、ルーナのひたむきな告白は、彼の無関心だった心に少しずつ波紋を広げていった。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも同じ作品を投稿しています
※全十七話で完結の予定でしたが、勝手ながら二話ほど追加させていただきます。公開は同時に行うので、完結予定日は変わりません。本編は十五話まで、その後は番外編になります。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。