【完結】伐採令嬢とお花畑伯爵のままならない結婚生活

有沢楓花

文字の大きさ
1 / 44

新婚夫婦の別居婚、標高差1000メートル

しおりを挟む
「ひどい煙ですね」

 春の好天の下で、その黒々とした山は、空に高く伸びる針葉樹の葉も立ち枯れも覆い隠してしまう程に煙っていた。
 風が吹き降ろせば、煙は麓で対峙する美麗な館に吹き付けるだけでは飽き足らず、周囲に広がっていく。
 まるでほとりの美しい湖の青を写し取ったような屋根瓦は薄い灰色に染まっていった。

 元凶たる山の中の少し視界が開けた場所で、ひどい煙ですね、ともう一度呟いたヘルミーナ・フェルベルク伯爵夫人――になったばかりの彼女は、足を止め、それを灰色がかった青の瞳で見下ろしていた。
 同じく灰色ががった茶色の長い髪をくるりと耳の後ろでまとめて帽子をかぶり、女性なら乗馬でしか履かないようなズボンと上着を身に着け、背には荷物で膨れたザックを背負っている。
 伯爵夫人の名にはおよそ相応しくない、登山者の姿。
 つるりとした布地の肩を撫でれば、灰のような粉が舞う。
 遠くから見れば山火事かと見紛うほどだが、鼻を鳴らせば臭いはない。そもそも火事であったら山には登れなかっただろう。
 これが煙の正体だった。瘴気と呼ばれる、木々から噴出される粉末である。

「しばらくこれが続くのですか?」

 ヘルミーナが息を整えながら疑問を口にすれば、

「疲れましたか」

 くぐもった、しかし気遣うような声が背後から返ってきた。
 緩い坂道の上に視線を戻せば同様の格好をした男性が足を止めて彼女を待っていた。背には彼女の比ではない量の荷物を背負っている。

 彼女は夫である男性を――フェルベルク伯爵であるウィルヘルム・フェルベルクの表情を伺おうとしたがそれは知れない。
 何故なら、彼の顔は殆ど布で隠されていたからだ。
 つばの広い帽子の下にちらりと見える黒髪の下は、ぐるぐると包帯のような白い布で覆われており、かろうじて覗いた目と口は表情筋を動かせるほどの余裕があるようには見えない。もっとも、夫と知り合って日が浅いヘルミーナが彼の表情を正確に読み取る自信はなかったが。
 それでもほんの少しだけ、緑色の目が不安げに細められたことは分かった。

「大丈夫です。先ほど休んだばかりですから」

 その深い緑の瞳はこの北東の山々に広がる森の奥深くを想起させた。
 それがヘルミーナには深い隔たりを感じさせ、強がらせた。
 ウィルヘルムはこの山で生まれ育ち数えきれないほど山を登っているのに対して、ヘルミーナには本格的な登山経験などない。
 それでも着いていくと言い出したのは彼女だから、諦めたくはなかった。

「これというのは、山道ではなくて……煙のような瘴気のことです。話に聞いてはいましたが、目にするのは初めてですので」
「そうですね。ピークは春ですが、冬が来るまではずっと漂っています」

 ぐっとブーツの足元に力を込めて、障害物をかろうじて取り除いただけの道を、数歩登って横に並ぶ。
 それは彼女が過ごしてきたレンガ道や石畳、そして遠い記憶にあるアスファルトとは全く違い、獣道にも近いものだった。

「引き返すなら送らせます」
「結婚式を挙げたばかりなのに、旦那様一人で登らせるなどありえません」
「しかし都会育ちの女性に山道は厳しいでしょう。今や麓のブラウ湖ですら、見たいと望む貴族の女性など……ずっと見つからなかったのですから」

 気遣いであるのはヘルミーナにも分かるが、あまりにあっさりした口調に距離を感じる。
 「ずっと」というところだけにひどく実感がこもっているのを感じて、だからこそヘルミーナは自分は違うと証明するためにも意地を張る。

「確かに運動不足は否めませんが……普段はこの先のお屋敷で過ごされるのでしょう? 妻となったからには見ておく義務があると思います」
「……義務、ですか」

 ウィルヘルムは彼自身よりずっと小柄なヘルミーナの真剣な瞳から目を逸らす。

「お屋敷なんて立派なものなら、麓からも見えたのでしょうが。ただの小屋ですよ」
「それでも、そちらで執務をされているのですから、本館と言って良いくらいです。せめて一度くらいはどのくらい離れているか自分でも知っておかなければ」
「距離なら麓の館から、あの山頂付近――」

 ウィルヘルムの革手袋の指先が麓の青い屋根の館から、稜線を辿って山の頂を指す。
 そこには黒い森は見えない。植生が変わり背の高い木々が育つことはない森林限界の上、高山植物が茂るお花畑と呼ばれる場所。
 “お花畑伯爵”と平地で揶揄されるウィルヘルムが一年の四分の三を過ごす館が、そこにあるはずだった。

「あなたの暮らす屋敷からは大よそ1000メートルといったところですね。……標高で、ですが」

 言葉を切った後で突然激しく咳き込み、ウィルヘルムの背中が跳ねる。
 ヘルミーナは声をかけたものの、夫の背を撫でる手は持たない。

「大丈夫ですか、フェルベルク様……あ、いえ、旦那様」

 背後の、同行しているただ一人の使用人に目を向けると、大丈夫だというように彼は頷いた。
 その通りに何度か咳き込んでから息を整えたウィルヘルムは、安心させるように顔を上げた。

「ごほっ……ええ、気にしないでください、いつものことですから。それに妻が来てくれたので、平地にとどまることなくこうして山頂に戻ることができますし……」

 他人行儀な二人だが、それもそのはず、二人はつい先日結婚したばかりでなく、初対面が結婚の誓いを立てた前日だったのだ。
 その誓いもまた書類に互いの名前を書くという事務的なもの。
 というのも、二人には事情があった。
 ウィルヘルムは病弱で領地の瘴気の森に耐えられないために山頂で過ごしていたが、「25歳になるまで妻を持てなければ、爵位と領地を国に没収される」という瀬戸際にあった。
 ヘルミーナは政略結婚を嫌って、実家と父親から逃げ出して無一文だった。
 ――つまり、互いの利益が一致しただけの契約結婚だ。

「これで一安心です」

 咳が落ち着き、少し声音に安堵が見えたことにヘルミーナは良かったと頷いたが、一安心という意見には内心全く賛同できなかった。
 この人のこの「覆われた顔」に、見覚えがあったから。

 男爵家の令嬢であったヘルミーナには、本人とは全く別の記憶がうすぼんやりとある。
 過去ですらない前世の人生とやらで目にしたらしい、モニターの画面の、「選択可能な指導者」アイコン。
 乙女向け恋愛ストラテジー/シミュレーションゲームの一週目の美麗なエンディング後、二週目のフリーモードで選択できる、縛りプレイ枠と呼ばれるキャラクター群のひとり。
 大した生産物がない北東山岳地帯を領地とする――内政、戦争、信仰、商売などですぐ他領に飲み込まれゲームオーバーになってしまう高難易度領地持ちキャラクター、それがウィルヘルムだった。


「お待たせしました、行きましょう」
「……はい」

 ヘルミーナは先を歩くウィルヘルムの背を追って、小石が散らばる道を歩き出す。
 双方事情のある契約結婚だからこそ、麓で彼と別れてはいられない。できるだけ彼と領地に関する情報を手に入れて、領地を立て直す必要があった。
 でなければ彼はこの地の領主として居続けることはできず、そうなれば役立たずのヘルミーナは、またあの実家に帰されてしまうだろうから。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

婚約破棄していただき、誠にありがとうございます!

風見ゆうみ
恋愛
「ミレニア・エンブル侯爵令嬢、貴様は自分が劣っているからといって、自分の姉であるレニスに意地悪をして彼女の心を傷付けた! そのような女はオレの婚約者としてふさわしくない!」 「……っ、ジーギス様ぁ」  キュルルンという音が聞こえてきそうなくらい、体をくねらせながら甘ったるい声を出したお姉様は。ジーギス殿下にぴったりと体を寄せた。 「貴様は姉をいじめた罰として、我が愚息のロードの婚約者とする!」  お姉様にメロメロな国王陛下はジーギス様を叱ることなく加勢した。 「ご、ごめんなさい、ミレニアぁ」 22歳になる姉はポロポロと涙を流し、口元に拳をあてて言った。 甘ったれた姉を注意してもう10年以上になり、諦めていた私は逆らうことなく、元第2王子であり現在は公爵の元へと向かう。 そこで待ってくれていたのは、婚約者と大型犬と小型犬!? ※過去作品の改稿版です。 ※史実とは関係なく、設定もゆるく、ご都合主義です。 ※独特の世界観です。 ※法律、武器、食べ物など、その他諸々は現代風です。話を進めるにあたり、都合の良い世界観や話の流れとなっていますのでご了承ください。 ※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。

【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない

miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。 断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。 家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。 いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。 「僕の心は君だけの物だ」 あれ? どうしてこうなった!? ※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。 ※ご都合主義の展開があるかもです。 ※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。

【本編完結】王子の寝た子を起こしたら、夢見る少女では居られなくなりました!

こさか りね
恋愛
私、フェアリエル・クリーヴランドは、ひょんな事から前世を思い出した。 そして、気付いたのだ。婚約者が私の事を良く思っていないという事に・・・。 婚約者の態度は前世を思い出した私には、とても耐え難いものだった。 ・・・だったら、婚約解消すれば良くない? それに、前世の私の夢は『のんびりと田舎暮らしがしたい!』と常々思っていたのだ。 結婚しないで済むのなら、それに越したことはない。 「ウィルフォード様、覚悟する事ね!婚約やめます。って言わせてみせるわ!!」 これは、婚約解消をする為に奮闘する少女と、本当は好きなのに、好きと気付いていない王子との攻防戦だ。 そして、覚醒した王子によって、嫌でも成長しなくてはいけなくなるヒロインのコメディ要素強めな恋愛サクセスストーリーが始まる。 ※序盤は恋愛要素が少なめです。王子が覚醒してからになりますので、気長にお読みいただければ嬉しいです。 ※本編完結しました。 ※後日談を更新中です。

契約結婚の相手が優しすぎて困ります

みみぢあん
恋愛
ペルサル伯爵の婚外子リアンナは、学園に通い淑女の教育を受けているが、帰宅すれば使用人のような生活をおくっていた。 学園の卒業が近くなったある日、リアンナは父親と変わらない年齢の男爵との婚約が決まる。 そんなリアンナにフラッドリー公爵家の後継者アルベールと契約結婚をしないかと持ちかけられた。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい

LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。 相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。 何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。 相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。 契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

酔っぱらい令嬢の英雄譚 ~チョコレートを食べていたら、いつの間にか第三王子を救っていたようです!~

ゆずこしょう
恋愛
婚約者と共に参加するはずだった、 夜会当日── 婚約者は「馬車の予約ができなかった」という理由で、 迎えに来ることはなかった。 そして王宮で彼女が目にしたのは、 婚約者と、見知らぬ女性が寄り添う姿。 領地存続のために婿が必要だったエヴァンジェリンは、 感情に流されることもなく、 淡々と婚約破棄の算段を立て始める。 目の前にあった美味しいチョコレートをつまみながら、 頭の中で、今後の算段を考えていると 別の修羅場が始まって──!? その夜、ほんの少しお酒を口にしたことで、 エヴァンジェリンの評価と人生は、 思いもよらぬ方向へ転がり始める── 2月11日 第一章完結 2月15日 第二章スタート予定

【完結】モブなのに最強?

らんか
恋愛
 「ミーシャ・ラバンティ辺境伯令嬢! お前との婚約は破棄とする! お前のようなオトコ女とは結婚出来ない!」    婚約者のダラオがか弱そうな令嬢を左腕で抱き寄せ、「リセラ、怯えなくていい。私が君を守るからね」と慈しむように見つめたあと、ミーシャを睨みながら学園の大勢の生徒が休憩している広い中央テラスの中で叫んだ。  政略結婚として学園卒業と同時に結婚する予定であった婚約者の暴挙に思わず「はぁ‥」と令嬢らしからぬ返事をしてしまったが、同時に〈あ、これオープニングだ〉と頭にその言葉が浮かんだ。そして流れるように前世の自分は日本という国で、30代の会社勤め、ワーカーホリックで過労死した事を思い出した。そしてここは、私を心配した妹に気分転換に勧められて始めた唯一の乙女ゲームの世界であり、自分はオープニングにだけ登場するモブ令嬢であったとなぜか理解した。    (急に思い出したのに、こんな落ち着いてる自分にびっくりだわ。しかもこの状況でも、あんまりショックじゃない。私、この人の事をあまり好きじゃなかったのね。まぁ、いっか。前世でも結婚願望なかったし。領地に戻ったらお父様に泣きついて、領地の隅にでも住まわせてもらおう。魔物討伐に人手がいるから、手伝いながらひっそりと暮らしていけるよね)  もともと辺境伯領にて家族と共に魔物討伐に明け暮れてたミーシャ。男勝りでか弱さとは無縁だ。前世の記憶が戻った今、ダラオの宣言はありがたい。前世ではなかった魔法を使い、好きに生きてみたいミーシャに、乙女ゲームの登場人物たちがなぜかその後も絡んでくるようになり‥。    (私、オープニングで婚約破棄されるだけのモブなのに!)  初めての投稿です。  よろしくお願いします。

【完結】婚約破棄されて処刑されたら時が戻りました!?~4度目の人生を生きる悪役令嬢は今度こそ幸せになりたい~

Rohdea
恋愛
愛する婚約者の心を奪った令嬢が許せなくて、嫌がらせを行っていた侯爵令嬢のフィオーラ。 その行いがバレてしまい、婚約者の王太子、レインヴァルトに婚約を破棄されてしまう。 そして、その後フィオーラは処刑され短い生涯に幕を閉じた── ──はずだった。 目を覚ますと何故か1年前に時が戻っていた! しかし、再びフィオーラは処刑されてしまい、さらに再び時が戻るも最期はやっぱり死を迎えてしまう。 そんな悪夢のような1年間のループを繰り返していたフィオーラの4度目の人生の始まりはそれまでと違っていた。 もしかしたら、今度こそ幸せになれる人生が送れるのでは? その手始めとして、まず殿下に婚約解消を持ちかける事にしたのだがーー…… 4度目の人生を生きるフィオーラは、今度こそ幸せを掴めるのか。 そして時戻りに隠された秘密とは……

処理中です...