伐採令嬢とお花畑伯爵のままならない結婚生活

有沢楓花

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第1話 想定内の婚約破棄

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 風が温み始め、花瓶には庭から摘み取られた柔らかな彩色が咲き始めた頃のことだった。
 当たり障りのない会話を温める、薫り高い紅茶を満たした高級品のティーカップを置いた婚約者から、氷のような一言が告げられたのは。

「……そういうわけで、婚約は破棄することになった。君には心からお詫びする」

 きつく締められレースで覆われた首元の、背中から突っ込まれた氷片が滑り落ちるような感覚に、男爵家の令嬢ヘルミーナ・ツヴァイクは身震いをした。
 それからきゅっと手でふわりと広がった青色のデイドレスの裾を握りしめると、アッシュブラウンのまつ毛をゆっくり瞬いた。動揺に揺れた灰色がかった青の瞳がすぐに凪いでいく。

(……大丈夫、これも想定内だったでしょう。単にタイミングの問題だっただけ)

 自分に言い聞かせてから悟らせないようにゆっくり手を開けば、深く頭を下げる成人男性という、見慣れない光景が目の前にあった。
 婚約者のつむじを見たのは、いつぶりだろう。あの時身長はさほど変わらなかったから……初顔合わせの十歳前後くらいか。
 今となっては頭一つ半は背の高い婚約者は、滅多に頭を下げたりしないひとだった。

 大抵の貴族の子息令嬢がそうであるように、この婚約は両家の政略結婚であったから、求婚だって非常に事務的なやりとりだった。
 十年ほどの婚約期間中、素手で触れるどころか愛の恋だの甘い単語の一つも出たことはない。跪いて愛を乞われることなどついぞなかったのだ。
 ヘルミーナはそれでもいいと思っていた。それも、この窮屈な家から出られるならなおさら。
 でも、それも今日までだ。
 突き付けられた現実は冷たくて、自分の立場は、他人よりちょっといい服を着せられた人形でしかないと思い知る。

「……ヘルミーナ?」

 そんなことを考えながらドレスの皺を隠しているうちに、すぐにつむじは見えなくなってしまった。
 代わりに見えたのは、若いご令嬢が一目惚れしそうな造形の良い顔だった。
 侍女が何十分もかけて装わせてやっと美人と言えなくもない……かもしれない、という平凡な容姿のヘルミ―ナには普段は気後れする顔だが、今は別の意味で見たくなかった。
 顔を上げた婚約者――いや、たった今「元」婚約者になった伯爵家の四男であるゲオルク・ゲーゼは、黒髪の下から濡れたような黒曜石の眼で彼女を気遣うような視線を送る。
 想像通りで、それがヘルミーナをほんの少しいらつかせる。

(悪いと思っているのなら情など見せないでくれた方が、余程思い切れるのに)

 ゲオルクには昔からそういうところがあった。
 誰にでも、かけるべきでない状況でもつい情をかけてしまうし、それをあらわすことにためらいがない。
 ヘルミーナは、なんとか合理的に処理しようと気持ちを抑えているところに感情の呼び水を向けられてしまうようで苦手だった。

「ゲオルク様の、あくまで前向きな関係を誰とでも築こうとする姿勢は本来美徳なのでしょうが、たった今、自分から破棄した婚約の相手にするにしては適切ではありませんね」
「だが、君なら理解してくれると思ってもいる」
「合理的で、感情がない“出涸らし令嬢”と世間では呼ばれているからですか」
「そこまでは……」
「正直なところ、想定内ではあります。ただひとつ恨み言を申し上げるなら、結婚を世間が王位継承で騒がしいからと伸ばしに伸ばされて三年経って、私はもう20歳を超えてしまって――」

 とうに行き遅れと呼ばれる年齢になってしまった。
 婚約破棄された貴族の令嬢はたたでさえ次の縁談が見つかりにくくなるというのに、ツヴァイク家は男爵位で、広い領地も由緒ある歴史もない。ちょっとした商売に成功した祖父が金で買った爵位とこの王都のタウンハウスのほかは、地方にごく小さな領地があるだけだ。
 ヘルミーナの貴族相手の婚約者探しは絶望的とすら言えた。父はそれを絶対に許さないだろう。
 彼女を慮ってではなく、面子の問題でだ。

「――もっと早く仰っていただきたかった」
「それに関しては本当に……済まないと思っている」
「それも勿論、あなたではなく、お義父さ……いいえ、ゲーゼ伯爵のご決断でしょうが。それで次のお相手はあの明るい茶色の髪のご令嬢?」
「ああ。ミス・エミーリエ・アイスナー。いずれ噂になるだろうとは思っていた」

 悪びれもせず素直に頷く。
 最近はゲオルクと顔を合わせる機会が減ったこともあって、社交に出ることがごく少ないヘルミーナにまで噂が届いている重大さまでは認識していないらしい。

「あなたの口から直接伺っても?」
「先月、オイゲン侯爵家の夜会に君が体調を崩して参加できなかったことがあっただろう」
「ええ」
「軽率だったかもしれないが、あの時彼女が庭で靴擦れを起こしたところに行き合った。彼女にはほかに頼る人もなく……それでつい抱えて」
「抱えたままベンチへ連れて行ったところを他の方に見られて、外堀を埋められたと。そしてミス・アイスナーと、仲を深められたのですね」

 ゲオルクをつつくような言葉選びではあったが、事実確認に近いものだったので、ヘルミーナの声に咎めるような響きはなかった。
 ゲオルクは騎士だ。
 騎士が困っている令嬢にそうするのは、性格の上に騎士道精神も多分にあっただろう、とヘルミーナは分かっている。
 そして彼に惚れてしまったかもしれないご令嬢がいて。
 二人が大変親しい間柄だと誤解する人々がいて。
 それを、望むゲーゼ伯爵がいた。


 ――貴族どころではなく国民のほとんど全員が知っていることだが、この国・シュトラーセ王国はつい数か月前まで、ほとんど内乱に近い状態にあった。
 理由は国王の崩御だ。
 去年、長年患っていた病が悪化して急逝した国王陛下。
 彼の娘は王女ひとりで、王弟や親族、大臣などが彼女を侮って我こそは継承者だと名乗りを上げ、国王の座をめぐって争いを繰り広げることとなった。
 最終的に、「それぞれの領地を発展させ、なおかつ継承権を持つ者の支持を最も集めた者を国王とする」と議会が決定し、見事玉座に着いたのが王女である。
 黒薔薇姫と呼ばれる彼女は今まで不遇な境遇にあったと言われているが、その一年で自身を支えてくれた侯爵家出身の補佐官を王配とすると先日発表し、世紀の恋愛結婚だと世間を騒がせているのである。

 婚約破棄は、この一連の出来事の余波なのだ。

 ゲオルクとご令嬢の気持ちはヘルミーナには分からない。
 しかしゲーゼ伯爵にとっては夜会の出会いはていのいい口実だったろう。
 一年の継承争いの間に、どの家がどの派閥で貢献したかが貴族の当主たちに注視されてきた。そして、中立を保っていたゲーゼ家は、敗北した派閥に付いていたツヴァイク家を切り捨てた、という訳だ。

「済まない。放っておけず、誤解させるような行動をとった」
「……ご心配なさらず。先ほど申し上げた通り、我が家の立ち位置を考えれば予想できることでしたから」
「しかし……」
「女王陛下は真実の愛を手に入れた――だから若い人はみな、恋愛結婚に夢を見て浮かれるようになって。あちらこちらで結婚や婚約破棄の話を聞きました。それは素敵なことでしょうけれど。
 そういうことにしたほうが都合がいい方々も、こぞって婚約者を入れ替えて。……とても合理的」
「合理的……か、自分のことでもか?」

 眉を下げるゲオルクに、ヘルミーナは紅茶で口の中を湿らせると、八つ当たりのような言い回しだったと反省して言い直した。

「ゲーゼ伯爵家をあずかる当主として当然のご判断です」
「君にとっては?」
「私にとっても仕方のないことないことくらいには思っています」

 返答を受けて途端に口を閉じるゲオルクに、最後までこの人とは合わなかったなぁ、と彼女は思う。
 あいまいな言い方だったが、これ以外言いようがない。
 政略結婚なのだから。それとも悲しんで欲しいのだろうか?

 幼い頃はともかく、思春期以降のヘルミーナは彼と軽い言い合いになることがあった。
 そのたびに冷たいのではないかと、合理的すぎると言われる。
 それにはヘルミーナには少し特殊な“事情”があったからだが、性格も多分にある。
 逆に彼女は、彼を感覚的、感情的すぎると思う。

 お互いに合わないとずっと思っていただろう。だから、恋愛という面だけで見るなら破談になってもそれほど、それ自体はショックではないのだ。
 流石に新しい婚約者といちゃいちゃしているところを見せられれば不愉快には思うだろうが、知らないところで幸せになってくれるならそのほうが良いとも思うくらいである。
 すがるなど心にもないことをしたくない。禍根を残したくもない。
 ……決して嫌いではないのだ。ただ単に合わないだけ。
 ちょっとやりすぎではないか、無神経ではないかと思ったことはあるけれど、彼自身が悪い人であると思ったことなどない。

「本当です」

 ヘルミーナは申し訳なさそうな元婚約者に、当てつけにならないように注意して微笑んでみせた。さすがに口角は普段より下がり気味だったけれど。
 それよりもこれからどう身を振るべきか早く考えをまとめたかった。

 ただ、分かれる前にひとつ聞いておきたいことがある。

「……ところで、最後のあいさつにわざわざいらっしゃったのは何故ですか?」

 婚約も婚約の破棄も、結局のところの家の間の問題だから、こういった場合にはまず伯爵自身から書状で何らかの打診があるはずだった。
 それを昼間とはいえ、先触れも寄こさずにたった一人でゲオルクが来たのだ。
 父親は長い付き合いの婚約者だからこうして応接間に通してくれたものの、まさか婚約破棄されている最中だと知れたらどうなることか分からない。

「君のお父上がこれを聞いたらカンカンになって、話をさせてくれないと思ったからだ。破棄については、使いがもうすぐここに着く予定だ」
「次が決まっているなら、わざわざ謝りに来るほどの価値は私にはないと思いますけど」

 ゲオルクはヘルミーナの言葉に嫌味ではなく卑下を感じ取って、息を小さく吐くと、小さな応接間を見渡した。
 どこからか買い付けてきた不揃いなアンティークの家具の中に混じって、静かに佇む侍女に目をやり、その視線をヘルミーナに移す。

「大丈夫です」

 ヘルミーナは頷く。
 たった今まで婚約者であったふたりの側に、使用人は一人だけだった。
 幼いころから仕えてくれている侍女のテレーゼで、ゲオルクにも旧知の仲と言える。
 雇い先はヘルミーナ個人でなくあくまでツヴァイク家だが、元々は亡き母の侍女で口が堅く、彼女が家で信用が置ける数少ない一人だった。
 ゲオルクは頷くと懐に手をやり、小さな革袋を両者のちょうど真ん中、コーヒーテーブルの中央に置いた。金の擦れる音が鳴る。

「……これは何です? 慰謝料でしたらお父様が受け取るのでしょう?」
「これは俺個人の財布から、君個人への金だ」
「……はい?」

 思わず上ずった声が漏れる。

「君のお父上が、君を立派な淑女に育て上げるためにと、かなり自由を制限していることは知っている」

 ヘルミーナは頷く。厳しいというよりスケジュールは抑えられ、ほとんど監視されているようなものだった。ゲオルクとの外出は咎められなかったため、義務のような顔合わせですら自由を感じられたくらいだ。

「俺との結婚が流れれば――もう予想しているかもしれないが、ろくなことにはならないだろう。
 節制すれば当面は暮らせる額だし、君を僻地の修道院にやるといっても、寄付すればマシな扱いが受けられるはずだ。
 さすがに元婚約者で……旧知の仲の君が不幸になるのを見るのは寝ざめが悪い」
「それは我が家の問題です。受け取れません」

 そう言ったが、ゲオルクの予想より自分の扱いが悪くなるだろうことはヘルミーナは良く知っていた。

「だったら、正当な報酬として受け取ってくれ」
「報酬? それこそ何のことか」
「君は年齢の割に落ち着いているところがあるだろう。俺も家族も、助言のおかげで何度か危ない橋を渡らずに済んだことがある」

 確かにヘルミーナは、雑談で何度か相談のようなことをされて、考えを披露したことがある。
 ちゃんと話を聞いてくれて返事をしてくれるという点は、ゲオルクの美点であり、婚約を受け入れた――実際に拒否する権利はなかったとしても――理由でもあった。
 確かに愛情はなくても、性格が合わなくても、仲間意識のようなものはあったのだ。

「それは嫁ぎ先が困るのは私の利益にならないからで……」
「そうであっても助けられたことに変わりない」

 ヘルミーナは迷った末に固辞せず受け取ることにして、それをすぐさまクローゼットの中に隠すようテレーゼに伝えた。
 彼女が部屋を出るのを見届けたゲオルクは、お茶を飲み干して立ち上がった。

「……では行くよ。君とは家族になれると思っていたのだがな」

 ゲオルクの瞳に映っているのは回顧だった。
 家族。それが意味するところは痛いほど理解している。
 妻や夫婦、恋人。力いっぱい抵抗するほどの愛は二人には育めていなかったということだ。
 幼いときは本当に、この人のお嫁さんになるのだと思っていたこともあったのに。

(想定内でも、聞いてショックを受けたのは、きっと……)

 胸が痛むのはきっと、いくら時間があっても、相性や大して悲しんでもいない自分の薄情さ、政治の駒でしかない自分たちへのままならなさからだ。

 ヘルミーナもそっと息を吐くと、もう会うこともない友人を見送るため立ち上がった。

「最後の忠告になりますけれど、そのような発言は新しい婚約者には慎んだ方が宜しいかと。その方を大事に思われるのなら」
「……分かった、ありがとう」
 
 最後まで律儀で馬鹿正直な元婚約者の背中を部屋の入り口で見送ると、ゲオルクが去った反対側から、不機嫌な足音が近づいてきた。

「――ヘルミーナ! これは一体どういうことだ!?」

 父・ツヴァイク男爵の怒声が耳朶を打ち、ヘルミーナの肩が震えた。
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