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(十二)秀吉との出会い

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 永禄から改元されたばかりの元亀元年(一五七〇年)四月。

 織田信長は再三の上洛命令を無視した朝倉義景を攻めるべく、越前国へ兵を進めた。

 織田軍は朝倉方の支城を次々と陥落させたが、国境の金ヶ崎城を落としたところで、信長の同盟を組んでいた義理の弟である浅井長政が反旗を翻した。

 浅井勢に背後を衝かれることを恐れた信長は、西近江を通って京都へと兵を退く羽目となる。

 信長との確執が顕在化していた足利義昭の画策による、信長包囲網が幕を開けた瞬間である。

 これから信長は浅井・朝倉のみならず、本願寺や武田信玄らを相手取り、生き残りをかけた長く苦しい争乱へと突入していく。


 そして七年の歳月が流れた。
 天正五年(一五七七)年十月十日、織田方に二度に渡って反旗を翻した松永久秀が、立て籠もった大和国信貴山城で織田方の大軍に攻め寄せられて自刃した。

 上杉謙信が上洛するとの報にあわせての挙兵であったが、手取川の戦いで勝利した謙信は上洛することなく居城の春日山城へと引き上げたため、久秀の思惑は外れることになった。

 その最期は、名器・古天明平蜘蛛を差し出せば助命するとの織田方の勧告を拒否し、敢えて平蜘蛛の釜を叩き割ったうえで天守に火をかけて自刃するというものであった。

 改めて信長の四方を見渡せば、苦難の始まりを招いた足利義昭の姿は京にはない。無謀にも元亀四年(一五七三年)に挙兵し、七月に信長によって追放されたためだ。

 信長は足利義昭によって定められた元亀の元号を嫌い、同月中に天正へと改元させている。

 敵対勢力のうち浅井・朝倉は同年に滅ぼされている。

 武田信玄は元亀三年(一五七二年)に西上の兵を起こし、三河の徳川家康を三方ヶ原の合戦において破ったものの、病により倒れて武田勢は兵を退いている。

 信長にとって最も苦しい時期は去り、今や反撃の時を迎えたと言える。


 一方播磨では、昨年頃から西国の雄・毛利の影響が及んでいた。

 毛利家では謀将として恐れられた毛利元就が元亀二年(一五七一年)に死去し、孫の毛利輝元の代になっていた。
 輝元は毛利の勢力圏内である備後国の鞆に、信長に追放された足利義昭を保護していた。

 味方に付くべきなのは、勢いに乗る出来星大名の織田家か、足利将軍を擁する毛利家か。

 東西から迫る脅威に、播磨国は揺れていた。

 特に別所家では、元亀元年に当主の別所安治が若くして病没し、嫡男・小三郎長治が十代の若さで後を継ぐ事態となっていた。

 若年の長治には家中を統制する器量はなく、長治の叔父にあたる別所吉親・重宗兄弟が後見役につく形を取らざるを得なかった。

 元々別所家は、足利義昭を擁して信長が京を制して以来、織田家とは誼を通じてきた。天正三年以降、正月には長治自ら京にのぼり、信長に拝謁している。

 しかし、織田信長が京から追放した足利義昭を毛利輝元が保護しているとなれば、このまま織田に従っていて良いものか、家中の意見は割れる。

 他国との対外的な働きを専ら担ってきた弟の別所重宗が織田家寄りの態度を示すのに対して、兄の別所吉親が反発して親毛利の立場を打ち出すなど、別所家として明確な方針を打ち出せない状況にあった。

 別所家がまとまらない以上、別所に従う国衆もまた態度を決めかねていた。


 織田信長は、播磨国に毛利の影響が強くなっている情勢を受けて、信貴山城攻めを終えたばかりの羽柴秀吉を大将に任じ、播磨国へと向かうよう命じた。

 近江長浜城に戻って陣容を整えた秀吉は、十月十九日に京を進発して播磨へと馬首を向けた。

 葛屋の連雀が織田勢来襲の報せを持って萩原城の則頼の元に姿を見せたのは、十月二十二日の朝のことだった。

 豊助は、則頼の指図を受けて調者働きをすることこそなかったが、依然として京や堺の最新の動きを伝えてくれている。

 朝の勤行の後、朝餉を終えたばかりだった則頼は、この報せを受け取って奮い立った。

「これこそ好機じゃ」
 畿内を制し、今やかつての三好よりも遥かに意気盛んな織田家こそ、天下を取るに値する、と則頼はかねてより考えていた。

 播州の中で、小城一つを取り合って勝った負けたと繰り返している景色しか見ていない者には、天下の動きなど理解できないだろう。

 三好実休の元で、天下の何たるかを学んだ自分だからこそ、世の中の流れが見えるのだ、と則頼は自負している。

 則頼は急いで、吉田大膳を己の私室に密かに呼び出した。

 「ここで、織田を敵に回すようなことはあってはならぬ。そして味方をするならば、播州で誰よりも先んじて伺候してこそ意味があろう」

「織田に御味方されるとお考えにございますか。三津田の御本家のお考えは確かめられぬので」
 勢い込む則頼とは裏腹に、大膳は厳つい顔に困惑の色を浮かべて尋ねる。

「話したとて、兄は自ら動こうとはせぬであろう」
 則頼は首を横に振って答えた。

「それはまあ、仰せの通りかとは存じますが。あまりないがしろにされるのも如何なものかと。せめて、当城の中だけでも、意見をまとめたほうがよろしいかと」

 則頼が則重を軽んじた言動を示すのは今にはじまったことではない。大膳の苦言にも諦めの色が強かった。

「言わんとすることは判る。されど、今は刻が惜しいわ。朝のうちに出立すれば、山陽道を西に進んでくるであろう織田の軍勢を、明朝には明石あたりで出迎えられようでな」

「……承知つかまつった。急ぎ支度いたしまする」
 大膳は家臣としての分をわきまえ、それ以上は意を唱えず承服した。

 直言だけでもなく、追従だけでもない。この塩梅こそ、則頼が大膳に信頼を寄せるゆえんである。


 
 則頼は吉田大膳の他、警固の兵と小者数名のみを伴い、密かに萩原城を出立した。

 一行は、明石川沿いに南下しておよそ七里ほどの道を歩き通し、当日の晩には明石まで出た。

 驚いたことには、既に秀吉の軍勢が着陣して明石城近隣に分宿していた。十九日に京を出て、明日二十三日には姫路に着く勢いである。

「なんと足の速い軍勢よ。天下に挑む軍勢とはこれほど素早いのか」
 一晩の余裕があると考えていた則頼は目算違いに半ばあきれながらも、間に合ったことに胸をなでおろす。

 旅塵を落とす間も惜しい。
 周辺の警備についている秀吉勢の番卒の元に歩み寄ると、誰何されるよりも先に、播磨の国衆、有馬家の人間であると堂々と名乗る。

「それがしは播州萩原城の主で、有馬無清と申すもの。どうか、御目通りを願いたい」
 播州赤松末裔の有馬という名乗りが効いたのか、それほど待たされることもなく秀吉が本陣を定めた明石城下の寺に案内された。


 ただし、大膳ら家臣の同行は許されず、則頼は一人きりで幔幕が張られた寺の本堂にて引見を受けることになる。

「此度はお目通りがかない、誠にありがたく存じまする」
 則頼は、坊主頭を下げて神妙に板間に平伏する。 

「おうおう、よう参られた。別所殿以外で我が元にはせ参じてくれたのは、そこもとが二人目よ」
 上座から大声を放つ秀吉に、思わず則頼は顔をあげる。にやりと笑う秀吉と目があった。

「二人目、でございまするか」
 親しげな声音に引き込まれるように、つい尋ねてしまう。

「おう。一人目というのはな、小寺のな、官兵衛のことよ。官兵衛は、実にようやっとるでな。手を貸してやってくれや」
 秀吉は官兵衛の働きが己の手柄であるかのように、得意そうに胸を張った。

 小寺官兵衛孝高は、小寺政職の家に仕える若き家老である。

 西から迫る毛利の脅威に直面し、毛利への従属の方向に傾いていた小寺家中の目を織田に向けさせたのみならず、かねてから播磨の国人衆を積極的に説き伏せにかかっているという。

 葛屋の連雀の手を借りるまでもなく、官兵衛の精力的な動きは則頼の耳に入っていた。

「おお、それは。小寺殿の話はそれがしも耳にしております。確かに、かの御仁の働きに比べれば、出遅れたと言われても反論できませぬな」
 剃った頭をぴしゃりと叩き、則頼は悔しさを笑いの中に紛らせた。

 孝高も、現在の有馬家の当主である兄・則重の元には訪れていたのかも知れない。

 いずれにせよ、半ば別家を立てたような形になっている則頼の立場では、有力国人である小寺家を家老として背負う孝高と同じ真似は到底できない。

(いや、立場だけではないな。そもそも儂にはそのような芸当は出来ぬ。それは認めねばなるまい)
 則頼は己の立場を素早く計算する。

 ここでただ恐縮しているだけでは、せっかく抜け駆け同然に馳せ参じた意味がない。
 腹をくくって押し出すべき時は今だ。

「ただ、小寺殿のようには参りませぬが、それがしとて多少は面白き坊主なれば、きっとお役に立つこともございましょう」

「ほーう。面白き坊主とは、よう申した」
 秀吉は則頼の物言いに興味を惹かれたのか、笑み崩れて応じた。声を弾ませて言葉を続ける。
「儂は、面白き坊主が好きじゃ。例えば、我が陣営には宮部善祥坊と申す坊主がおるが、あ奴も面白いぞ」

 さらに秀吉は、己が卑賤の生まれであり、子供の頃には寺に修行に出されたが逃げ出してしまったこと、それ故に自分は坊主になれぬこと、特に元々仏門の家柄ではなく、自分の代で剃髪して入道した武士には敬意を払うのだ、などといったことを多弁に語った。

 なんとも奇妙に屈折した、僧侶への憧れを持つ男であった。

(実に明け透けな御方じゃな)
 初対面の相手でありながら飾らずに身の上話をしてしまう秀吉に対して、則頼は好感を持った。

 もっとも、気位ばかり高い一部の播州武者がこのような性分の秀吉の采配を受け入れられるのか、一抹の不安も抱く。

(まあ、武士の気位が高いのは、播州に限ったことでもなかろうが……)

「ところでな、そこもとの法号じゃがな。どのような字を書く」
 則頼の懸念など知る由もない秀吉が、無邪気に尋ねてくる

「はっ。清く無いと書いて無清にござります」
 内心を気取られたかと則頼は身構えつつ、無清の字を説明する。

 しかし、次に秀吉の口から発せられたのは思いもよらない言葉であった。

「無清、のう。なんとも辛気臭いで、そこもとにはあまり似合わぬでの。もっとこう、陽気な感じにならんか」
 何気ない口ぶりながら、秀吉が意味するものは必ずしも軽くない。

 曖昧に笑って済ませるか、人を笑わせるような当意即妙の答えを返すか、則頼は試されていると感じる。

「左様でございますか。……ならば、刑部卿法印とでも名乗りましょうか」
 則頼は気負わぬよう努めて意識しつつ、そう応じた。

「おお、そりゃあええわ」
 一瞬、目を見開いた秀吉が破顔して、人懐こい笑みを浮かべる。

 この時代、刑部卿法印といえば、織田と敵対している本願寺において雑賀孫一と並んで「大坂之左右之大将」と称される有力坊官、下間頼廉の名乗りである。

 そのような大物と、にわか坊主の自らとを比すかの如き大言壮語である。
 ただし、単なる軽口だけでなく、本願寺には与するつもりがないとの意味も込めた宣言である訳だが、秀吉は正しく則頼の思惑をくみ取ってくれたようだ。

(どうやら、お気に召したらしい)
 内心で胸をなでおろしつつも、秀吉との付き合いには言葉一つ揺るがせに出来ず、迂闊なことを口走ればたちまち見限られる危うさも感じる。

 これはうっかりしたことは言えぬ、と則頼は喜びから緩みがちになる気持ちを引き締める。

 この後、刑部卿法印の名乗りから則頼は秀吉に「有馬の坊主」と呼ばれて目をかけられるようになり、世にいう有馬法印の呼び名の端緒となる。



 なお、秀吉も口約束だけで則頼を信じたわけではない。

 則頼は永禄十二年(一五六九年)に産まれた次男の万介(後の豊氏)を、秀吉に人質として差し出している。
 そこは、個人的な友諠を越えたところにある戦国の世の習いであった。
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