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(十一)無清の日々
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淡河定範と皐姫の婚礼がつつがなく執り行われてからしばらくの後、則頼は仏門に入ることを決意した。
表向きは、恩人である三好実休が討死したことで、世の儚さを知ったためである。
しかしそれ以上に、己の判断を狂わせた皐姫に対する煩悩を捨て去りたいとの考えが秘められていた。
「無清」と称した法号は、その思いの表れであった。
突然、頭を丸めて僧形となった則頼の姿をみて、一切の相談を受けていなかった振は悲し気な顔を見せた。
しかし、取り立てて文句をつけることもなく、いつもの冷えた目で則頼を見つめ、「励まれませ」と小さな声で告げただけに終わった。
もちろん、剃髪して出家したとはいうものの、萩原城の城主であることを捨てた訳ではない。
それでも、僧としての修行をこなしながらとなるため、政事の一部は吉田大膳ら家臣に委ねることになる。
いずれにせよ、皐姫を迎えて別所の縁者となった淡河相手に積極的に仕掛けられる状態ではなくなっていた。
結果、則頼はその後の十年近くに渡り、比較的平穏な時を過ごすことになる。
とはいえ、僧形になっても俗世から離れた訳ではなかった。
事実、永禄六年には待望の長男(後の四郎次郎則氏)が産まれている。
一方、畿内の過半を制してその名をとどろかせてきた三好家は、三好実休の死を契機として、次第に家運が傾いていくことになる。
前年の十河一存に続き、身内であり、かつ四国勢の有力な指揮官でもある実休をも亡くしたのは痛手であった。
加えて、足利将軍や朝廷とのいつ果てるとも知れない駆け引きに疲れ切ったのか、当主である三好長慶自身が心身の不調に陥ったことも大きい。
その衰勢は、永禄七年(一五六四年)七月に、享年四十三歳という若さで三好長慶が病死したことで決定的となる。
十河一存の子で養子に入っていた三好義継が後を継いだが、若年であることから、松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸、三好政康、岩成友通が後見役とする体制となった。
しかし、永禄八年(一五六五年)五月十九日、三好三人衆と松永久秀の手勢が京都二条御所において十三代将軍・足利義輝を自刃に追い込む事件を起こす。
三好長慶亡き後、将軍の権威を回復させようと尽力する義輝の存在が目障りであったともされるが、その動機は明確ではない。
しかし、天下の大悪事の共犯でありながら、程なくして三好三人衆と松永久秀は対立し、三好家は内紛状態に陥ってしまう。
永禄九年(一五六六年)八月には、三好家による摂津および播磨攻略の拠点として松永久秀が長らく治めてきた滝山城が、三好三人衆の軍勢により包囲され、総攻めを受けて陥落した。
なお、この城攻めには別所勢も三好三人衆側として派兵している。
別所家は翌年の永禄十年(一五六七年)九月にも、三好三人衆の援軍として手勢を大坂に送り出している。
表面上は、かつてと変わらず三好家に従属する姿勢を崩していないことになる。
しかし、三好家が内紛を続けている限り、播磨に大軍で攻め寄せてくることなど考えられない。
つまり、もはや別所家が三好家に従属し続けねばならない理由はなくなりつつあった。
「予期していたとは申せ、三好の栄華がこうも呆気ないものとはのう」
萩原城の書院にて、豊助から送られた書状を手に則頼は嘆息する。
かつて三好家に人質として差し出され、実休の元で使番として三好家が統治する京や堺を駆け巡った日々は、随分と遠いものになったと思われた。
しかし一方で、世の動きは、豊助から送られてくる葛屋の連雀がいち早く伝えてくれる。それは、口伝えであったり今回のように書状であったりした。
おかげで則頼は、萩原城に居ながらにして主筋である別所家よりも数日早く最新の情勢を得られる。
現状では、その強みを大きく活かす機会こそまだ訪れていないが、いずれなんらかの役に立つと則頼は確信していた。
足利義輝が二条御所で討たれた際、一条院門跡として僧籍にあった弟・覚慶は、細川藤孝ら義輝の側近に助け出され、近江の矢島へ逃れていた。
覚慶は亡き兄の無念を晴らし、足利将軍家を再興するため、還俗して義秋と名乗り、次の将軍となることを目論んだ。
当初は最初は若狭国の武田家を頼ったが、頼りにならぬとみるや越前の朝倉義景の元に身を寄せ、兵を起こして上洛を願った。
しかし朝倉義景には、義秋を奉じて上洛する意思はみられなかった。
そこで、一念発起の証として義秋は義昭と改名し、美濃を平定して勢いに乗る織田信長に期待を寄せることになる。
そして永禄十一年(一五六八年)九月、信長は義昭の要請を受けるや、素早く大軍を率いて上洛の途に就いた。
信長の前には南近江の六角承禎・義賢父子が立ちはだかったが、北近江の浅井長政と同盟を結んだ信長は六角勢をものともせずに蹴散らしてしまう。
上洛を果たした信長に対し、三好三人衆を相手に劣勢であった松永久秀はいち早く信長の元に馳せ参じて臣従の意思を示した。
足利義昭にとっては久秀は兄の仇である一人であったが、信長はあっさり臣従を認めた。
この時、久秀は信長に対して人質だけなく、九十九髪茄子を差し出したおかげで許されたと世間で評判となった。
一方、数年に渡って松永久秀と内紛を続けていた三好三人衆の軍勢は信長の大軍を前に成す術もなく撃破され、畿内の拠点を捨てて三好本貫地である阿波へと逃げ落ちることになる。
なお、別所家も信長の上洛を受けて、これまで従属していた三好三人衆と手を切り、足利義昭を擁立する信長と誼を通じている。
則頼の中に三好の凋落を嘆く気持ちもなくはないが、それよりも否応なく信長に関心を抱かずにはいられない。
「三好に代わり、織田が天下に覇を唱えるのであろうか」
僧としての勤行に励みながらも、俗世を捨てきれない則頼は漠然とそんな未来を思い描いていた。
永禄十二年(一五六九年)九月。
淡河城の嫡男・淡河定範の実家である美作国の江見城が宇喜多直家勢に攻められ、定範の実父である江見祐春が自刃した。
事の発端は、尼子残党の中でも勇名を馳せた山中鹿介幸盛が中心となって、京に出て東福寺の僧となっていた尼子誠久の五男を還俗させて尼子勝久と名乗らせ、御家再興を目指して挙兵したことにある。
尼子残党はかつての本拠たる月山富田城の奪還こそ果たせなかったものの、出雲国や伯耆国のみならず、かつての尼子家の勢力圏内には呼応して味方する勢力も少なくない。
美作国もまた毛利の影響下にあったが、尼子残党の美作侵入を受けて、かつて尼子に仕えていた経緯もあって美作国の三浦氏が馳せ参じ、さらに備前の宇喜多勢が尼子方として起った。
いわば、美作国は毛利と宇喜多の代理戦争の場に選ばれ、江見城は巻き込まれた形である。
もっとも、美作国だけにとどまる話であれば、則頼に直接かかわりのある出来事ではない。
しかしながら厄介なのが、定範の実弟である江見小三郎定治が、生き残りの一族郎党や江見家の旧臣を引き連れて、兄を頼って淡河城まで落ちのびてきたことだ。
江見定治は淡河姓と長範の名を新たに与えられて淡河新三郎長範と名乗り、野瀬城を守る定範の義理の叔父・範政の元に預けられることになる。
だが、江見家旧臣に分け与えられる余分な禄など、ただでさえ有馬家に蚕食された淡河の領地にある筈もない。
新田を拓こうにも、谷筋のめぼしい平地は既に田畑になっているうえ、北は石切山の出城、東は萩原城、そして西には三津田城と三方を有馬方が抑えている。
唯一、手を伸ばせる南側には丹生山の山塊が迫るため、日当たりの悪い山の北斜面や水はけの悪い湿地などを開拓しなければならない。
当然、ここ数年来の平穏は否応なく破られ、なにかにつけて有馬家と衝突する機会も増えることになる。
敵方に加わった江見家の旧臣は、有馬家が支配する田畑を奪い取って自らの所領としようと目の色を変えている。
則頼にとっては、単に敵の人数が増えた以上に手ごわい相手だった。
「どうにも、逆風が吹いておるな」
三好家の没落により後ろ盾を失った則頼には、状況を打開する方策はそう簡単には思いつかない。
しかし、閉塞した状況を大きく揺るがす波が、まもなく東から訪れようとしていた。
表向きは、恩人である三好実休が討死したことで、世の儚さを知ったためである。
しかしそれ以上に、己の判断を狂わせた皐姫に対する煩悩を捨て去りたいとの考えが秘められていた。
「無清」と称した法号は、その思いの表れであった。
突然、頭を丸めて僧形となった則頼の姿をみて、一切の相談を受けていなかった振は悲し気な顔を見せた。
しかし、取り立てて文句をつけることもなく、いつもの冷えた目で則頼を見つめ、「励まれませ」と小さな声で告げただけに終わった。
もちろん、剃髪して出家したとはいうものの、萩原城の城主であることを捨てた訳ではない。
それでも、僧としての修行をこなしながらとなるため、政事の一部は吉田大膳ら家臣に委ねることになる。
いずれにせよ、皐姫を迎えて別所の縁者となった淡河相手に積極的に仕掛けられる状態ではなくなっていた。
結果、則頼はその後の十年近くに渡り、比較的平穏な時を過ごすことになる。
とはいえ、僧形になっても俗世から離れた訳ではなかった。
事実、永禄六年には待望の長男(後の四郎次郎則氏)が産まれている。
一方、畿内の過半を制してその名をとどろかせてきた三好家は、三好実休の死を契機として、次第に家運が傾いていくことになる。
前年の十河一存に続き、身内であり、かつ四国勢の有力な指揮官でもある実休をも亡くしたのは痛手であった。
加えて、足利将軍や朝廷とのいつ果てるとも知れない駆け引きに疲れ切ったのか、当主である三好長慶自身が心身の不調に陥ったことも大きい。
その衰勢は、永禄七年(一五六四年)七月に、享年四十三歳という若さで三好長慶が病死したことで決定的となる。
十河一存の子で養子に入っていた三好義継が後を継いだが、若年であることから、松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸、三好政康、岩成友通が後見役とする体制となった。
しかし、永禄八年(一五六五年)五月十九日、三好三人衆と松永久秀の手勢が京都二条御所において十三代将軍・足利義輝を自刃に追い込む事件を起こす。
三好長慶亡き後、将軍の権威を回復させようと尽力する義輝の存在が目障りであったともされるが、その動機は明確ではない。
しかし、天下の大悪事の共犯でありながら、程なくして三好三人衆と松永久秀は対立し、三好家は内紛状態に陥ってしまう。
永禄九年(一五六六年)八月には、三好家による摂津および播磨攻略の拠点として松永久秀が長らく治めてきた滝山城が、三好三人衆の軍勢により包囲され、総攻めを受けて陥落した。
なお、この城攻めには別所勢も三好三人衆側として派兵している。
別所家は翌年の永禄十年(一五六七年)九月にも、三好三人衆の援軍として手勢を大坂に送り出している。
表面上は、かつてと変わらず三好家に従属する姿勢を崩していないことになる。
しかし、三好家が内紛を続けている限り、播磨に大軍で攻め寄せてくることなど考えられない。
つまり、もはや別所家が三好家に従属し続けねばならない理由はなくなりつつあった。
「予期していたとは申せ、三好の栄華がこうも呆気ないものとはのう」
萩原城の書院にて、豊助から送られた書状を手に則頼は嘆息する。
かつて三好家に人質として差し出され、実休の元で使番として三好家が統治する京や堺を駆け巡った日々は、随分と遠いものになったと思われた。
しかし一方で、世の動きは、豊助から送られてくる葛屋の連雀がいち早く伝えてくれる。それは、口伝えであったり今回のように書状であったりした。
おかげで則頼は、萩原城に居ながらにして主筋である別所家よりも数日早く最新の情勢を得られる。
現状では、その強みを大きく活かす機会こそまだ訪れていないが、いずれなんらかの役に立つと則頼は確信していた。
足利義輝が二条御所で討たれた際、一条院門跡として僧籍にあった弟・覚慶は、細川藤孝ら義輝の側近に助け出され、近江の矢島へ逃れていた。
覚慶は亡き兄の無念を晴らし、足利将軍家を再興するため、還俗して義秋と名乗り、次の将軍となることを目論んだ。
当初は最初は若狭国の武田家を頼ったが、頼りにならぬとみるや越前の朝倉義景の元に身を寄せ、兵を起こして上洛を願った。
しかし朝倉義景には、義秋を奉じて上洛する意思はみられなかった。
そこで、一念発起の証として義秋は義昭と改名し、美濃を平定して勢いに乗る織田信長に期待を寄せることになる。
そして永禄十一年(一五六八年)九月、信長は義昭の要請を受けるや、素早く大軍を率いて上洛の途に就いた。
信長の前には南近江の六角承禎・義賢父子が立ちはだかったが、北近江の浅井長政と同盟を結んだ信長は六角勢をものともせずに蹴散らしてしまう。
上洛を果たした信長に対し、三好三人衆を相手に劣勢であった松永久秀はいち早く信長の元に馳せ参じて臣従の意思を示した。
足利義昭にとっては久秀は兄の仇である一人であったが、信長はあっさり臣従を認めた。
この時、久秀は信長に対して人質だけなく、九十九髪茄子を差し出したおかげで許されたと世間で評判となった。
一方、数年に渡って松永久秀と内紛を続けていた三好三人衆の軍勢は信長の大軍を前に成す術もなく撃破され、畿内の拠点を捨てて三好本貫地である阿波へと逃げ落ちることになる。
なお、別所家も信長の上洛を受けて、これまで従属していた三好三人衆と手を切り、足利義昭を擁立する信長と誼を通じている。
則頼の中に三好の凋落を嘆く気持ちもなくはないが、それよりも否応なく信長に関心を抱かずにはいられない。
「三好に代わり、織田が天下に覇を唱えるのであろうか」
僧としての勤行に励みながらも、俗世を捨てきれない則頼は漠然とそんな未来を思い描いていた。
永禄十二年(一五六九年)九月。
淡河城の嫡男・淡河定範の実家である美作国の江見城が宇喜多直家勢に攻められ、定範の実父である江見祐春が自刃した。
事の発端は、尼子残党の中でも勇名を馳せた山中鹿介幸盛が中心となって、京に出て東福寺の僧となっていた尼子誠久の五男を還俗させて尼子勝久と名乗らせ、御家再興を目指して挙兵したことにある。
尼子残党はかつての本拠たる月山富田城の奪還こそ果たせなかったものの、出雲国や伯耆国のみならず、かつての尼子家の勢力圏内には呼応して味方する勢力も少なくない。
美作国もまた毛利の影響下にあったが、尼子残党の美作侵入を受けて、かつて尼子に仕えていた経緯もあって美作国の三浦氏が馳せ参じ、さらに備前の宇喜多勢が尼子方として起った。
いわば、美作国は毛利と宇喜多の代理戦争の場に選ばれ、江見城は巻き込まれた形である。
もっとも、美作国だけにとどまる話であれば、則頼に直接かかわりのある出来事ではない。
しかしながら厄介なのが、定範の実弟である江見小三郎定治が、生き残りの一族郎党や江見家の旧臣を引き連れて、兄を頼って淡河城まで落ちのびてきたことだ。
江見定治は淡河姓と長範の名を新たに与えられて淡河新三郎長範と名乗り、野瀬城を守る定範の義理の叔父・範政の元に預けられることになる。
だが、江見家旧臣に分け与えられる余分な禄など、ただでさえ有馬家に蚕食された淡河の領地にある筈もない。
新田を拓こうにも、谷筋のめぼしい平地は既に田畑になっているうえ、北は石切山の出城、東は萩原城、そして西には三津田城と三方を有馬方が抑えている。
唯一、手を伸ばせる南側には丹生山の山塊が迫るため、日当たりの悪い山の北斜面や水はけの悪い湿地などを開拓しなければならない。
当然、ここ数年来の平穏は否応なく破られ、なにかにつけて有馬家と衝突する機会も増えることになる。
敵方に加わった江見家の旧臣は、有馬家が支配する田畑を奪い取って自らの所領としようと目の色を変えている。
則頼にとっては、単に敵の人数が増えた以上に手ごわい相手だった。
「どうにも、逆風が吹いておるな」
三好家の没落により後ろ盾を失った則頼には、状況を打開する方策はそう簡単には思いつかない。
しかし、閉塞した状況を大きく揺るがす波が、まもなく東から訪れようとしていた。
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