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(十六)村重謀叛
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十月十五日に、秀吉は三木城と対峙する平井山の本陣にて、陣中見舞いに訪れた豪商・天王寺屋の津田宗及を迎えて茶会を開いたとの記録が残る。
宗及は、かつて三好実休が懇意としていた津田宗達の子であり、父から武野紹鴎由来の茶道の手ほどきをうけている茶人である。
敵城の目と鼻の先で戦さとは無縁の催しをしてみせるとは、いかにも秀吉らしいはったりである。
無論のこと、竹中半兵衛の指図で兵が周囲を抜かりなく厳重に固めており、別所方に付け入る隙を与えなかった。
この時期、秀吉方が戦局を優勢に進めていることは確かであり、事実、十月末までには梶原平三兵衛景行が籠もる高砂城が秀吉勢の手に落ちている。
高砂城の攻防においては、一時は西国の雄・毛利家の当主である毛利輝元が自ら出馬して秀吉勢に痛撃を加えたものの、上月城同様、やはり深追いをさけて兵を退いている。
相次ぐ支城の陥落、そして頼みとする毛利勢の動きが思いのほか消極的である事実は、別所方の士気を失わせている筈だった。
則頼も、三津田城の奪取という手柄をあげる機会を逃したまま、別所が降伏してしまうのではないかと、密かにそんな心配をしたほどだった。
しかし、高砂城の陥落の報と相前後する形で、葛屋の連雀が思いもよらない一大事を告げた。
「なんたることじゃ」
豊助からの書状を受け取った則頼は、ただちに萩原城の本丸大広間に主だった家臣を集め、軍評定を開く。
「何事でございましょう」
二十名ほど集まった家臣を代表する形で、吉田大膳が問う。
「皆、まずはこれをみよ」
則頼は、戦況を手ずから書き記した例の絵図を広げた。
これまでは戦域から遠く、ごく簡単に略記していた播磨より東側の部分に紙が貼り足され、豊助から伝えられた最新の情勢が書き加えられている。
「これは……?」
「摂津有岡城の主、荒木摂津守村重が織田から離反しおった」
則頼の言葉に、大広間に集まった家臣の間にざわめきが広がる。
悪い報せを伝えるのは則頼としても二の足を踏む思いであったが、隠したところで遅かれ早かれ噂は伝わるものだ。
下手に尾ひれのついた流言が広まるよりは、先手を打って報せてしまうほうが良い。則頼は腹をくくる思いでこの場に臨んでいた。
「これでは、羽柴勢は本国から切り離されたのではないか」
「いや、退路が断たれたとまでは言えまい」
「だとしても、これで別所は息を吹き返すことになろう」
しばしの間、それぞれに言い合う家臣の声に耳を傾けていた則頼は、やがて口を開いた。
「狼狽えるでない。荒木摂津が反織田に転じたとは申せ、筑前様の軍略はなんら揺るぎはせぬ」
「さりながら、織田家の軍勢はまず有岡城攻めに向けられましょう。その間、助勢を得られぬ筑前様は自重を余儀なくされるのでは」
大膳の言葉は、則頼にとって痛いところを衝くものであった。
(ここは、下手に取り繕ってはならぬな)
覚悟を決め、則頼は口をへの字に曲げて頷く。
「あるいは、大膳の申すとおりやも知れぬ。じゃが、我等は変わらず城の守りを固め、淡河の動きを逐一見張るのみじゃ。決して浮足立ってはならぬぞ」
いくら荒木村重が有岡城を抑えているとはいえ、籠城の構えをみせているだけでは織田の荷駄を阻止する事は出来ない。
現に、三木城に籠る別所勢を相手に、敵地に乗り込んだ格好の秀吉は半年に渡って軍勢を動かし続けているが、兵糧切れを恐れるそぶりすらみせない。
逆に、別所に味方した播磨の集落は秀吉方によって焼かれ、荒らされており、別所方は今年の収穫をほとんど兵糧に加えられていない。
「苦しいのはむしろ別所方。勝つのは織田じゃ」
そうまとめた己の言葉を、家臣全員が必ずしも得心したとは則頼も思っていない。
表向きはともかく、心情では他国者の秀吉より東播磨の盟主である別所の善戦を応援している者も少なくない。
しかし、これまでの経緯を考えれば、今さら自分達が別所方に寝返るなど出来る相談ではないことは、誰もが承知している筈なのだ。
事実、則頼の方針に明確に反意を示す者はいなかった。
軍評定が散会となった後、大広間には則頼と大膳だけが残っていた。
「荒木摂津守の元に身を寄せた渡瀬殿はどうするのじゃろうな。摂津守が織田方だと思うたからこそ縁を頼って落ちのびたというのに、よくよく運のない御仁じゃ」
絵図に目線を落としながら、則頼はぽつりと呟く。
数か月前、渡瀬好光が則頼を頼って萩原城に姿をみせたことは、多くの家臣が知るところとなっている。
しかし、好光を荒木村重の元に送り届けさせた事実を知るのは大膳のみである。他の者は、単に則頼が情けをかけて逃がしたとしか認識していない。
「この先、渡瀬様は如何なされるおつもりでしょうな。織田と戦う気はないと摂津守とは袂を分かつのか、はたまた腹をくくって再び織田を相手の戦さに挑むのか……」
傍らの吉田大膳も、いつにも増して浮かぬ顔である。
「気に掛かるとはいえども、渡瀬殿の消息を探る為だけに葛屋を動かす訳にはいかぬでな」
葛屋の連雀にも当然ながら頭数に限りがある。
播磨の情勢を調べるにはいくら人手があっても足りない情勢で、興味本位で他人の行方を追っている場合ではない。
ましてや、渡瀬好光が荒木村重の元に身を寄せていると家臣が知れば、良からぬことを考える者も出かねない。
いくら気がかりでも、深入りをすべきではなかった。
村重の背信を信長が座視するはずもなく、ただちに織田の軍勢は村重が籠る有岡城に仕寄り、力攻めが行われた。
しかし城の守りは固く、頑強な抵抗を受けて落城には至らないまま年を越し、天正七年(一五七九年)を迎える。
一方、織田勢が有岡城に掛かり切りになればなるだけ、東播州における織田の圧力は弱まると別所方は考えたのか、大手門を開いて軍勢を繰り出した。
これにより、平井山合戦と呼ばれる三木合戦の中でも著名な戦いが生起する。
この合戦は、軍記物などでは概ね翌天正七年二月の出来事として語られる。
しかし、後世に残る感状などの日付から、少なくとも別所勢を率いて出陣した別所長治の実弟、治定が討死した戦いは、天正六年十月二十二日であることがほぼ確実とされている。
別所治定率いる別所勢は、平井山の西側に回り込みながら本陣を直撃すべく、正面の土塁を迂回しながら突っ込んだ。
だが、羽柴勢が動揺していると手前勝手に判断して攻め寄せた代償は高く付いた。
確かに羽柴勢は村重に叛かれたことで少なからず混乱していた。しかし、それで本陣の守りがおろそかになるほど戦慣れしていない筈もなかった。
秀吉としては、別所の無策ぶりに失笑する思いであったかも知れない。
陣構を活かして敵の勢いを受け止めつつ、機を見て側面を衝くだけで別所勢は為す術もなく崩れたった。
乱戦の最中、別所治定は秀吉の郎党、樋口太郎政武と華々しい組み討ちの末に討たれたとされる。
一説には、背負っていた母衣が退却中に木の枝に引っかかり、落馬したところを討たれたとも伝えられる。
平井山を巡る攻防は、その後も数度に渡って繰り返されたが、規模で言えば、天正七年二月に行われた合戦のほうが大きかったのだろう。
軍記物が成立していくにあたって、同じ場所で数度繰り返された合戦は内容が整理され、規模の大きな二月の合戦に、別所治定の討死が統合されて付け加えられていくことになったのかも知れない。
さらに四月十八日にも、秀吉の本陣を目指して出陣した別所勢との交戦が行われるが、守りを固める平井山の陣を突き崩すことは叶わなかった。
損害ばかり多く、さして得るものもなかった戦いであるが、天正七年一月に隙を突いて、英賀城から三木城に兵糧が運び込まれたのが、別所方にとっては唯一の慰めであろうか。
いずれにせよ、荒木村重の挙兵にも関わらず、三木城に籠もる別所勢が単独では羽柴方の包囲を破れない程度の力しか持たないことは、誰の目にも明らかとなっていた。
なお、三木城の包囲陣の中には則頼も持ち場を与えられている。
ただし、与えられた陣所は平井山の秀吉本陣の西側にある慈眼寺山に置かれ、最前線には程遠い後方に位置していた。
正面には堀尾吉晴、加藤光泰、仙石権兵衛といった秀吉股肱の将が陣を敷いており、別所方と直接対峙するような配置ではなかった。
秀吉も則頼に戦さ働きを期待していないことは明らかであった。
則頼も、いても仕方のない陣所には、名代を立てるだけで自らはあまり寄り付かない。
申し訳程度に兵を駐留させてはいるが、自身はもっぱら、別所方とされている三津田城の有馬重頼と密かに連絡を取りつつ、もっぱら淡河城の動きをけん制しつつ、領民の慰撫に努めていた。
(いずれ、我等が動くべき時節が来る。それまでは力を蓄えておかねばならん)
家中の不満をなだめつつ、則頼はそう念じていた。
そして、則頼の願い通り、いよいよ「その時」が来る。
宗及は、かつて三好実休が懇意としていた津田宗達の子であり、父から武野紹鴎由来の茶道の手ほどきをうけている茶人である。
敵城の目と鼻の先で戦さとは無縁の催しをしてみせるとは、いかにも秀吉らしいはったりである。
無論のこと、竹中半兵衛の指図で兵が周囲を抜かりなく厳重に固めており、別所方に付け入る隙を与えなかった。
この時期、秀吉方が戦局を優勢に進めていることは確かであり、事実、十月末までには梶原平三兵衛景行が籠もる高砂城が秀吉勢の手に落ちている。
高砂城の攻防においては、一時は西国の雄・毛利家の当主である毛利輝元が自ら出馬して秀吉勢に痛撃を加えたものの、上月城同様、やはり深追いをさけて兵を退いている。
相次ぐ支城の陥落、そして頼みとする毛利勢の動きが思いのほか消極的である事実は、別所方の士気を失わせている筈だった。
則頼も、三津田城の奪取という手柄をあげる機会を逃したまま、別所が降伏してしまうのではないかと、密かにそんな心配をしたほどだった。
しかし、高砂城の陥落の報と相前後する形で、葛屋の連雀が思いもよらない一大事を告げた。
「なんたることじゃ」
豊助からの書状を受け取った則頼は、ただちに萩原城の本丸大広間に主だった家臣を集め、軍評定を開く。
「何事でございましょう」
二十名ほど集まった家臣を代表する形で、吉田大膳が問う。
「皆、まずはこれをみよ」
則頼は、戦況を手ずから書き記した例の絵図を広げた。
これまでは戦域から遠く、ごく簡単に略記していた播磨より東側の部分に紙が貼り足され、豊助から伝えられた最新の情勢が書き加えられている。
「これは……?」
「摂津有岡城の主、荒木摂津守村重が織田から離反しおった」
則頼の言葉に、大広間に集まった家臣の間にざわめきが広がる。
悪い報せを伝えるのは則頼としても二の足を踏む思いであったが、隠したところで遅かれ早かれ噂は伝わるものだ。
下手に尾ひれのついた流言が広まるよりは、先手を打って報せてしまうほうが良い。則頼は腹をくくる思いでこの場に臨んでいた。
「これでは、羽柴勢は本国から切り離されたのではないか」
「いや、退路が断たれたとまでは言えまい」
「だとしても、これで別所は息を吹き返すことになろう」
しばしの間、それぞれに言い合う家臣の声に耳を傾けていた則頼は、やがて口を開いた。
「狼狽えるでない。荒木摂津が反織田に転じたとは申せ、筑前様の軍略はなんら揺るぎはせぬ」
「さりながら、織田家の軍勢はまず有岡城攻めに向けられましょう。その間、助勢を得られぬ筑前様は自重を余儀なくされるのでは」
大膳の言葉は、則頼にとって痛いところを衝くものであった。
(ここは、下手に取り繕ってはならぬな)
覚悟を決め、則頼は口をへの字に曲げて頷く。
「あるいは、大膳の申すとおりやも知れぬ。じゃが、我等は変わらず城の守りを固め、淡河の動きを逐一見張るのみじゃ。決して浮足立ってはならぬぞ」
いくら荒木村重が有岡城を抑えているとはいえ、籠城の構えをみせているだけでは織田の荷駄を阻止する事は出来ない。
現に、三木城に籠る別所勢を相手に、敵地に乗り込んだ格好の秀吉は半年に渡って軍勢を動かし続けているが、兵糧切れを恐れるそぶりすらみせない。
逆に、別所に味方した播磨の集落は秀吉方によって焼かれ、荒らされており、別所方は今年の収穫をほとんど兵糧に加えられていない。
「苦しいのはむしろ別所方。勝つのは織田じゃ」
そうまとめた己の言葉を、家臣全員が必ずしも得心したとは則頼も思っていない。
表向きはともかく、心情では他国者の秀吉より東播磨の盟主である別所の善戦を応援している者も少なくない。
しかし、これまでの経緯を考えれば、今さら自分達が別所方に寝返るなど出来る相談ではないことは、誰もが承知している筈なのだ。
事実、則頼の方針に明確に反意を示す者はいなかった。
軍評定が散会となった後、大広間には則頼と大膳だけが残っていた。
「荒木摂津守の元に身を寄せた渡瀬殿はどうするのじゃろうな。摂津守が織田方だと思うたからこそ縁を頼って落ちのびたというのに、よくよく運のない御仁じゃ」
絵図に目線を落としながら、則頼はぽつりと呟く。
数か月前、渡瀬好光が則頼を頼って萩原城に姿をみせたことは、多くの家臣が知るところとなっている。
しかし、好光を荒木村重の元に送り届けさせた事実を知るのは大膳のみである。他の者は、単に則頼が情けをかけて逃がしたとしか認識していない。
「この先、渡瀬様は如何なされるおつもりでしょうな。織田と戦う気はないと摂津守とは袂を分かつのか、はたまた腹をくくって再び織田を相手の戦さに挑むのか……」
傍らの吉田大膳も、いつにも増して浮かぬ顔である。
「気に掛かるとはいえども、渡瀬殿の消息を探る為だけに葛屋を動かす訳にはいかぬでな」
葛屋の連雀にも当然ながら頭数に限りがある。
播磨の情勢を調べるにはいくら人手があっても足りない情勢で、興味本位で他人の行方を追っている場合ではない。
ましてや、渡瀬好光が荒木村重の元に身を寄せていると家臣が知れば、良からぬことを考える者も出かねない。
いくら気がかりでも、深入りをすべきではなかった。
村重の背信を信長が座視するはずもなく、ただちに織田の軍勢は村重が籠る有岡城に仕寄り、力攻めが行われた。
しかし城の守りは固く、頑強な抵抗を受けて落城には至らないまま年を越し、天正七年(一五七九年)を迎える。
一方、織田勢が有岡城に掛かり切りになればなるだけ、東播州における織田の圧力は弱まると別所方は考えたのか、大手門を開いて軍勢を繰り出した。
これにより、平井山合戦と呼ばれる三木合戦の中でも著名な戦いが生起する。
この合戦は、軍記物などでは概ね翌天正七年二月の出来事として語られる。
しかし、後世に残る感状などの日付から、少なくとも別所勢を率いて出陣した別所長治の実弟、治定が討死した戦いは、天正六年十月二十二日であることがほぼ確実とされている。
別所治定率いる別所勢は、平井山の西側に回り込みながら本陣を直撃すべく、正面の土塁を迂回しながら突っ込んだ。
だが、羽柴勢が動揺していると手前勝手に判断して攻め寄せた代償は高く付いた。
確かに羽柴勢は村重に叛かれたことで少なからず混乱していた。しかし、それで本陣の守りがおろそかになるほど戦慣れしていない筈もなかった。
秀吉としては、別所の無策ぶりに失笑する思いであったかも知れない。
陣構を活かして敵の勢いを受け止めつつ、機を見て側面を衝くだけで別所勢は為す術もなく崩れたった。
乱戦の最中、別所治定は秀吉の郎党、樋口太郎政武と華々しい組み討ちの末に討たれたとされる。
一説には、背負っていた母衣が退却中に木の枝に引っかかり、落馬したところを討たれたとも伝えられる。
平井山を巡る攻防は、その後も数度に渡って繰り返されたが、規模で言えば、天正七年二月に行われた合戦のほうが大きかったのだろう。
軍記物が成立していくにあたって、同じ場所で数度繰り返された合戦は内容が整理され、規模の大きな二月の合戦に、別所治定の討死が統合されて付け加えられていくことになったのかも知れない。
さらに四月十八日にも、秀吉の本陣を目指して出陣した別所勢との交戦が行われるが、守りを固める平井山の陣を突き崩すことは叶わなかった。
損害ばかり多く、さして得るものもなかった戦いであるが、天正七年一月に隙を突いて、英賀城から三木城に兵糧が運び込まれたのが、別所方にとっては唯一の慰めであろうか。
いずれにせよ、荒木村重の挙兵にも関わらず、三木城に籠もる別所勢が単独では羽柴方の包囲を破れない程度の力しか持たないことは、誰の目にも明らかとなっていた。
なお、三木城の包囲陣の中には則頼も持ち場を与えられている。
ただし、与えられた陣所は平井山の秀吉本陣の西側にある慈眼寺山に置かれ、最前線には程遠い後方に位置していた。
正面には堀尾吉晴、加藤光泰、仙石権兵衛といった秀吉股肱の将が陣を敷いており、別所方と直接対峙するような配置ではなかった。
秀吉も則頼に戦さ働きを期待していないことは明らかであった。
則頼も、いても仕方のない陣所には、名代を立てるだけで自らはあまり寄り付かない。
申し訳程度に兵を駐留させてはいるが、自身はもっぱら、別所方とされている三津田城の有馬重頼と密かに連絡を取りつつ、もっぱら淡河城の動きをけん制しつつ、領民の慰撫に努めていた。
(いずれ、我等が動くべき時節が来る。それまでは力を蓄えておかねばならん)
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