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(二十三)本能寺の変

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 天正十年(一五八二年)三月。
 七年前の天正三年(一五七五年)の長篠の合戦に大敗して以来、退潮にあった武田家が、信長によって遂に滅ぼされた。

 則頼にとっては京より東の出来事は縁遠い話であるが、過去には先代の信玄に散々脅かされた信長にとっては痛快時であった。

 織田家全体を見渡すと、北陸方面では上杉謙信亡き後の上杉領を柴田勝家が侵攻を進めており、中国方面でも秀吉が毛利を相手に優位に戦いを進めていた。

 鳥取城攻略を成し遂げた秀吉は、三月十五日に姫路城から備中に向けて出陣した。

 翌月の四月十五日には宇喜多勢を加えた三万近くに及ぶ軍勢で備中の要衝・高松城を包囲した。

 しかし、湿地帯にある備中高松城を力攻めにすることは困難と判断した秀吉は、その周囲に水堤を築き、水攻めにするという奇策を立てた。

 五月八日から始まった大規模な普請は、同月の二十日ごろには概ね完成に至った。

 この動きに対して毛利家当主の毛利輝元は、叔父である吉川元春、小早川隆景らと共に、総力を挙げて出陣してきたものの、秀吉の堅い守りの前に成す術もなく対峙するしかない状況に陥った。

 秀吉が毛利の大軍と対峙する情勢下にあっても、則頼は秀吉の元に同陣することもなく、依然として播磨にとどまって領内の整備に勤しんでいた。

 別所家が滅んで一年も経つと、次第に民心も安定し、淡河の地の統治にも手ごたえを感じる機会が多くなった。
 豊助の後を継いだ福助は、もっぱら淡河城から浦川を挟んですぐ東側に構えた葛屋の支店に腰を据えていた。

 町の規模に比べていささか大きすぎる店であったが、京や堺から連雀が運び込む品々が、淡河の地の復興に少なからず寄与していた。

 また、新たに召し抱えた淡河長範の働きも期待に違わぬもので、淡河の旧臣をそつなくまとめていた。

 三津田の地は、城代として配した嫡男・則氏を有馬重頼が補佐する形をとり、こちらもつつがなく治まっている。

 そうなると、いまや織田家中で覚え目出度い羽柴秀吉の配下であり、織田領内であれば大手を振って足を運べる立場を利用しない手はない。

 心身に余裕を得た則頼は、折を見て政事の合間を縫って戦火の絶えた京や堺まで出かけ、三好の使番時代の旧交を温めた。

 四月には、今井宗久や津田宗及と並ぶ茶頭として織田信長に重用されている千利休の元で茶事を楽しむなどの余裕さえあった。

 このまま上杉と毛利が攻め滅ぼされることとなれば、天下の趨勢は信長の元にほぼ定まることになるだろう。

「戦さに駆り出されないのはありがたいことじゃが、働きどころがないのも困るのう」
 居を移した淡河城での暮らしにも慣れた則頼は、本丸の物見櫓から己の領地を見渡しつつ、いささかやや複雑な思いでつぶやく。

 秀吉が西へ西へと勢力を広げていく一方、自分は淡河一万石に取り残されたままで終わるのではないか。

 密かにそう危ぶむ則頼であったが、それが甘い考えであると、否応なく気づかされる日が来ることになる。




 六月四日。
 夜明けを待ちかねたかのように、淡河城に葛屋の福助が姿を見せた。

 朝の勤行を済ませた則頼は、城門の番卒から近習経由でその来訪を告げられた。

「かような刻限から商売熱心なことじゃ。そなたの父譲りじゃな」

 則頼は、あたかも自分から商売の話のために招き寄せられたという体裁で、福助を書院に迎え入れた。

 福助は、得意先相手の商売に来たにしては、ただならぬ緊張の気配を垣間見せていた。
(このあたりはまだまだ若いな)

 本心らしきものを一切掴ませなかった豊助の域にはまだ達していない、と則頼は福助を値踏みする。

 それだけ自分も歳を取り、経験を重ねたということか、などと則頼は内心で呟く。

「それで、何ぞあったか」

「京にて一大事が出来いたしました」

 向かい合った則頼の思いを知る由もなく、こわばった表情の福助が口を開いた。

「一大事とな」

「織田前右府様、宿所の本能寺にて惟任日向守様の手勢に襲撃され、果てられたとの由にございます」

 福助は周囲を警戒するそぶりを見せながら小声で告げた。織田前右府とは織田信長、惟任日向守とは明智光秀のことだ。

 もちろん、聞き耳を立てる者はいないと承知しつつも、習い性なのであろう。

「なんと」

 思いもよらぬ報せに、さすがに則頼も驚きに二の句が継げなくなる。

 続けて福助は、信長の嫡男である織田信忠も同様に討たれたらしいと言葉をつづけた。

「それでは、織田家は立ち行かぬやもしれぬ」

 自分も経験を重ねて老成した、などと考えたがとんでもないことだ、と則頼は自省する。

 しかし、それも一瞬のこと。思考はすぐに、これから己がなすべきことに向かう。

 この一大事は単に天下に手を掛けた男の死去では済まない。後継者もろとも葬り去られた織田家が、天下を治めることが出来るのか。信長亡き後の織田家に天下は手に余るのだとすれば、その跡を継ぐのは誰なのか。

 思考が目まぐるしく回転する、
 と言えば聞こえはよいが、実際には思いが千々に乱れて思案は容易にはまとまらない。

「それはいつのことじゃ」

「六月二日の払暁にございます」

「二日前か」
 則頼は脳裏に地図を思い描く。

 京と淡河の距離を考えれば、報せが遅いとは言えない。

 しかし、この重大事を知らぬまま二日間を過ごしてしまったことに、則頼はなにか取り返しのつかないしくじりをしでかした気分になる。

「ともあれ、この先、何が起こるや判らぬ。兵を集めねばならんな」

 則頼は半ば無意識のうちにそのような言葉を口にしてから、ようやく自分がなすべきことに思いたる。

「いかぬ。それどころではないわ。この事、まずは筑前様に伝えねばならんぞ」

 よほど動転していたことを痛感して、則頼は己の額をぴしゃりと叩く。

「京からは既に、織田の急使が既に各地に走っておると思われますが」

「それはそうであろう。じゃが、我等の忠誠とは別儀じゃ。いまこの瞬間、まだ筑前様は変事を知らぬやもしれぬ。そうである以上、報せねばならぬ」

 代替わりして間もない福助には、豊助ほどの機転は期待できないかも知れない。
 福助の態度に則頼はふとそう思う。

 しかし、今はそれを指摘し、教育している暇も惜しい。

「知りながら黙って下命を待つだけでは、謀叛に与したと疑われかねぬ、とのお考えでございますか」
 福助も眉間に皺をよせ、己が何をすべきか懸命に考えている様子だった。

「そういうことじゃ。承知したならば、済まぬがただちに出立せよ」
 険しい声で、則頼は命じた。



 一方、信長が本能寺において明智光秀に討たれた事実を、備中高松城を攻めていた秀吉は毛利に先んじて、六月三日の深夜には知ったとされている。

 秀吉は信長横死の事実を伏せたまま、毛利との和睦を短期のうちにまとめあげた。

 なお、天正年間の早い時期から毛利の外交僧として織田家と接触していた安国寺恵瓊は、秀吉との和睦交渉を重ねる間に入魂の間柄となっていた。

 後のことになるが、恵瓊は秀吉から伊予に六万石を与えられ、東福寺の住持としてれっきとした地位がありながら、独立した大名にまで至ることになる。

 ここまで栄達したのはもちろん、外交僧としての交渉能力の高さを秀吉が見込んだのが第一である。だが、恵瓊の出身が毛利家によって滅ぼされた安芸武田氏であり、秀吉好みの面白き坊主であったことも一因であった。

 ともあれ毛利勢に背後を襲われることもなく、世に名高い「大返し」により軍勢を東上させた秀吉は、六月十三日の山崎の合戦において明智光秀の軍勢を打ち破る。

 この歴史的な信長の弔い合戦に、残念ながら則頼の出る幕はなかった。

 急ぎ走らせた福助にしても、第一報を伝えるものではなかった。
「その儀なれば既に存じておるが、有馬の坊主が伝えてきたことなれば、万が一にも誤りはないと確信が持てた故、礼を申す。と、羽柴様は仰せにございました」

 秀吉の本陣から蜻蛉帰りで淡河城まで戻ってきた福助は、肩を落として則頼にそう報告した。

「気に病まずともよいわ。まあ、なにがしかのお役に立てたのならば良しとするか」
 福助を慰める則頼の思いは、これからのことに向いていた。

 信長と、さらに嫡男の信忠を喪った織田家が、このまま何事もなく四方に外征を続けて天下を一統することは、今や不可能である。後継者を立てない限り、何もできまい。

 誰が織田の家を継ぐにしろ、その新体制において秀吉がどのような立場となるかによって、則頼の今後は大きく左右されるのは間違いない。

(これからも、弔い合戦を主導した羽柴筑前様についていけば、まず間違いないとは思うが……)
 信長亡き世を生き抜くため、今後も知恵を絞る必要がありそうだった。



 山崎の合戦から数日後。
 淡河城に、秀吉からの使者がやってきた。

「尾張の清州城にて、織田家の後継者を定める会合が行われます」

 本丸御殿の広間にて、上意を承るとの体裁のため、上座を譲られて腰を下ろした使者はまずそう切り出した。

「なるほど。そのような話が進んでおったのか」
 下座に回った則頼は得心顔で頷く。

 秀吉による仇討は成ったものの、信長のみならず、嫡男の信忠も討たれた織田家の後を継ぐべき者がいなくなった事実は覆しようもない。

 信長の本拠である安土城は、光秀敗北後、詳細不明の出火により焼け落ちてしまっているため、かつての居城の清州城に重臣が参集するのだという。

 当主の親族ではなく重臣が跡継ぎを定めるのは珍しい話であるが、天下人を継ぐ家系となれば、もはや親族だけで決められるものではない。重臣の意向も無視できないのだろう。

(もっとも、水面下の動きとはいえ、豊助がおったならば使者が登城する前に清州の会合の噂を探り当てて伝えてくれたやも知れぬの)
 つい、内心で福助の働きに物足りなさを感じる則頼である。

「ついては、有馬様にも清州に参集されたしとの、殿のご命令にござります。会合は六月の二十七日と定められておりますゆえ、前々日には着到せよとのお達しでござりまする」

「儂が行って、何がどうなるというのだ。羽柴様は儂に何を期待されておられるのじゃ」
 使者の言葉に、則頼は思わず頓狂な声を出す。

 そのようなことを訊ねても詮無いのだが、聞かずにはおられない。

「それがしにはしかと判りかねますが、殿は、有馬様の知恵を頼みとされておるご様子にござります」
 にへそを曲げられては役目が果たせないと思ったのか、使者の口ぶりは妙に丁寧なものだった。

「それはありがたきこと。もちろん承知したゆえ、準備が整い次第すぐに馳せ参じるとお伝え願いたい」
 則頼としてはそう応じるしかなかったが、使者はその言葉にあからさまに安堵の表情を見せた。




 役目を果たした使者が辞した後、則頼は善後策を練るために吉田大膳、有馬重頼、そして淡河長範を書院に集めた。

「突然の話ではあるが、否はない。ともかく行かねばなるまいな」

 六月二十五日に清州城まで辿り付くとなれば、あまりのんびりとしてはいられない。

「本能寺における変事をいち早く知らせたゆえ、目端が利くと見込まれたのではございませぬか。重臣が集まっての合議となれば、相手の肚の内をいかに探るかが肝要でございましょうから」

 有馬重頼が、まず我が事のように得意げに秀吉の心意を推量する。

 なお、則頼は大膳同様、重頼や長範に対しても、葛屋の裏の顔、すなわち調者働きについて詳細は伝えていない。

 それでも、何かしらの諜報の術が則頼にはあるものと重頼は推察はしているらしい。

「どの道、清州城に行かぬという話にはならぬ以上、あれこれと考えたところで致し方ありますまい」
 淡河長範がぼそりと呟くような声で意見を述べる。

「判っておる。遠いところまで行かねばならぬと聞き、少々億劫になったまでよ。留守は蔵人に任す。新三郎は蔵人を援けよ。大膳は儂と共に行くゆえ、旅支度を致せ。明朝早くに出立するゆえ、寝坊致すなよ」

「また、それがしが御供にございますか」
 供を命じられた吉田大膳がうんざりとした顔を見せる。

「行かぬという話にはならぬのじゃ、異見は聞かぬ」
 大膳の言葉を聞き流しながら則頼は腰を上げた。


 その後、自室に戻った則頼は淡河城下の葛屋の支店にいた福助を城内に呼び出した。

 表向きは旅に必要な品を買い求めるためと称していたが、もちろん福助に期待しているのは商品だけではない。

「此度は、先触れを走らせて安土の親父殿にも声をかけて働いてもらいたい。どのような形で羽柴殿が有利になる話を入手できるか、皆目わからぬのでな」

 則頼は福助に経緯を説明して頼む。

「承知しました。父からも、もはや上様亡き安土からは引き払う他はないやも知れぬ、との文が届いております。腰をあげるには良き時分でございましょう」
 福助は神妙な面持ちで請けあった。

「ううむ。そうなるか。まだ、織田の後継者が安土に居を構えぬと決まった訳でもなかろうが……」
 則頼は唸った。
 
 安土を本拠として用いるためには、焼け落ちた安土城を再建しなければならず、多大な労力と期間が必要となる。

 かつて信長は、安土城の落成を待ちかねて仮御殿に住んだ時期があったというが、後継者が誰になるにせよ、わざわざそのような真似はしないように思われた。

 ともあれ、まずは清州城に向かわねば話にならない。


 一晩掛けて準備を整えた則頼は、翌朝の早朝には吉田大膳の他、警固のための最小限の兵や小者らを含めて十名あまりを引き連れて淡河城を出立した。
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