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(二十五)有馬則氏の出陣
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天正十年(一五八二年)八月。
淡河城の則頼の元に、秀吉から淡河に三千二百六十石を宛がう旨の書状が届けられた。
則頼は重臣の吉田大膳、有馬重頼、淡河長範、そして嫡男・有馬則氏を書院の一室に集め、その書状をみせた。
夏の盛りとあって窓は開け放たれているが、むさくるしい男どもが額を寄せ合って書状を覗き込んでいるのでは、なお一層暑苦しい。
「淡河の地は既に当家が治めておりますれば、これは加増の沙汰ではないということですな」
今一つ得心のいかないといった表情で、まず大膳が書状から顔を上げて呟きを漏らす。
その言葉通り、今の有馬家は三津田、戸田に加えて淡河六千五百石の全域を所領としている。いまさら淡河に新たに受け取る地などない筈である。
「さて、これは。一昨年、当家がこの城を預かった際は、口頭のみでありましたでしょうか。それ故、あらためて書面にしたということでは」
そう応じる則氏も腑に落ちないのか、しきりに首をひねっている。
「これはつまり、儂が筑前様の家臣になったということであろう」
助け船を出すような心持で則頼が発した言葉だが、四人はいずれも納得した様子はみせない。
むしろ余計に混乱しているようにさえ見える。
「どういうことでございましょうか。殿はそもそも、羽柴様に従われておりますが」
眉間にしわを寄せ、重頼が則頼に尋ねた。
その横で大膳が首を横に振る。
「それは違うのではないか。殿は、羽柴様を通じて織田の傘下に加わったに過ぎん。羽柴家の家臣になった訳ではない」
大膳が口を挟んだのち、しばし大膳、重頼、則氏の三人がああでもない、こうでもないと議論を始める。
その間、長範は無言のまま、書状を前に腕を組んでいる。
皆が困惑するの無理はない、と則頼は思う。
大膳、重頼、則氏には、自分の主君が誰かから加増されるという経験がない。
有馬家は、決して聞き分けが良くなかったとはいえ、織田の侵攻があるまで別所家に従う立場であった。
とはいえ、有馬家の領内の治世に別所家が介入することはないし、その働きに応じて加増や減封などの措置をとることもない。
有馬家はあくまでも別所家の力を認めたうえで、独立性を保っていたのであり、別所家の家臣として俸禄を与えられる訳ではなかった。
「つまり、これからの儂は織田家重臣の羽柴様の命に従うのではなく、羽柴家の家臣として仕えることになるという訳よ」
則頼はそう言葉を継ぐが、それだけではないだろうと感じている。
先日の清須会議に遅参した罪と、城内に乱入して柴田勝家らを怯ませる振る舞いをみせた功を差し引きした結果、加増はないまま、改めて秀吉から所領を宛がう沙汰が下ったものだろう。
もっとも、今の大膳らにその真意が伝わるとも思えないので、いちいち説明はしない。
「我等の立場が変わりますでしょうか」
これまで黙っていた長範がはじめて口を開いた。
美作国の江見家に生まれ、主家滅亡とともに淡河家に逃れ、その淡河家も失われて則頼に拾われた経緯があるだけに、他の重臣よりこの問題の機微を掴んでいる様子がうかがえた。
「いや、その方らはこれまでどおり儂のために働いてくれればよい。したが、儂はいわば羽柴家の直臣となった訳じゃから、これまで以上に働かねばならぬであろうな」
形はどうあれ、秀吉は織田家を補佐する立場を超えて、自らが天下に覇を唱える腹積もりである、と則頼はみている。
信長亡き後の時勢を読み切れない家臣たちの困惑を前に、今いちど気を引き締める則頼であった。
露骨に味方の取り込みと引き締めを計る秀吉に対し、表向きはどうあれ、清州会議で秀吉を相手に実質的に遅れをとった柴田勝家も黙ってはいない。
当然のことながら巻き返しを画策した。
山崎の戦い名目上は弔い合戦の大将となりながら後継者の座を射止めそこねた信長の三男・織田信孝もまた、新たに与えられた美濃岐阜城にて不満を募らせていた。
元々勝家は信孝の烏帽子親であり、親密な間柄である。
二人が手を組み、反秀吉の策謀を巡らせるのは自然な流れだった。
まず彼らは、伊勢に逼塞していた滝川一益を味方に引き入れた。
本能寺の変の折、一益は赴任間もない関東の地にあったため、北条を相手の一戦を余儀なくされ、会議に出席するどころではなかった。
結局、北条を相手に大敗を喫して、命からがら本領の伊勢に逃げ戻っていた。
年明け早々、伊勢亀山城をはじめとして、伊勢の諸城で羽柴方と柴田方の間で小競り合いが繰り返された。
当然のことながら、腰の軽さを身上とする秀吉は、軍勢を率いて伊勢に駆け付ける。
勝家の本拠地である越前は雪に閉ざされてしまう時期であり、勝家の介入を許さぬ速攻で各個撃破を狙う。
しかし、意に反して伊勢の平定が完了しないまま、三月初旬には勝家が雪道を押して近江に進出してきた。
秀吉は急いで兵を転進させ、近江木之本で迎え撃つ構えを敷いた。勝家は柳ヶ瀬に布陣して対峙する。
戦況が膠着する間に、岐阜城の織田信孝が後方を衝く動きを示したため、秀吉は牽制のために自ら分割した兵を率いて美濃大垣城に向かった。
これを知り、好機とみた柴田勝家の腹心・佐久間盛政により、四月二十日になって中入り策が決行された。
羽柴方の中川清秀が討たれ、清秀が守備していた大岩砦が攻め落とされる事態となったが、盛政の誤算は、大垣城に向かっていた秀吉の反転速度であった。
大垣と木之本間はおよそ十二里あったが、これを秀吉は軍勢を率いて三刻足らずで駆け戻ってきたのだ。
健脚の男子の旅程であれば一日およそ十里とされる時代にあって、これは驚異的な速さであった。
帰還した秀吉は二十一日の夜明け前から盛政勢へと猛攻を仕掛けた。この際、秀吉股肱の馬廻りが奮戦し、のちに「賤ケ岳の七本槍」と称されることとなる。
盛政勢が崩れたことで、柴田勢全体が浮き足だった。
勝家の有力な与力であった前田利家が、秀吉との友諠もあって戦わず兵を退いたことも大きく、やがて総崩れとなる。
退却した柴田勝家が立てこもった本拠の北の庄城は、二十三日には追撃してきた羽柴勢に包囲された。
翌日の総攻撃により柴田勝家は、清州会議の後に娶ったばかりの信長の妹・お市の方と共に自刃して果てた。
その後、勝家という後ろ盾を喪った織田信孝は異母兄の信長次男・信雄の攻撃を受けて進退に窮し、四月末には尾張国野間にて腹を切った。
しかし、異母弟・信孝を自刃に追い込んだ織田信雄もまた、冷静さを取り戻すにつれて秀吉の甘言に乗ってしまったと後悔の念を抱くようになる。
いくら不仲であったとはいえ、実の弟を死に追いやって誰が得をしたのか、遅ればせながら気づいたのだ。
三法師が幼少の間は実質的な織田家の当主として遇される筈、との目論みは外れた。
秀吉は、己こそ信長の跡を継いで天下統一の大事業を完遂するのだと言わんばかりの態度を次第に隠さないようになっていた。
当然、信雄の意思など頭から無視してかかる振る舞いを見せる。
一度は北伊勢および伊賀を加増され、三法師の後見として安土城に入った信雄であるが、秀吉に対する不信の念を露わにするにつれ、両者の関係は険悪とならざるを得ない。
天正十二年(一五八四年)正月には、信雄は安土城から伊勢長島城へと居を移す羽目となった。
秀吉に対する不満を募らせた信雄は、三月に入って、秀吉と親密なやり取りをしていることを理由に、家老三名を成敗した。
これにより、秀吉もいよいよ態度を硬化させて信雄をないがしろにしはじめる。
信雄にしても、単独では秀吉に対抗できないことは承知している。そのため、外部に味方を求め、徳川家康と結ぶことになる。
家康にしても、信雄支援という大義名分を得たものの、信長の旧領をほぼ引き継いた秀吉と正面から戦うのは生半可な覚悟では出来ない。
土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀・根来衆などに密使を送り、後方の攪乱を依頼したうえで、秀吉に対して反旗を翻した。
これに対する秀吉はいち早く、三月十三日には尾張犬山城に池田恒興を進出させ、信雄の本拠・清州城を伺う構えをみせた。
家康は小牧山城跡に本陣を敷くと、十七日には犬山城西方の羽黒に兵を進め、羽柴方の森長可を破り、緒戦を飾った。
なお、池田恒興の娘婿でもあり、猛将として知られる長可の敗走の報が届く以前から、すでに秀吉は軍勢を大坂城に集結させはじめていた。
参陣の命令は、淡河城の則頼の元にも届いていた。
「それでは行ってまいります。父上におかれましては、どうか心安んじて御養生のほどを」
広間で則頼に向かい合った則氏は、胸を張って口上を述べた。
甲冑をまとった則氏の姿は、我が子ながら則頼の目にも凛々しく見えた。
もちろん、若年ゆえに線の細さは気になるところではあったが、これから経験を積んでいけば、良き将となるであろう。
「頼むぞ」
上座で脇息に身を預けて応じる則頼の声は小さくかすれていた。
無理もない話で、則頼は冬場に風邪をひいて以来、最近まで寝込んでいたのだ。
この時にはどうにか床上げを済ませたものの、依然として本調子には程遠い。
本来であれば則頼が出陣すべきところ、則氏が大将として赴くことになったのはそのためだ。
則氏は、秀吉の後継者と目されている羽柴秀次の組下として働くことが既に決められている。
なお、渡瀬繁詮も同じく秀次付となると則頼は聞いている。
「有馬の名に恥じぬ働きを致しまする」
「うむ。しかし、意気込むのは良いが、あまり気負うではないぞ」
淡河城攻め以来となる本格的な戦さへの参陣に緊張と興奮を隠さない則氏を前に、則頼は思わずそう忠告する。
(儂と違って血気に逸りやすいところがあるのが気がかりではあるが……)
病み上がりの身では、戦さの心得をくどくどと語る気力もない。
則氏は先ほど口にしたとおり、父に早々に休んで欲しいと心から願っているのが、その様子からも伺えた。
この年、則頼五十二歳。
老けこむには早い、といくら本人が思ってみても、若い頃のように身体が動かないことは自覚せざるを得ない。
則氏が手勢を率いて淡河城を出立した晩。
「四郎次郎は、あれだな。儂にはあまり似ておらんな。母方の血が濃いのやもしれぬ」
寝所にて、則頼は振に向かってそう言葉を掛けた。
「いえ。わたくしの父母とも似てはおりませぬ。殿の御父君から受け継いでおられるのではないでしょうか」
則頼との間に二男四女をもうけた振であるが、嫡男である則氏のことは一際、目を掛けている。
普段は冷ややかな口ぶりも、則氏のことを話す時ばかりは熱を帯びたものになる。
「親父の血か」
唸るような声を出した則頼は、天井よりどこか遠くを見つめる目になる。
父・有馬重則が若き日に京に上り、足利幕府に奉公した当時、女衆から大層に人気があったという話を思い出したのだ。
特に細川澄元の娘が重則に入れあげ、半ば押し掛けるような形で祝言を挙げた、などと噂話を聞かされたものだが、言うまでもなく則頼が生まれる前の話である。
むしろ、赤松庶流の分家に過ぎない父の元に、細川澄元の娘が嫁いだ理由付けではないかと思わなくもない。
いずれにせよ、父母亡き今となっては真偽のほどは判らない。
「思えば、ずいぶんと親父は喰えぬ男であったのう。四郎次郎に、あの図太さが備わっておれば良いが。いささか、性分がまっすぐに過ぎるのが気がかりよ」
「四郎次郎も子供ではございませぬ。殿も、そろそろ隠居をお考えになっては如何ですか」
振の言葉どおり、則氏も既に嫁を迎え、一女をもうけている。
世継としてどこに出しても恥ずかしくない立派な男に成長した、と則頼も思う。
今の秀吉の勢いをもってすれば、この播磨の地が戦さ場となることも最早ないであろう。
(確かに、そろそろ潮時かも知れぬ。一線から身を引き、風月を愛で、ひたすら茶に親しむ日々を過ごすのも悪くはないか)
心は傾きかけたが、なぜか口から応諾の言葉が出てこない。まだ、やり残したと思うことがあるのだろうか。
「まあ、あれも、いきなり家を継げと言われても驚くやも知れぬ。いずれにせよ四郎次郎が戻ったならば一度話してみよう」
何か手柄でも立てて凱旋するのであれば、多少は一人前になったと認めてやるのも悪くない。則頼はぼんやりとそんなことを考える。
「ぜひ、そうなされませ」
振は則頼の言葉に喜び、声を弾ませた。
しかし、その時が訪れることはなかった。
淡河城の則頼の元に、秀吉から淡河に三千二百六十石を宛がう旨の書状が届けられた。
則頼は重臣の吉田大膳、有馬重頼、淡河長範、そして嫡男・有馬則氏を書院の一室に集め、その書状をみせた。
夏の盛りとあって窓は開け放たれているが、むさくるしい男どもが額を寄せ合って書状を覗き込んでいるのでは、なお一層暑苦しい。
「淡河の地は既に当家が治めておりますれば、これは加増の沙汰ではないということですな」
今一つ得心のいかないといった表情で、まず大膳が書状から顔を上げて呟きを漏らす。
その言葉通り、今の有馬家は三津田、戸田に加えて淡河六千五百石の全域を所領としている。いまさら淡河に新たに受け取る地などない筈である。
「さて、これは。一昨年、当家がこの城を預かった際は、口頭のみでありましたでしょうか。それ故、あらためて書面にしたということでは」
そう応じる則氏も腑に落ちないのか、しきりに首をひねっている。
「これはつまり、儂が筑前様の家臣になったということであろう」
助け船を出すような心持で則頼が発した言葉だが、四人はいずれも納得した様子はみせない。
むしろ余計に混乱しているようにさえ見える。
「どういうことでございましょうか。殿はそもそも、羽柴様に従われておりますが」
眉間にしわを寄せ、重頼が則頼に尋ねた。
その横で大膳が首を横に振る。
「それは違うのではないか。殿は、羽柴様を通じて織田の傘下に加わったに過ぎん。羽柴家の家臣になった訳ではない」
大膳が口を挟んだのち、しばし大膳、重頼、則氏の三人がああでもない、こうでもないと議論を始める。
その間、長範は無言のまま、書状を前に腕を組んでいる。
皆が困惑するの無理はない、と則頼は思う。
大膳、重頼、則氏には、自分の主君が誰かから加増されるという経験がない。
有馬家は、決して聞き分けが良くなかったとはいえ、織田の侵攻があるまで別所家に従う立場であった。
とはいえ、有馬家の領内の治世に別所家が介入することはないし、その働きに応じて加増や減封などの措置をとることもない。
有馬家はあくまでも別所家の力を認めたうえで、独立性を保っていたのであり、別所家の家臣として俸禄を与えられる訳ではなかった。
「つまり、これからの儂は織田家重臣の羽柴様の命に従うのではなく、羽柴家の家臣として仕えることになるという訳よ」
則頼はそう言葉を継ぐが、それだけではないだろうと感じている。
先日の清須会議に遅参した罪と、城内に乱入して柴田勝家らを怯ませる振る舞いをみせた功を差し引きした結果、加増はないまま、改めて秀吉から所領を宛がう沙汰が下ったものだろう。
もっとも、今の大膳らにその真意が伝わるとも思えないので、いちいち説明はしない。
「我等の立場が変わりますでしょうか」
これまで黙っていた長範がはじめて口を開いた。
美作国の江見家に生まれ、主家滅亡とともに淡河家に逃れ、その淡河家も失われて則頼に拾われた経緯があるだけに、他の重臣よりこの問題の機微を掴んでいる様子がうかがえた。
「いや、その方らはこれまでどおり儂のために働いてくれればよい。したが、儂はいわば羽柴家の直臣となった訳じゃから、これまで以上に働かねばならぬであろうな」
形はどうあれ、秀吉は織田家を補佐する立場を超えて、自らが天下に覇を唱える腹積もりである、と則頼はみている。
信長亡き後の時勢を読み切れない家臣たちの困惑を前に、今いちど気を引き締める則頼であった。
露骨に味方の取り込みと引き締めを計る秀吉に対し、表向きはどうあれ、清州会議で秀吉を相手に実質的に遅れをとった柴田勝家も黙ってはいない。
当然のことながら巻き返しを画策した。
山崎の戦い名目上は弔い合戦の大将となりながら後継者の座を射止めそこねた信長の三男・織田信孝もまた、新たに与えられた美濃岐阜城にて不満を募らせていた。
元々勝家は信孝の烏帽子親であり、親密な間柄である。
二人が手を組み、反秀吉の策謀を巡らせるのは自然な流れだった。
まず彼らは、伊勢に逼塞していた滝川一益を味方に引き入れた。
本能寺の変の折、一益は赴任間もない関東の地にあったため、北条を相手の一戦を余儀なくされ、会議に出席するどころではなかった。
結局、北条を相手に大敗を喫して、命からがら本領の伊勢に逃げ戻っていた。
年明け早々、伊勢亀山城をはじめとして、伊勢の諸城で羽柴方と柴田方の間で小競り合いが繰り返された。
当然のことながら、腰の軽さを身上とする秀吉は、軍勢を率いて伊勢に駆け付ける。
勝家の本拠地である越前は雪に閉ざされてしまう時期であり、勝家の介入を許さぬ速攻で各個撃破を狙う。
しかし、意に反して伊勢の平定が完了しないまま、三月初旬には勝家が雪道を押して近江に進出してきた。
秀吉は急いで兵を転進させ、近江木之本で迎え撃つ構えを敷いた。勝家は柳ヶ瀬に布陣して対峙する。
戦況が膠着する間に、岐阜城の織田信孝が後方を衝く動きを示したため、秀吉は牽制のために自ら分割した兵を率いて美濃大垣城に向かった。
これを知り、好機とみた柴田勝家の腹心・佐久間盛政により、四月二十日になって中入り策が決行された。
羽柴方の中川清秀が討たれ、清秀が守備していた大岩砦が攻め落とされる事態となったが、盛政の誤算は、大垣城に向かっていた秀吉の反転速度であった。
大垣と木之本間はおよそ十二里あったが、これを秀吉は軍勢を率いて三刻足らずで駆け戻ってきたのだ。
健脚の男子の旅程であれば一日およそ十里とされる時代にあって、これは驚異的な速さであった。
帰還した秀吉は二十一日の夜明け前から盛政勢へと猛攻を仕掛けた。この際、秀吉股肱の馬廻りが奮戦し、のちに「賤ケ岳の七本槍」と称されることとなる。
盛政勢が崩れたことで、柴田勢全体が浮き足だった。
勝家の有力な与力であった前田利家が、秀吉との友諠もあって戦わず兵を退いたことも大きく、やがて総崩れとなる。
退却した柴田勝家が立てこもった本拠の北の庄城は、二十三日には追撃してきた羽柴勢に包囲された。
翌日の総攻撃により柴田勝家は、清州会議の後に娶ったばかりの信長の妹・お市の方と共に自刃して果てた。
その後、勝家という後ろ盾を喪った織田信孝は異母兄の信長次男・信雄の攻撃を受けて進退に窮し、四月末には尾張国野間にて腹を切った。
しかし、異母弟・信孝を自刃に追い込んだ織田信雄もまた、冷静さを取り戻すにつれて秀吉の甘言に乗ってしまったと後悔の念を抱くようになる。
いくら不仲であったとはいえ、実の弟を死に追いやって誰が得をしたのか、遅ればせながら気づいたのだ。
三法師が幼少の間は実質的な織田家の当主として遇される筈、との目論みは外れた。
秀吉は、己こそ信長の跡を継いで天下統一の大事業を完遂するのだと言わんばかりの態度を次第に隠さないようになっていた。
当然、信雄の意思など頭から無視してかかる振る舞いを見せる。
一度は北伊勢および伊賀を加増され、三法師の後見として安土城に入った信雄であるが、秀吉に対する不信の念を露わにするにつれ、両者の関係は険悪とならざるを得ない。
天正十二年(一五八四年)正月には、信雄は安土城から伊勢長島城へと居を移す羽目となった。
秀吉に対する不満を募らせた信雄は、三月に入って、秀吉と親密なやり取りをしていることを理由に、家老三名を成敗した。
これにより、秀吉もいよいよ態度を硬化させて信雄をないがしろにしはじめる。
信雄にしても、単独では秀吉に対抗できないことは承知している。そのため、外部に味方を求め、徳川家康と結ぶことになる。
家康にしても、信雄支援という大義名分を得たものの、信長の旧領をほぼ引き継いた秀吉と正面から戦うのは生半可な覚悟では出来ない。
土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀・根来衆などに密使を送り、後方の攪乱を依頼したうえで、秀吉に対して反旗を翻した。
これに対する秀吉はいち早く、三月十三日には尾張犬山城に池田恒興を進出させ、信雄の本拠・清州城を伺う構えをみせた。
家康は小牧山城跡に本陣を敷くと、十七日には犬山城西方の羽黒に兵を進め、羽柴方の森長可を破り、緒戦を飾った。
なお、池田恒興の娘婿でもあり、猛将として知られる長可の敗走の報が届く以前から、すでに秀吉は軍勢を大坂城に集結させはじめていた。
参陣の命令は、淡河城の則頼の元にも届いていた。
「それでは行ってまいります。父上におかれましては、どうか心安んじて御養生のほどを」
広間で則頼に向かい合った則氏は、胸を張って口上を述べた。
甲冑をまとった則氏の姿は、我が子ながら則頼の目にも凛々しく見えた。
もちろん、若年ゆえに線の細さは気になるところではあったが、これから経験を積んでいけば、良き将となるであろう。
「頼むぞ」
上座で脇息に身を預けて応じる則頼の声は小さくかすれていた。
無理もない話で、則頼は冬場に風邪をひいて以来、最近まで寝込んでいたのだ。
この時にはどうにか床上げを済ませたものの、依然として本調子には程遠い。
本来であれば則頼が出陣すべきところ、則氏が大将として赴くことになったのはそのためだ。
則氏は、秀吉の後継者と目されている羽柴秀次の組下として働くことが既に決められている。
なお、渡瀬繁詮も同じく秀次付となると則頼は聞いている。
「有馬の名に恥じぬ働きを致しまする」
「うむ。しかし、意気込むのは良いが、あまり気負うではないぞ」
淡河城攻め以来となる本格的な戦さへの参陣に緊張と興奮を隠さない則氏を前に、則頼は思わずそう忠告する。
(儂と違って血気に逸りやすいところがあるのが気がかりではあるが……)
病み上がりの身では、戦さの心得をくどくどと語る気力もない。
則氏は先ほど口にしたとおり、父に早々に休んで欲しいと心から願っているのが、その様子からも伺えた。
この年、則頼五十二歳。
老けこむには早い、といくら本人が思ってみても、若い頃のように身体が動かないことは自覚せざるを得ない。
則氏が手勢を率いて淡河城を出立した晩。
「四郎次郎は、あれだな。儂にはあまり似ておらんな。母方の血が濃いのやもしれぬ」
寝所にて、則頼は振に向かってそう言葉を掛けた。
「いえ。わたくしの父母とも似てはおりませぬ。殿の御父君から受け継いでおられるのではないでしょうか」
則頼との間に二男四女をもうけた振であるが、嫡男である則氏のことは一際、目を掛けている。
普段は冷ややかな口ぶりも、則氏のことを話す時ばかりは熱を帯びたものになる。
「親父の血か」
唸るような声を出した則頼は、天井よりどこか遠くを見つめる目になる。
父・有馬重則が若き日に京に上り、足利幕府に奉公した当時、女衆から大層に人気があったという話を思い出したのだ。
特に細川澄元の娘が重則に入れあげ、半ば押し掛けるような形で祝言を挙げた、などと噂話を聞かされたものだが、言うまでもなく則頼が生まれる前の話である。
むしろ、赤松庶流の分家に過ぎない父の元に、細川澄元の娘が嫁いだ理由付けではないかと思わなくもない。
いずれにせよ、父母亡き今となっては真偽のほどは判らない。
「思えば、ずいぶんと親父は喰えぬ男であったのう。四郎次郎に、あの図太さが備わっておれば良いが。いささか、性分がまっすぐに過ぎるのが気がかりよ」
「四郎次郎も子供ではございませぬ。殿も、そろそろ隠居をお考えになっては如何ですか」
振の言葉どおり、則氏も既に嫁を迎え、一女をもうけている。
世継としてどこに出しても恥ずかしくない立派な男に成長した、と則頼も思う。
今の秀吉の勢いをもってすれば、この播磨の地が戦さ場となることも最早ないであろう。
(確かに、そろそろ潮時かも知れぬ。一線から身を引き、風月を愛で、ひたすら茶に親しむ日々を過ごすのも悪くはないか)
心は傾きかけたが、なぜか口から応諾の言葉が出てこない。まだ、やり残したと思うことがあるのだろうか。
「まあ、あれも、いきなり家を継げと言われても驚くやも知れぬ。いずれにせよ四郎次郎が戻ったならば一度話してみよう」
何か手柄でも立てて凱旋するのであれば、多少は一人前になったと認めてやるのも悪くない。則頼はぼんやりとそんなことを考える。
「ぜひ、そうなされませ」
振は則頼の言葉に喜び、声を弾ませた。
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1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
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