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(二十六)小牧長久手の悔恨
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四月も半ばになって、則氏付きの家臣が単身、使者として淡河城へと帰還した。
道中、相当に急いできたのだろう。
本丸御殿の広間に姿を見せた使者は、身なりを整える間も惜しんで駆け付けたものらしく、旅塵にまみれていた。
本来、当主の引見を受けるのに、こんな恰好で登城するなどありえない。
(これは、ただ事ではない)
眼前に伏した使者の薄汚れた姿に、則頼は嫌な予感がして頬をゆがめる。
「何があった」
「はっ。……有馬四郎次郎様、長久手の戦いにて、壮烈なる最期を遂げられましたっ」
一息で言上した使者は、役目を果たし終えて緊張の糸が切れたのか、身体を支えきれずにその場に崩れ落ちる。
「なんじゃと! 詳しく申すのじゃ。ええい、しっかり致せ」
蒼白になった則頼は、上座に腰を据えてなどいられず、使者の元に駆け寄って身体を抱き起す。
則頼に肩を揺さぶられて意識を取り戻した使者は、涙を流しながら、己の知る限りの顛末を語り始めた。
三月二十一日に大軍を率いて大坂城を進発した秀吉は、二十七日までには小牧の家康に対峙する形で羽黒の東、楽田とよばれる地に陣を構えた。
両者は半里ばかりの距離を隔てて向き合う形になった。
この膠着は四月まで続いたが、先に仕掛けたのは羽柴方だった。
先の羽黒における敗戦を挽回すべく、森長可が三河への中入り策を進言し、舅である池田恒興もこれに同調する。
敵中に孤立した場合に大敗する恐れがあることを危ぶむ秀吉はこの策を渋ったが、最終的に秀次を名目的な総大将とすることや、堀秀政も加えること、警戒を怠らず、深入りを避けることなどを条件にこの策を裁可する。
いかに秀吉が信長の弔い合戦の立役者であっても、三法師を名目上の主君として仰ぐ織田家の家臣という立場において、秀吉と恒興・長可らは同格である。
一方的に命令できるものではない。
秀次を総大将に据えたのも、甥に手柄を立てさせたいとの思いもさることながら、策が成功した際に恒興・長可の発言力が必要以上に高まらないことを防ぐとの意味合いも強かった。
しかし、政治的な駆け引きを孕んだこの決定は、致命的な過ちを引き起こす。
四月七日、楽田および犬山城を出立した中入り勢は中入策により徳川領内へと侵入した。
しかし、秀次勢を加えたことで参加人数が一万六千に膨れ上がったため、奇襲を企図しているにも関わらず、侵攻速度は当初の想定よりも鈍いものとなっていた。
加えて、その動きは長久手付近を領する徳川方の丹羽氏次によって、逐次家康に通報されていた。
四月九日、小牧山を密かに抜け出して中入り勢の背後に回り込んだ徳川勢が、中入り勢の後尾につけていた秀次勢を急襲する。
思わぬ攻撃に浮足立った秀次勢は、先行する池田、森、堀の各勢が加勢するまで持ちこたえることもできず、て大敗を喫して敗走したのだ。
その混乱の中で、本陣の秀次を守るべく最期まで奮闘した則氏は敢え無く討死を遂げた。享年二十二歳。
使者の口上を聞き終え、則頼は天を仰いで嘆息した。
「儂が寝込んでおったばかりに、あたら四郎次郎を死なせたか」
万余の大軍がぶつかる大戦さに身を置いた経験は則頼にもない。一千にも満たない有馬勢では、戦局にはさして寄与もできない。
自分が手勢を率いていたのであれば生き延びられたなどとは則頼も思わないが、悔いは残った。
もっとも、則頼以上に振の嘆きは大きかった。
振は悲しみのあまり、一時は半狂乱になった。
どうにか正気を取り戻した後も、菩提寺である天正寺に半ば住み着くようにして読経に明け暮れるようになった。
仏に救いを求めたのは、則氏の妻も同様である。
髪を下ろして尼となって夫の菩提を弔うという則氏の妻のため、則頼は則氏夫婦が暮らしていた陣屋を新たに寺となし、鶴峰山長松寺と名付けて則氏を弔った。
則氏の戒名は「長松寺殿陽三芳春大居士」である。
哀しみに包まれながら則氏の真新しい位牌に向かって読経をあげる則頼の胸中には、しかし現実的な問題が重くのしかかる。
(四郎次郎を喪った以上、有馬家は玄蕃に継がせねばならぬが……)
玄蕃とは、永禄十二年(一五六九年)生まれの次男・玄蕃頭豊氏のこと。
まだ元服前、万助と名乗っていた頃に秀吉に人質として差し出されて以来、秀吉の近習として勤めている。
果たして、世継であるからといって家に戻してもらえるものか。
それ以前に、すっかり羽柴家の色に染まっているであろう豊氏に、有馬家を継がせることが正しいのか。
(残念ながら、今しばらくは隠居などしておられぬわ)
父・重則からの有馬家は、実質的には則頼の兄・則重の死をもって断絶し、現状の有馬家は則頼が初代も同然である。
出家の身である己の有馬家が仮に一代限りとなろうが、本来ならさほど惜しいとも思わない筈である。
しかし、則頼の本音としては、出来るならば家名を残したいとの思いは否定しきれない。
それが武士の性であり、人の情なのだろう。
長久手の戦いでは、森長可や池田恒興の嫡男・元助が討死し、兵二千五百が討死するなど、秀吉方の大敗に終わった。
敗報を知った秀吉は激怒して、小牧山の陣を蹴散らすべしと息巻いた。
しかし、既に家康は長久手方面から小牧山へと素早く帰還して待ち構えており、秀吉も攻撃を断念せざるを得なかった。
戦況が膠着したまま半年以上経過した十一月十二日。
秀吉は事態を打開するため織田信雄に対して、伊賀と伊勢半国の割譲を条件とした講和を密かに持ちかける。
長引く戦に交戦意欲を失いつつあった信雄は家康の頭越しにこの条件を受諾し、独断で兵を退いた。
信雄が陣払いしたことによって、そもそもの戦さの名分を失った家康も、もはや戦場にとどまる必要がなくなり、十七日には三河に引き上げた。
その後、秀吉は家康に対しても講和を働きかけ、それに応じた家康は次男・於義丸を人質として差し出し、秀吉は異父妹である旭を家康の継室として送り込むことになる。
この時、旭はすでに嫁いでいたが、このために強制的に離縁させられての輿入れであったという。
こうして小牧・長久手の戦いはようやく終わりを迎えた。
講和に持ち込んだ秀吉の手腕もさることながら、秀吉の大軍をもってしても破ることが出来なかった家康の存在感が際立つ結果となった。
天正十三年(一五八五年)二月末。
則頼は、天正寺の茶室に葛屋の福助を迎えていた。
昨年の則氏の討死以降、則頼はほぼ一年間、喪に服する形で淡河に逼塞していた。
それを気遣ってなのか、福助が折を見ては則頼に茶の湯の手ほどきを求めて訪れる機会が増えていた。
当人曰く、若い時分は茶の湯は窮屈と感じてあまり父から熱心に学ばなかった、とのことであるが、どこまで本当かは判らない。
則頼としても、商売のために登城するのならともかく、茶の湯ばかりしていると思われるのは外聞が悪いため、福助の相手をする時は天正寺の茶室を使う場合が多かった。
もっとも、商人としての本業を福助が忘れた訳ではない。
彼が持参する茶道具はすべて商品であり、則頼が気に入り次第、売り渡すのが常だった。
「なかなか爽やかな風合いで、良き品ではないか」
この日も福助が持ち込んだ茶碗をみて、則頼は頬をほころばせる。
「こちらの唐物は、今ですと格安でお譲りできます」
商売人にしては作り笑いが不得手らしい福助は、生真面目そうな顔で応じる。
提示した金額は、なるほど格安であった。
「ほう。なぜじゃ。どこぞに傷でもついておるのか」
則頼は、ためつすがめつ、といった手つきで茶器を回して確かめてみるが、それらしい欠点は見当たらない。
「いえ。京や大坂では、近頃はこの手の茶碗は流行りませぬので」
「侘び寂び、か。皆、そればかりじゃのう」
則頼は眉間にしわを寄せ、口をすぼめた。
今ひとつ茶の湯の時流に乗り切れない己が恨めしくもある。
「御耳に入れておきたき噂が、一つございます」
一通り茶席が済んだ後、居住まいをただした福助がそう切り出した。
葛屋においては、噂話は単なる風説ではない。連雀が市井から拾い集めた様々な噂は、真実をいち早く近づくための道しるべである。
「聞こう」
則頼の手元には、福助から買い上げた先ほどの唐物の茶碗がある。
流行りではないと聞かされてはいたが、気に入った事実は曲げられない。
「大坂城にて、羽柴筑前様御不例との雑説がござりまする」
福助は声を潜めて告げた。
大坂城は天正十一年の八月末から黒田孝高を普請奉行として建築が進められ、およそ一年で第一期工事ともいうべき本丸御殿部分が完成している。
現在も普請は続けられているが、天正十二年八月八日から秀吉の新たな居城となっていた。
「筑前様が……。確かか。病は重いのか」
噂話に根拠を求めても詮無いのであるが、驚いた則頼はつい勢い込んで尋ねてしまう。
「確たる証はござりませぬが、城内で噂を耳にした連雀が複数おりまする。一方、城下ではそのような噂は広まっておらぬ様子とのこと」
福助は断言こそ避けたが、かなりの確信を持っている旨を言外に匂わせた。
その一方、寝込んではいても命の危機と言えるほど深刻との噂はないらしい、と言い添える。
「さもあろう。城内だけで広まる話となれば、根も葉もないとは言えぬわな」
則頼はそう呟き、しばし黙考する。
その間、福助は身じろぎもせずに待っている。
ややあって、則頼は一つ息を吐いて決意を固めた。
「よし、決めたぞ。やはり知った以上は、御見舞いに馳せ参じる他あるまいな。これも奉公よ」
「よろしいのですか」
福助の問いは意味深長である。
噂話を根拠に浮き足立った真似をすれば、却って秀吉の不興を買いかねない。
それどころか、葛屋の諜報網の存在を秀吉に知られる可能性もあった。
「ここは動くべきところと読んだ。それに、たまには大坂の空気も吸っておかねばな」
手元の唐物茶碗に視線を落としつつ、則頼は小さく呟いた。
道中、相当に急いできたのだろう。
本丸御殿の広間に姿を見せた使者は、身なりを整える間も惜しんで駆け付けたものらしく、旅塵にまみれていた。
本来、当主の引見を受けるのに、こんな恰好で登城するなどありえない。
(これは、ただ事ではない)
眼前に伏した使者の薄汚れた姿に、則頼は嫌な予感がして頬をゆがめる。
「何があった」
「はっ。……有馬四郎次郎様、長久手の戦いにて、壮烈なる最期を遂げられましたっ」
一息で言上した使者は、役目を果たし終えて緊張の糸が切れたのか、身体を支えきれずにその場に崩れ落ちる。
「なんじゃと! 詳しく申すのじゃ。ええい、しっかり致せ」
蒼白になった則頼は、上座に腰を据えてなどいられず、使者の元に駆け寄って身体を抱き起す。
則頼に肩を揺さぶられて意識を取り戻した使者は、涙を流しながら、己の知る限りの顛末を語り始めた。
三月二十一日に大軍を率いて大坂城を進発した秀吉は、二十七日までには小牧の家康に対峙する形で羽黒の東、楽田とよばれる地に陣を構えた。
両者は半里ばかりの距離を隔てて向き合う形になった。
この膠着は四月まで続いたが、先に仕掛けたのは羽柴方だった。
先の羽黒における敗戦を挽回すべく、森長可が三河への中入り策を進言し、舅である池田恒興もこれに同調する。
敵中に孤立した場合に大敗する恐れがあることを危ぶむ秀吉はこの策を渋ったが、最終的に秀次を名目的な総大将とすることや、堀秀政も加えること、警戒を怠らず、深入りを避けることなどを条件にこの策を裁可する。
いかに秀吉が信長の弔い合戦の立役者であっても、三法師を名目上の主君として仰ぐ織田家の家臣という立場において、秀吉と恒興・長可らは同格である。
一方的に命令できるものではない。
秀次を総大将に据えたのも、甥に手柄を立てさせたいとの思いもさることながら、策が成功した際に恒興・長可の発言力が必要以上に高まらないことを防ぐとの意味合いも強かった。
しかし、政治的な駆け引きを孕んだこの決定は、致命的な過ちを引き起こす。
四月七日、楽田および犬山城を出立した中入り勢は中入策により徳川領内へと侵入した。
しかし、秀次勢を加えたことで参加人数が一万六千に膨れ上がったため、奇襲を企図しているにも関わらず、侵攻速度は当初の想定よりも鈍いものとなっていた。
加えて、その動きは長久手付近を領する徳川方の丹羽氏次によって、逐次家康に通報されていた。
四月九日、小牧山を密かに抜け出して中入り勢の背後に回り込んだ徳川勢が、中入り勢の後尾につけていた秀次勢を急襲する。
思わぬ攻撃に浮足立った秀次勢は、先行する池田、森、堀の各勢が加勢するまで持ちこたえることもできず、て大敗を喫して敗走したのだ。
その混乱の中で、本陣の秀次を守るべく最期まで奮闘した則氏は敢え無く討死を遂げた。享年二十二歳。
使者の口上を聞き終え、則頼は天を仰いで嘆息した。
「儂が寝込んでおったばかりに、あたら四郎次郎を死なせたか」
万余の大軍がぶつかる大戦さに身を置いた経験は則頼にもない。一千にも満たない有馬勢では、戦局にはさして寄与もできない。
自分が手勢を率いていたのであれば生き延びられたなどとは則頼も思わないが、悔いは残った。
もっとも、則頼以上に振の嘆きは大きかった。
振は悲しみのあまり、一時は半狂乱になった。
どうにか正気を取り戻した後も、菩提寺である天正寺に半ば住み着くようにして読経に明け暮れるようになった。
仏に救いを求めたのは、則氏の妻も同様である。
髪を下ろして尼となって夫の菩提を弔うという則氏の妻のため、則頼は則氏夫婦が暮らしていた陣屋を新たに寺となし、鶴峰山長松寺と名付けて則氏を弔った。
則氏の戒名は「長松寺殿陽三芳春大居士」である。
哀しみに包まれながら則氏の真新しい位牌に向かって読経をあげる則頼の胸中には、しかし現実的な問題が重くのしかかる。
(四郎次郎を喪った以上、有馬家は玄蕃に継がせねばならぬが……)
玄蕃とは、永禄十二年(一五六九年)生まれの次男・玄蕃頭豊氏のこと。
まだ元服前、万助と名乗っていた頃に秀吉に人質として差し出されて以来、秀吉の近習として勤めている。
果たして、世継であるからといって家に戻してもらえるものか。
それ以前に、すっかり羽柴家の色に染まっているであろう豊氏に、有馬家を継がせることが正しいのか。
(残念ながら、今しばらくは隠居などしておられぬわ)
父・重則からの有馬家は、実質的には則頼の兄・則重の死をもって断絶し、現状の有馬家は則頼が初代も同然である。
出家の身である己の有馬家が仮に一代限りとなろうが、本来ならさほど惜しいとも思わない筈である。
しかし、則頼の本音としては、出来るならば家名を残したいとの思いは否定しきれない。
それが武士の性であり、人の情なのだろう。
長久手の戦いでは、森長可や池田恒興の嫡男・元助が討死し、兵二千五百が討死するなど、秀吉方の大敗に終わった。
敗報を知った秀吉は激怒して、小牧山の陣を蹴散らすべしと息巻いた。
しかし、既に家康は長久手方面から小牧山へと素早く帰還して待ち構えており、秀吉も攻撃を断念せざるを得なかった。
戦況が膠着したまま半年以上経過した十一月十二日。
秀吉は事態を打開するため織田信雄に対して、伊賀と伊勢半国の割譲を条件とした講和を密かに持ちかける。
長引く戦に交戦意欲を失いつつあった信雄は家康の頭越しにこの条件を受諾し、独断で兵を退いた。
信雄が陣払いしたことによって、そもそもの戦さの名分を失った家康も、もはや戦場にとどまる必要がなくなり、十七日には三河に引き上げた。
その後、秀吉は家康に対しても講和を働きかけ、それに応じた家康は次男・於義丸を人質として差し出し、秀吉は異父妹である旭を家康の継室として送り込むことになる。
この時、旭はすでに嫁いでいたが、このために強制的に離縁させられての輿入れであったという。
こうして小牧・長久手の戦いはようやく終わりを迎えた。
講和に持ち込んだ秀吉の手腕もさることながら、秀吉の大軍をもってしても破ることが出来なかった家康の存在感が際立つ結果となった。
天正十三年(一五八五年)二月末。
則頼は、天正寺の茶室に葛屋の福助を迎えていた。
昨年の則氏の討死以降、則頼はほぼ一年間、喪に服する形で淡河に逼塞していた。
それを気遣ってなのか、福助が折を見ては則頼に茶の湯の手ほどきを求めて訪れる機会が増えていた。
当人曰く、若い時分は茶の湯は窮屈と感じてあまり父から熱心に学ばなかった、とのことであるが、どこまで本当かは判らない。
則頼としても、商売のために登城するのならともかく、茶の湯ばかりしていると思われるのは外聞が悪いため、福助の相手をする時は天正寺の茶室を使う場合が多かった。
もっとも、商人としての本業を福助が忘れた訳ではない。
彼が持参する茶道具はすべて商品であり、則頼が気に入り次第、売り渡すのが常だった。
「なかなか爽やかな風合いで、良き品ではないか」
この日も福助が持ち込んだ茶碗をみて、則頼は頬をほころばせる。
「こちらの唐物は、今ですと格安でお譲りできます」
商売人にしては作り笑いが不得手らしい福助は、生真面目そうな顔で応じる。
提示した金額は、なるほど格安であった。
「ほう。なぜじゃ。どこぞに傷でもついておるのか」
則頼は、ためつすがめつ、といった手つきで茶器を回して確かめてみるが、それらしい欠点は見当たらない。
「いえ。京や大坂では、近頃はこの手の茶碗は流行りませぬので」
「侘び寂び、か。皆、そればかりじゃのう」
則頼は眉間にしわを寄せ、口をすぼめた。
今ひとつ茶の湯の時流に乗り切れない己が恨めしくもある。
「御耳に入れておきたき噂が、一つございます」
一通り茶席が済んだ後、居住まいをただした福助がそう切り出した。
葛屋においては、噂話は単なる風説ではない。連雀が市井から拾い集めた様々な噂は、真実をいち早く近づくための道しるべである。
「聞こう」
則頼の手元には、福助から買い上げた先ほどの唐物の茶碗がある。
流行りではないと聞かされてはいたが、気に入った事実は曲げられない。
「大坂城にて、羽柴筑前様御不例との雑説がござりまする」
福助は声を潜めて告げた。
大坂城は天正十一年の八月末から黒田孝高を普請奉行として建築が進められ、およそ一年で第一期工事ともいうべき本丸御殿部分が完成している。
現在も普請は続けられているが、天正十二年八月八日から秀吉の新たな居城となっていた。
「筑前様が……。確かか。病は重いのか」
噂話に根拠を求めても詮無いのであるが、驚いた則頼はつい勢い込んで尋ねてしまう。
「確たる証はござりませぬが、城内で噂を耳にした連雀が複数おりまする。一方、城下ではそのような噂は広まっておらぬ様子とのこと」
福助は断言こそ避けたが、かなりの確信を持っている旨を言外に匂わせた。
その一方、寝込んではいても命の危機と言えるほど深刻との噂はないらしい、と言い添える。
「さもあろう。城内だけで広まる話となれば、根も葉もないとは言えぬわな」
則頼はそう呟き、しばし黙考する。
その間、福助は身じろぎもせずに待っている。
ややあって、則頼は一つ息を吐いて決意を固めた。
「よし、決めたぞ。やはり知った以上は、御見舞いに馳せ参じる他あるまいな。これも奉公よ」
「よろしいのですか」
福助の問いは意味深長である。
噂話を根拠に浮き足立った真似をすれば、却って秀吉の不興を買いかねない。
それどころか、葛屋の諜報網の存在を秀吉に知られる可能性もあった。
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