【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬

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(三十三)瓜畑遊びの功名

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 天正十九年(一五九一年)。
 この年は、秀吉にとって凶事が続いた。

 一月二十二日には、秀吉が右腕と恃んだ弟の豊臣秀長が死去した。

 その悲しみも癒えぬ間に閏一月には、今度は嫡子・鶴松が病に倒れた。

 鶴松は一度は持ち直したものの八月に再び体調を崩し、八月五日には遂に病死した。

 翌日、鶴松の遺骸が運ばれた東福寺にて髻を切って喪に服した秀吉に倣い、徳川家康や毛利輝元をはじめとする諸大名や近習も髻を切って供えたため、髪の毛の束が塚になったという。

 こんな時、既に僧形であるため、切る髻が初めから無い則頼はつらい。

 普段なら坊主頭を何か笑いに変えるような軽口を飛ばすところであるが、さすがにそのような不謹慎を秀吉が望んでいる筈もない。

 討死と病死の違いこそあれ、則頼もまた、世継に先立たれた身の上である。そのやるせなさは痛いほどに判る。

 跡継ぎを失った秀吉は、己の年齢を勘案し、もはや実子を授かることはないと観念したのか、十二月には豊臣秀次を後継者と定め、豊臣氏氏長者・家督および関白職を譲り渡した。

 これにより、秀吉は前関白の尊称である太閤と称されることになる。



 小田原城で北条を降し、その後の奥州仕置をもって天下の統一を成し遂げた太閤秀吉であるが、その目はかねてから海を越えた大陸にも向けられていた。

 天正十九年の段階で既に大陸への出兵を公言しており、その拠点として肥前国に名護屋城の建築を始めさせた他、軍船の建造も命じていた。

 もっとも、これらの命令を受ける諸将にしても、秀吉がどこまで本気であるのか計りかねるところがあった。

 だが本気であることが知れ渡るにつれ、反対の声も大きくなっていった。

(無益なことをお考えになるものだ)

 内心では憂えていたが、御伽衆として傍に仕える則頼は役目上、政事向きの話は口にできない。

 則頼は己の無力さを嘆く思いがしたが、かといって誰にも秀吉を止めることはできなかった。

 世間の人々は、太閤殿下が世継の鶴松様を失った悲しみを紛らわせるために朝鮮に兵を出すのだと噂し合った。

 天正二十年(一五九二年)一月。
 いよいよ九州、四国、山陽を領する武将に正式に出陣が命ぜられた。

 九つに分けて編成された軍勢の総兵力は十五万八千と呼号された。

 小瀬甫庵「太閤記」には、肥前国名護屋に集結した軍勢の内訳が詳述されており、その中に後備衆の一員として、手勢二百名を率いる有馬豊氏の名が記されている。

 一方、八百人としてまとめられている御伽衆の一人として含まれてしまっているためか、則頼の名は見当たらない。

 同陣こそしていても、最初から渡海する戦力として見られていないことは明らかであった。



 余談ではあるが、太閤記の記述に基づき、秀吉は御伽衆を八百人も従えていた、とする論がある。

 しかしながら、太閤記で記されているのはあくまでも軍勢の内訳である。御伽衆に名を連ねる茶人や商人がこの中に含まれている筈がない。

 御伽衆に名を連ねる小大名や大名家の隠居の手勢が、八百に達するとみるべきであろう。



 それはさておき。
 四月十三日に渡海した第一軍は、幸先よく釜山に上陸して拠点を確保すると、軍勢を三手に分けて北上を開始した。

 五月三日には早くも首都の漢城が陥落するなど勝ち戦が続いたが、戦線の急激な拡大に兵站が追いつかず、補給に苦労することになる。

 体勢を立て直しつつある李氏朝鮮側の反撃に加え、民衆の抵抗も激しくなり、次第に戦線は膠着する。

 特に七月九日の安骨浦の海戦において日本側の水軍が敗北したことにより、海峡の横断が困難となったことは、その後の戦況に大きく影響することになる。

 またこの頃、秀吉の母・大政所が重篤となったことから、秀吉は七月二十二日になって一時名護屋を離れる。

 甫庵太閤記には、秀吉不在中の名護屋城の守りを固めるにあたって、裏の御門番衆の一番組として、陣立の中には挙げられていなかった則頼の名が記されており、参陣していたことが判る。

 もちろん、則頼が自ら手鑓を持って門の番に立つ筈もない。配下の人員を輪番で番所に詰めさせる程度の意味合いに過ぎない。

 九月には李氏朝鮮の懇願に応じた明国の軍勢が援軍として派遣されたことにより、朝鮮側の反撃が始まる。

 十二月八日をもって元号が「文禄」と改元された後、明けて文禄二年(一五九三年)の一月七日には平壌が攻撃を受けた。

 小西行長らは漢城への撤退を余儀なくされ、守りを固めることになる。

 一月二十六日の碧蹄舘の合戦では大激戦の末に日本方が辛勝したものの、もはや日明両軍ともに兵糧にも事欠く有様であり、攻勢に討って出られる状態ではなくなっていた。

 四月には現地での日明の会談が行われた結果、日本軍は漢城を引き払って釜山浦まで後退し、明軍は日本軍の撤退を見極めた後に帰国することになった。

 五月の中旬、釜山浦に押し込まれた日本軍が身動きのとれぬまま日々を過ごしている中、秀吉は名護屋城にて明から派遣された講和の使節を迎え入れた。

 秀吉は明の使節を茶会を催してもてなしたり、舟遊びに招くなどして歓待していたが、交渉の進捗ははかばかしいものではなかった。



 六月下旬。
 則頼は名護屋の陣中にありながら講和の交渉に携わることもできず、かといって御役目である門番の差配など、何か知恵を絞らねばならない場面など皆無である。

 御伽衆としての出番もなく、割り当てられた陣屋で暇を持て余していた則頼の元に、石田三成が奇妙な話を持ち込んできた。

 三成が言うには、秀吉は名護屋城に瓜畑や粗末な旅籠などを造らせたたうえで、渡海せず名護屋に在陣している諸将に、それぞれ思い思いに物売りの恰好をするという遊びを考えているのだとか。

「また、太閤殿下は変わった趣向を思いつかれたものじゃな」

 座敷で対面する則頼は、秀吉考案の「」の概要を聞き、称賛とも呆れともつかぬ声を漏らす。

 興をそそられるよりも困惑の色が強かった。

「なかでも法印殿には特に期待しておいでのご様子にござる」

 三成の言葉に、則頼は身構えずにはおれない。

 名だたる大身の武将が顔をそろえるであろう場に、ただでさえ「太閤殿下が戯れに幇間に大名の真似事をさせている」などと陰口を叩かれがちな則頼が顔を出すのは、さすがに抵抗があった。

「殿下がお望みとあらば、顔を出さぬわけにもいかぬな。されど、儂が言うのもなんじゃが、明国の使節を迎えての交渉の最中に、そのような催しをしていてよいのであろうか」

 三成に問うたところで詮無いとは判っている。しかし、本音では参加を断りたいとの思いを言葉ににじませ、則頼はそう尋ねずにはおられない。

 切れ者として名を馳せる三成にしても、今は講和実現のために奔走する途轍もなく多忙な身の上である。

 本来、このような余興の段どりに手を取られている場合ではない筈なのだ。

「太閤殿下には、気散じが必要なのです」
 三成は、少なくとも表面上は迷惑さの欠片も伺わせない。

 言外に、「有馬の坊主なら何か面白いことをやってくれるだろう」という秀吉の期待がにじむ。

 ただし説明する三成自身は、何が面白いのか全く判らない、と言わんばかりの無表情である。

「はてさて。まあ、殿下のご期待に沿えるよう、無い知恵を絞って考えねばなりませぬな」
 渋い口ぶりで応じた則頼に対し、三成は無言のまま腰を上げようとはしない。

「どのようなで参加されるか、お聞きしたく存じます」

「それを聞いてしまっては興ざめというものでは。ああ、そうか」

 目の前の堅物を相手に、つい苦言を呈しそうになった則頼であったが、自ら発する言葉の途中で三成の真意に気づく。

「治部殿もご苦労なことじゃ。なるほど、確かに全員が何をやるのかを把握している者がおらねば、バツの悪い思いをする者が出かねぬ」

 太閤秀吉に仕えるにあたっては、我意を殺して巧言を口にすることも厭わない則頼ではある。

 しかし、目の前の三成の精励ぶりにはかなわないと感じた。

 もっとも、三成のことを羨ましいという気にはならない。むしろ、気の毒に思う気持ちのほうが強い。

「趣向を凝らすとなれば、この場で即答はいたしかねる。しばし刻をいただかねば思案もまとまらぬわ」

「では、一両日中に改めて参りますれば、その折に存念をお聞かせくだされ」
 にこりともせず、三成はそう言いおいて席を立った。



 六月二十八日に開催された瓜畑遊びなる仮装大会において、秀吉は瓜売り、徳川家康はあじか(ざる)売り、嫡子秀勝が漬物瓜を売り、織田信雄が修行僧、前田利家が高野聖、蒲生氏郷が茶売りなどに扮したと伝わる。

 その中にあって有馬則頼だけは「有馬の湯の宿坊の亭主」という、妙に具体的な設定で参加している。

 もっとも、実際にはその場に温泉宿がある訳ではないから、宿坊の亭主などと言われても見た目だけではなんのことだか判らない。

 ただ、則頼が「まぁなんですなぁ」「三枚におろして」などと、日頃と異なる声音を作って口上を述べると、通りかかった瓜売り装束の秀吉は手を打ち、腹を抱えて大笑いする。

「いつぞやは、有馬の坊主は物真似は不得手と申したが、此度はよう似せておるわ。いったいどれほど修練したのじゃ」

 則頼がやっていたのは、有馬の湯の宿坊の一つである池ノ坊の亭主・左橘右衛門の物真似である。

 温厚篤実にして口達者な左橘右衛門は、当時は小寺姓を名乗っていた黒田孝高がかつて荒木村重に幽閉されて萎えた身体を癒す際、宿を提供していた縁がある。

 何度も有馬の湯に訪れている秀吉は、左橘右衛門の洒脱な人となりや独特の口ぶりを知っている。

 しかし、秀吉の周囲に付き従う若い近習のほとんどは、則頼がしている物真似の意味が判らない。有馬の湯に縁のない大名達も同様である。

 加えて、秀吉が言う「いつぞやの話」とやらにも思い当たる節がない。

 それでも、秀吉が飛び跳ねるように大喜びしている様を見せつけられた以上は、難癖もつけがたい。

 「いつもながら、有馬法印殿は殿下に取り入るのが巧みな御方よ」と、羨望混じりに則頼のことを評価せざるを得ないのであった。

 三木合戦当時を詳しく知らない者も、近頃では秀吉の周囲には増えている。

 若い彼らには、有馬則頼とは播磨に根付く有馬家の当主であるとの認識がない。

 どことも知れぬところから流れついた、口先三寸で秀吉に取り入っただけのお調子者の坊主としてしか見ていない節がある。

(この口一つで、家臣を戦さ場で死なせず、家を治めているとも知らずにのう)

 そのことを思うと則頼は正直なところ腹立たしくもあるのだが、それを表に出す様な真似はしない。

 もっとも、当の則頼にしたところで、この他愛のない出来事が、後世で語られる有馬則頼の一番著名な逸話となるなどとは、想像もつかないことだった。
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