【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬

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(三十四)最後の茶席

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 朝鮮における戦局は思わしくなく、秀吉が不本意ながらもいったん矛を収めたまま早くも二年が過ぎた文禄四年(一五九五年)。

 六月末頃から、伏見の住人の間に「聚楽第に残る者から聞いた」と称する、奇妙な噂があちこちで囁かれるようになった。

 天正十九年に秀吉が聚楽第を秀次に譲り、新たに伏見指月に隠居屋敷を建てたことにあわせて、聚楽第から多くの住民が伏見に移っている。

 なお則頼もまた、聚楽第に賜った屋敷を引き払い、新たな屋敷を伏見に構えている。
 新しい屋敷の敷地は申し分なく広く、茶室はもちろんのこと、猿楽の舞台まで設えられていた。

 それはさておき、住民らの噂に曰く、「関白秀次に謀反の疑いあり」と。

 秀次を中心とした秀吉の治世を快く思わない一派が存在し、鷹狩りと称して謀議を巡らせているというのだ。

「妙な話ですな。太閤殿下に謀叛を奉ったところで、勝てるはずもなし」
 伏見の有馬屋敷にて、則頼に噂を報告する吉田大膳がしかめ面で首をひねった。

 今回に限ったことではないが、大膳は何か事が起こる度に、事情がよく呑み込めずに首をひねってばかりいる、と則頼は場違いなことを思う。

「しかし、困ったことに全くあり得ぬ話とも言い切れぬ」
 則頼は首を振って嘆息する。

 秀吉が唐入りの最中である二年前に誕生した実子・拾を溺愛しているのは、周知の事実である。

 秀次に関白を譲って世継として世間に喧伝したことを秀吉が悔やんでいる、との憶測は根強かった。

 無論、秀吉を討つために秀次が挙兵するなどという噂は現実的ではないにしろ、秀次が己の立場を確固たるものにするべく、他の大名と交流を深めようと画策したとしてもおかしくはない。

 則頼が危惧するのは、秀次本人もさることながら、秀次付の家老となっている娘婿・渡瀬繁詮の処遇である。

 秀次付の家老である繁詮は、同時に遠州横須賀三万石の大名としての顔も持つ。

 ただし、同様の東海道筋の小大名として配置された他の家老には、秀次への諫言を煙たがられて遠ざけられたことなどの事情もあって己の所領に戻り、もっぱら領地経営に励んでいる者も多い。

 それに対し、繁詮は秀次の傍に付き従い続けている。

 処世に長けているとみるべきか、不器用な生き様とみるかは人によって見方が分かれるところだろう。

 いずれにせよ横須賀の統治は、繁詮の付家老である豊氏に半ば任せきりの状態になっている。

 秀次との近さが災いして、婿殿が巻き添えを喰う羽目になどならねばよいが、と案じつつ、則頼には状況の推移を見守ることしかできなかった。



 六月下旬から七月上旬にかけ、二度に渡って聚楽第の秀次の元に、石田三成をはじめとする奉行衆が足を運んだ。

 当初、奉行たちの要求は逆心無きことを示すための誓紙の提出だった。秀次はそれに従ったものの、次には奉行たちは伏見への出頭を求めるようになった。

 秀次は自ら冤罪を晴らすとして望んで伏見に向かったが、なぜか登城も拝謁も許されぬまま、高野山へと追いやられた。



 七月十三日の夜更け。
「珍客がみえられましたぞ」

 伏見の有馬屋敷にて、寝所の則頼に向かって、廊下越しに吉田大膳が報告する。

「もったいぶるでないわ」

 書見台に向かい、とりとめのないことを考えていた則頼はそう応じてから、古い記憶を脳裏によみがえらせた。
 三木合戦の折、当時は好光と名乗っていた渡瀬繁詮が居城を失って萩原城に助けを求めてやってきた際、確か同じようなやりとりをしなかったか。

「渡瀬殿がことか」

「御意。殿の茶をご所望とのこと」
 聞けば、輿も馬も持ちいず、徒立ちで供も二人だけという微行で通用門に訪いを入れたという。

 目下の情勢を考えれば、かつては茶の湯に興味のなかった繁詮も茶の湯の道に目覚めたか、などとはとても考えられない。

「いかがなされますか」

「決まっておる、茶室に案内せよ」

 わずかな眠気も吹き飛び、則頼はせわしげに腰を上げた。



「このような夜更けに押しかけた無礼、平にご容赦のほどを。人目については、いらぬ疑いを招きかねませぬゆえ」
「いや、いや。ようお越しになられた」

 恐縮する繁詮を、則頼は笑って出迎える。

 茶室には牧渓の画軸が掛けられ、茶道具の中には九十九髪茄子が置かれていた。

 いずれも秀吉から則頼が拝領したものだ。

 伝わるかどうかはともかく、秀吉の意に沿うようにせよ、との含意を込めたつもりだった。

「最後の挨拶をせぬままでは悔いが残ると思い、参りました次第にござる」
 主客の席に腰を落ち着けた繁詮は、既に覚悟を決めている様子だった。

 聞けば、既に内々に処断を匂わせる報せが何度か届いているという。

「なにも死罪になると決まった訳でもなかろう。微力ながら殿下に取り成してみよう。早まってはならぬぞ」

「それはなりませぬ。今の太閤殿下に異を唱えては、有馬様にも累が及びかねませぬ」

 聞けば、既に繁詮は前野長康や木村重茲らとともに秀吉に対して秀次の弁護を行ったが、却って勘気を被って退席させられたのだという。

「なんという……」

「従って、なんらかの御咎めは間違いないものと存じます」

「しかしじゃな」
 則頼は言葉を継ごうとするも、何も思い浮かばない。

「良いのです。家老として傍近くにお仕えした主君が追放の責めを負った以上、どのような処断が下されようとも致し方のないこと」

 繁詮はすっきりした表情で笑みを見せた。

 日頃は多弁な則頼も、この時ばかりは言葉を失い続けていた。

「それにしても、有馬様の茶は美味い。それがし、茶の湯にはとんと疎いままでございましたが、この味だけは忘れられずにおりました。最後に味わえて嬉しゅうござる」

「嬉しいことを言うてくれる」
 泣き笑いの表情の則頼を前に、繁詮は居住まいを正した。

「萩原城下にて有馬様に助けていただかねば、行き倒れて終わっていた筈のこの身。思いがけずも三万石の大名にまでなり、随分と晴れがましい思いをさせていただきました。これもひとえに、有馬様のお陰にござる」

 則頼は秀吉に重用されているように世間からみられてはいても、それは政事に一切かかわりを持たないからこそである。

 何かを進言して判断を変えさせるような力はない。

 持てる限りの才覚で乱世を生き延びてきた自負はあったが、この時ほど己の力の無さが悔やまれる時はなかった。



 秀次を高野山に追放してもなお、太閤秀吉は満足できなかったらしい。

 七月十五日には、秀次に弁明も許さぬまま切腹を命じる。

 さらに、責めの対象は秀次の妻子や家臣、さらには付き合いのあった大名家にまで及び、様々な悲劇を生み出すことになる。

 秀次の家老として近侍していた渡瀬繁詮も、やはり処罰は避けがたく、常陸の佐竹義宣の元に身柄を預けられる流罪に処せられた。

「厳しい沙汰ではあるが、切腹を命ぜられなかっただけでもまだ良かった」
 心中穏やかではない中、伏見の有馬屋敷でこの一報を伝え聞いた則頼は、むしろ胸をなでおろした。

 だが、安心してばかりはいられない。

 秀吉の尾張時代からの股肱である前野長康ですら、秀次を後見していたことから死罪を命ぜられたのをはじめ、多くの者が打ち首や切腹に処されている。

 いつ秀吉の気が変わって腹を切れなどと言い出すか知れたものではなかった。

 繁詮には止められたものの、時節を見計らって赦免を取り成してみよう、則頼はそう思っていた。

 今の秀吉がそう簡単に聞く耳を持つとも思えないが、生きていればこそ、いずれ再起の目も出てくるだろう。

 ここは一つ、娘婿のためにも腹をくくらねばなるまい。

 しかし、決意を固めていた則頼の元に、思いがけない悲報が届く。

 将来を悲観したのか、秀次を諌めきれなかった己を責めたのか。

 あるいは、流罪とは表向きで、実際は機を見て処断されたのか。

 繁詮は常陸国に向かう道中、碓氷峠にて自ら腹を切ったというのだ。

「早まった真似をしおって」
 則頼は天を仰ぐ。

 その哀しみを、秀吉への隔意に向けようとしている自分に、思わず身震いする。




 数日後、なおも落胆を隠せない則頼の元に、秀吉から伏見城への登城を求める使いが来た。

(娘婿の自裁が気にいらず、腹立ちまぎれに儂まで連座させられるというのか)

 則頼は訝りつつも、腹に冷たいものが走る感覚を覚えた。

 もともと則頼は、秀次とは積極的に親交を深めてはいなかった。

 単に機会がなかっただけではあるが、小牧長久手の合戦の折、秀次に従っていた嫡男・則氏が討死したことが、心のどこかに引っかかっていたのかも知れない。

 だから、今回の一件に関わり合いはない筈であるが、秀吉が何を言い出すかは予断を許さない。

 万が一に備えて身の回りの整理をして、後事を吉田大膳に託してから秀吉の元に向かう。

「渡瀬左衛門佐のことは聞いておるな」
 書院の上座に座る秀吉の声音は、意外にも明るかった。

 今は、内患を取り除けたことに安堵しているのか。

「関白の家老であった以上、責は免れぬと承知しておりまするが、それでも娘婿なれば悲しく存じます」

「うむ。儂とて、このような真似はしとうなかったわ。それでじゃ。遠州横須賀三万石は左衛門佐の子には継がせぬ。代わりに、家老の玄蕃豊氏に家臣もろとも、そのまま引き継がせるつもりじゃ」

「なんと」

「玄蕃は、左衛門佐が不在の間も、領内をよくまとめておると聞くでな。どうじゃ、嬉しかろう。有馬の坊主の息子は、親を超えおったぞ」
 秀吉は笑み皺を深くした。

(なんというむごい沙汰を考え付くのじゃ、この御方は)

 かつては秀吉の邪気のない笑みに例えようもなく惹かれたものだが、今はどうだ。

 その笑顔の裏に隠しきれない悪意が渦巻いているのを感じずにはいられない。

 世継の栄達を喜ぶ気持ちよりも先に、実の弟に夫の家を丸ごと乗っ取られる娘に対する不憫さが勝った。

 だが、口を開いて声に出せるのは、真意とは裏腹の、本音からは程遠い言葉でしかない。

「まこと、ありがたき幸せにございます。我が息子ながら、あやかりたいほどの実に果報者にございますな」
 心の中に、冷え冷えとした風が吹く。

 己の顔に浮かんだ嫌悪の色を気取られぬよう、則頼は深く深く頭を下げ続けた。
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