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(十二)伊勢出陣
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二条御所の普請場における人夫同士の大規模な諍いは浅井家にこそ暗い影を落とした。
しかし、信長自身はなにほども感じていない様子であり、普請は前にもまして急かされるばかりだった。
そして、大量の人夫が動員されて盛んに進捗を競った結果、二町四方に濠を巡らせた二条御所の修復は、わずか三か月足らずで落成を見た。
本圀寺から、各段に防備の固い二条御所へと居を移した足利義昭が信長に大いに感謝したことは言うまでもない。
しかし、信長は今回も京に長居しない。
義昭の動座を見届けた数日後には岐阜城へと帰還している。
そして八月二十日。
軍勢を整えた信長は、岐阜を出陣した。
今回、向かう先は伊勢国。その日のうちに、八万騎を号する大軍勢が桑名まで進出した。
無論、誇大な数字である。
尾張と美濃の領内だけでは、到底集められる数ではない。
信長は南近江や山城を版図に加えたとはいえ、まだ一年も経っておらず、大規模な軍役を課せるほどには領民は心服していない。
それでも、信長にとって過去に率いたことがないほどの大軍であったのは確かだろう。
もともと信長は、美濃攻めに目途がつきはじめた二年前の永禄十年(一五六七年)頃から、伊勢にも手を出し始めていた経緯がある。
その翌年には、北伊勢の有力者である神戸城の神戸氏に次男の三七郎(後の信孝)を養子として送り込み、また安濃津城の長野氏には弟の信良(後の信包)を新たな当主に押し立てるなどして、既に北伊勢八郡に地歩を確保している。
今回の出陣は、南伊勢五郡を領する伊勢国司・北畠具教の実弟である木造城城主・木造具政が、様々な調略を受けた結果、兄を見限って信長に誼を通じてきたことに端を発するものだった。
岐阜出陣から三日後には木造城に入城した信長は、木下秀吉に命じて阿坂城を攻め落とさせたものの、他の近傍の小城には目もくれず、一挙に北畠氏の居城である大河内城を囲んだ。
「信長公記」には、この時に参陣した織田の名だたる将が列挙される中に、磯野員昌の名が記されているのがみえる。
無論、員昌が信長の家臣になった訳ではない。
信長に援軍を求められた長政が、員昌に加勢を命じて参陣させたものである。
長年、対六角の最前線として大きな役目を与えられていた佐和山城は、信長の上洛に際して六角家が観音寺城から逃げ去ったため、もはや周囲に敵はいなくなった。
従って、城を任された員昌の立場も変わらざるを得ない。
員昌としては、浅井を代表して送り出されるのだと思えば悪い気はしないが、かといって手伝い戦さに駆り出されるのを単純に喜ぶ気にもなれない。
大敗のおそれは少ないとはいえ、戦さとなれば兵は傷つき、死ぬこともある。
懈怠とみられぬように兵を動かしつつ、損害をいかに少なくするか。
起伏している国衆に軍役を課し、兵一千を率いて参陣した員昌は、口外できぬ思案を繰り返し脳裏によぎらせていた。
小高い丘陵の上に築かれた大河内城は、東と北にそれぞれ阪内川、矢津川と呼ばれる川が流れている。
さらに西側と南側には深い谷が落ち込み、まさに天険の要害と評してよい立地にある。
員昌は着陣後、矢津川を挟んだ大河内城の北面に陣場を与えられた。
しかし割り当てられた場所に実際に向かってみると、そこは水場からかなり遠く、枯れた松がまばらに生えているだけの、岩だらけの山裾だった。
とにかく足場が悪く、穴を掘ることはおろか、身体を横にすることすらままならない。
どれほどの長滞陣となるかは判らないが、陣中暮らしにはあまりに不適な場所であった。
「この有様では、兵が難儀しますぞ。坂井様に、陣場替えを願う訳にはまいりませぬか」
ここ数年、員昌の側近として付き従う機会が多くなった嶋秀淳が、表情を強張らせてをして員昌に具申する。
彼が言う坂井様とは坂井政尚のことだ。政尚は早くから信長に仕えた織田家中の重臣で、大河内城の北側を囲む将を束ねる立場にあった。
「どうかな。恐らく聞き届けてはもらえまい。あるいは、他に好地はないと城の眼前まで押し出されて、盾替わりにされかねぬ」
員昌が着陣にあたって政尚に挨拶をした際、いかにも浅井を下に見る尊大な態度であった。
それを思い出し、員昌も渋面を作らずにいられない。
とはいえ、浅井家そのものの弱腰を陰で笑われているように思われて、何も言わないままただ受け入れる訳にもいかない。
員昌は意を決して坂井政尚の陣まで足を運んだが、案の定、前向きな返事は得られなかった。
「戦さ場である以上、どこであろうと陣を敷けぬなどということはあるまい。矢面に立たせぬよう、もっとも北側を割り当てたことを汲み取ってもらわねば」
員昌の強面を前にすると、さすがに坂井政尚も突っぱねきれないのか、門前払いということはなかった。
しかし、陣場替えについて首を縦には振らずじまいであった。
言葉には出さないが、政尚の立場でも陣の割り振りについては自分の思うままにできる権限はないものと思われた。
流石に員昌が信長にまでねじ込むような真似をすれば、織田と浅井の関係に悪影響が及ぶ。
ここは員昌たち浅井勢が我慢をする他はなさそうであった。
「すまぬ、儂の力が足りぬばかりに」
幔幕を張る杭を打つにも、鹿垣を結い、堀を穿つにも、堅い岩場ではままならない。
布陣の作事に手こずる配下の足軽たちを横目に、員昌は配下の将の前で頭を下げた。
「どうか面をお上げくだされ。殿のせいではございませぬ」
嶋秀淳が太い身体を縮こまらせて、悲し気な顔で訴える。
「なに、この程度のことで根を上げるほど、我等は惰弱ではございませぬぞ。出来る限り知恵を巡らせて立派な陣構えを作り上げ、度肝を抜いてやりましょう」
小柄な小堀正房が肩を怒らせて言い放ち、胸を張った。
「頼む。なれど、織田勢と要らぬ諍いを起こしてはならぬ。兵にはよくそう申し聞かせよ」
員昌は唇をかみしめて、何度も頷き返しつつ、そう命じざるを得なかった。
しかし、彼らが胸に抱いた密かな恨みの矛先が坂井政尚、ひいては信長に向けられることは避けられなかった。
九月八日。
絡め手となる西側の攻め口において、夜討ちによって大河内城攻めが開始された。
しかし、この夜は間が悪いことに、夜半になってから雨が降り始めたため、寄せ手の鉄砲が使えなくなる不運に見舞われた。
逆に、屋根のある櫓や城壁の内側で待ち受ける北畠勢の鉄砲組は、火縄を濡らす心配もなく、盛んに眼下の織田勢めがけて撃ちかける。
織田勢は一方的に散々撃ちすくめられたところで、絡め手門を開いて襲い掛かってきた北畠勢に追い散らされる羽目になった。
この夜討で、織田勢は名のある武士が幾人も討死し、損害ばかりが多く成果を挙げられなかった。
すると信長は翌九日には多気にある国司館をはじめ、北畠家が大河内城周辺に有する拠点の焼き討ちを命じ、早くも兵糧攻めに切り替える動きを見せた。
員昌は、この戦況を見て相当な長期戦になるのではと憂慮した。
率いている兵には、軍役を課せられた農民も少なくない。
彼らは皆、稲刈りの時期までには国許に帰りたいのが本音だ。
しかし、城の外にいる員昌には実情をうかがい知る由もなかったが、立てこもる北畠家も悠然と構えているわけではなかった。
大河内城には籠城の用意が不十分なまま、支城から逃げ込んだ者を多数抱えており、たちまち兵糧が心もとなくなっていたのだ。
結果、十月四日には北畠具教、具房父子は、信長の次男・茶筅(のちの信雄)に家督を譲るとの条件で、城を開くこととなった。
員昌率いる浅井勢には攻め口が与えられることもなく、戦さは終わりを告げた。
(やはり、兵糧の備えは常日頃より怠ってはならぬ。いざという時になってから慌てても遅い)
事の次第を、開城後に伝え聞いた員昌は、その一事を学ぶために、わざわざ伊勢までやってきたようなものだと思った。
「二か月足らずで終わるとは存外に早いですが、それでも長く感じましたなあ」
陣払いの用意を進めながら、嶋秀淳が安堵の吐息を漏らす。
手勢から討死を出さずに済んだことに関しては、員昌も素直に喜んでいた。
もっとも、足場の悪さから足首を挫いた者もいれば、ろくに身体を横たえられぬ場所に布陣しているために寝不足で体調を崩したり、喧嘩騒ぎを起こしたりした者もおり、まったくの無傷とはいかなかったが。
「うむ、ようやく終わった。これで帰れるのう」
これほど佐和山の城が恋しいと思ったことはなかった。
すでに十月。稲刈りの時期に重なったこともあり、雑兵を送り出した後、残された領民が無事に収穫を終えられたのか気にかかる。
だが、ほっとした気持ちで口にした言葉の意味を改めて考え、員昌は血の気が引く感触を味わった。
これで終わりなどではない。
これから先も、浅井家が織田家と共に歩む限り、このような労多く益のない手伝い戦さは果てることなく続くのだ。
(もはや我が殿は、自らの意志で戦さを起こすことすら出来ぬのか。そのこと、承知されているのだろうか)
大君ヶ畑峠を越えて佐和山城への帰路につく明るい表情の将兵の中にあって、ひとり員昌だけが暗い表情で物思いに沈んでいた。
しかし、信長自身はなにほども感じていない様子であり、普請は前にもまして急かされるばかりだった。
そして、大量の人夫が動員されて盛んに進捗を競った結果、二町四方に濠を巡らせた二条御所の修復は、わずか三か月足らずで落成を見た。
本圀寺から、各段に防備の固い二条御所へと居を移した足利義昭が信長に大いに感謝したことは言うまでもない。
しかし、信長は今回も京に長居しない。
義昭の動座を見届けた数日後には岐阜城へと帰還している。
そして八月二十日。
軍勢を整えた信長は、岐阜を出陣した。
今回、向かう先は伊勢国。その日のうちに、八万騎を号する大軍勢が桑名まで進出した。
無論、誇大な数字である。
尾張と美濃の領内だけでは、到底集められる数ではない。
信長は南近江や山城を版図に加えたとはいえ、まだ一年も経っておらず、大規模な軍役を課せるほどには領民は心服していない。
それでも、信長にとって過去に率いたことがないほどの大軍であったのは確かだろう。
もともと信長は、美濃攻めに目途がつきはじめた二年前の永禄十年(一五六七年)頃から、伊勢にも手を出し始めていた経緯がある。
その翌年には、北伊勢の有力者である神戸城の神戸氏に次男の三七郎(後の信孝)を養子として送り込み、また安濃津城の長野氏には弟の信良(後の信包)を新たな当主に押し立てるなどして、既に北伊勢八郡に地歩を確保している。
今回の出陣は、南伊勢五郡を領する伊勢国司・北畠具教の実弟である木造城城主・木造具政が、様々な調略を受けた結果、兄を見限って信長に誼を通じてきたことに端を発するものだった。
岐阜出陣から三日後には木造城に入城した信長は、木下秀吉に命じて阿坂城を攻め落とさせたものの、他の近傍の小城には目もくれず、一挙に北畠氏の居城である大河内城を囲んだ。
「信長公記」には、この時に参陣した織田の名だたる将が列挙される中に、磯野員昌の名が記されているのがみえる。
無論、員昌が信長の家臣になった訳ではない。
信長に援軍を求められた長政が、員昌に加勢を命じて参陣させたものである。
長年、対六角の最前線として大きな役目を与えられていた佐和山城は、信長の上洛に際して六角家が観音寺城から逃げ去ったため、もはや周囲に敵はいなくなった。
従って、城を任された員昌の立場も変わらざるを得ない。
員昌としては、浅井を代表して送り出されるのだと思えば悪い気はしないが、かといって手伝い戦さに駆り出されるのを単純に喜ぶ気にもなれない。
大敗のおそれは少ないとはいえ、戦さとなれば兵は傷つき、死ぬこともある。
懈怠とみられぬように兵を動かしつつ、損害をいかに少なくするか。
起伏している国衆に軍役を課し、兵一千を率いて参陣した員昌は、口外できぬ思案を繰り返し脳裏によぎらせていた。
小高い丘陵の上に築かれた大河内城は、東と北にそれぞれ阪内川、矢津川と呼ばれる川が流れている。
さらに西側と南側には深い谷が落ち込み、まさに天険の要害と評してよい立地にある。
員昌は着陣後、矢津川を挟んだ大河内城の北面に陣場を与えられた。
しかし割り当てられた場所に実際に向かってみると、そこは水場からかなり遠く、枯れた松がまばらに生えているだけの、岩だらけの山裾だった。
とにかく足場が悪く、穴を掘ることはおろか、身体を横にすることすらままならない。
どれほどの長滞陣となるかは判らないが、陣中暮らしにはあまりに不適な場所であった。
「この有様では、兵が難儀しますぞ。坂井様に、陣場替えを願う訳にはまいりませぬか」
ここ数年、員昌の側近として付き従う機会が多くなった嶋秀淳が、表情を強張らせてをして員昌に具申する。
彼が言う坂井様とは坂井政尚のことだ。政尚は早くから信長に仕えた織田家中の重臣で、大河内城の北側を囲む将を束ねる立場にあった。
「どうかな。恐らく聞き届けてはもらえまい。あるいは、他に好地はないと城の眼前まで押し出されて、盾替わりにされかねぬ」
員昌が着陣にあたって政尚に挨拶をした際、いかにも浅井を下に見る尊大な態度であった。
それを思い出し、員昌も渋面を作らずにいられない。
とはいえ、浅井家そのものの弱腰を陰で笑われているように思われて、何も言わないままただ受け入れる訳にもいかない。
員昌は意を決して坂井政尚の陣まで足を運んだが、案の定、前向きな返事は得られなかった。
「戦さ場である以上、どこであろうと陣を敷けぬなどということはあるまい。矢面に立たせぬよう、もっとも北側を割り当てたことを汲み取ってもらわねば」
員昌の強面を前にすると、さすがに坂井政尚も突っぱねきれないのか、門前払いということはなかった。
しかし、陣場替えについて首を縦には振らずじまいであった。
言葉には出さないが、政尚の立場でも陣の割り振りについては自分の思うままにできる権限はないものと思われた。
流石に員昌が信長にまでねじ込むような真似をすれば、織田と浅井の関係に悪影響が及ぶ。
ここは員昌たち浅井勢が我慢をする他はなさそうであった。
「すまぬ、儂の力が足りぬばかりに」
幔幕を張る杭を打つにも、鹿垣を結い、堀を穿つにも、堅い岩場ではままならない。
布陣の作事に手こずる配下の足軽たちを横目に、員昌は配下の将の前で頭を下げた。
「どうか面をお上げくだされ。殿のせいではございませぬ」
嶋秀淳が太い身体を縮こまらせて、悲し気な顔で訴える。
「なに、この程度のことで根を上げるほど、我等は惰弱ではございませぬぞ。出来る限り知恵を巡らせて立派な陣構えを作り上げ、度肝を抜いてやりましょう」
小柄な小堀正房が肩を怒らせて言い放ち、胸を張った。
「頼む。なれど、織田勢と要らぬ諍いを起こしてはならぬ。兵にはよくそう申し聞かせよ」
員昌は唇をかみしめて、何度も頷き返しつつ、そう命じざるを得なかった。
しかし、彼らが胸に抱いた密かな恨みの矛先が坂井政尚、ひいては信長に向けられることは避けられなかった。
九月八日。
絡め手となる西側の攻め口において、夜討ちによって大河内城攻めが開始された。
しかし、この夜は間が悪いことに、夜半になってから雨が降り始めたため、寄せ手の鉄砲が使えなくなる不運に見舞われた。
逆に、屋根のある櫓や城壁の内側で待ち受ける北畠勢の鉄砲組は、火縄を濡らす心配もなく、盛んに眼下の織田勢めがけて撃ちかける。
織田勢は一方的に散々撃ちすくめられたところで、絡め手門を開いて襲い掛かってきた北畠勢に追い散らされる羽目になった。
この夜討で、織田勢は名のある武士が幾人も討死し、損害ばかりが多く成果を挙げられなかった。
すると信長は翌九日には多気にある国司館をはじめ、北畠家が大河内城周辺に有する拠点の焼き討ちを命じ、早くも兵糧攻めに切り替える動きを見せた。
員昌は、この戦況を見て相当な長期戦になるのではと憂慮した。
率いている兵には、軍役を課せられた農民も少なくない。
彼らは皆、稲刈りの時期までには国許に帰りたいのが本音だ。
しかし、城の外にいる員昌には実情をうかがい知る由もなかったが、立てこもる北畠家も悠然と構えているわけではなかった。
大河内城には籠城の用意が不十分なまま、支城から逃げ込んだ者を多数抱えており、たちまち兵糧が心もとなくなっていたのだ。
結果、十月四日には北畠具教、具房父子は、信長の次男・茶筅(のちの信雄)に家督を譲るとの条件で、城を開くこととなった。
員昌率いる浅井勢には攻め口が与えられることもなく、戦さは終わりを告げた。
(やはり、兵糧の備えは常日頃より怠ってはならぬ。いざという時になってから慌てても遅い)
事の次第を、開城後に伝え聞いた員昌は、その一事を学ぶために、わざわざ伊勢までやってきたようなものだと思った。
「二か月足らずで終わるとは存外に早いですが、それでも長く感じましたなあ」
陣払いの用意を進めながら、嶋秀淳が安堵の吐息を漏らす。
手勢から討死を出さずに済んだことに関しては、員昌も素直に喜んでいた。
もっとも、足場の悪さから足首を挫いた者もいれば、ろくに身体を横たえられぬ場所に布陣しているために寝不足で体調を崩したり、喧嘩騒ぎを起こしたりした者もおり、まったくの無傷とはいかなかったが。
「うむ、ようやく終わった。これで帰れるのう」
これほど佐和山の城が恋しいと思ったことはなかった。
すでに十月。稲刈りの時期に重なったこともあり、雑兵を送り出した後、残された領民が無事に収穫を終えられたのか気にかかる。
だが、ほっとした気持ちで口にした言葉の意味を改めて考え、員昌は血の気が引く感触を味わった。
これで終わりなどではない。
これから先も、浅井家が織田家と共に歩む限り、このような労多く益のない手伝い戦さは果てることなく続くのだ。
(もはや我が殿は、自らの意志で戦さを起こすことすら出来ぬのか。そのこと、承知されているのだろうか)
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