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(十三)長政別心
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永禄十三年(一五七〇年)は、四月二十三日を最後とし、元号は元亀に改められている。
もっともこの時代、その事実が国内に知れ渡るには相応の日数を要する。
改元二日後、二十五日に佐和山城にて長政からの急使を迎えた員昌は、この時点ではまだ改元を知らなかった可能性が高い。
しかし、やってきた使者がもたらしたのは、改元の報せなどではない。
使者の切羽詰まった様子から、信長絡みでなにか思わぬ事態が出来したのでは、と想像がついた。
折しも改元前の四月二十日に、信長は三万と呼号する軍勢を率いて若狭に向かっている。
出陣の名目は若狭武田家の老臣・武藤友益の討伐であった。
しかし、それにしては率いる軍勢の数が多すぎることから、実際には越前の朝倉を討伐を企図している、との噂が流れていた。
朝倉義景は今年の正月に、足利義昭のために上洛を命じる信長の触状に従っておらず、追討の名分もあった。
そして武藤友益を早々に降すや、二十五日には織田勢は遂に越前の敦賀表に侵入している。
朝倉義景も織田勢の侵攻は予見しており、境目の城となる金ヶ崎城・天筒山城に兵を入れて迎撃の構えを整えていた。
織田・朝倉両方に近しい浅井家は苦しい立場に置かれることになる。
浅井家は信長から出陣の要請を受けておらず、局外中立を求められているのだと員昌は理解していた。
(もしや、織田勢が思わぬ苦戦に陥って、浅井の援軍が求められておるのか)
しかし、現実は員昌の予測とは全く違った方向に動き出していた。
使者がもたらしたのは、「浅井は朝倉との同盟を守り、織田の背後を衝くと決めた」という報せだったのだ。
「真か。本当に、当家は朝倉に味方し、織田とは手を切る。殿はそう断じられたのじゃな」
さしもの員昌も絶句し、嘘である筈もないと知りつつ、思わず使者に問い直してしまったほどだ。
朝倉との縁を切れないから、というのは嘘であろう、と員昌は動揺しながらも考えを巡らせる。
その点に限っては、裏切りとはいえない。
浅井は近江半国を治めてはいるが、あくまでも京極の家臣として、その意向に沿って命令を出す、という体制を強いている。
この体裁を保たなければ領内をまとめきれない実情は、先々代の亮親の時代から今も変わっていない。
斯波氏の被官から出発しながら、実力で名実ともに大名となり、もはや斯波氏の権威を必要としない織田家とはかなり異なっている。
信長は、京極を名目上の当主として掲げている浅井の政治方針を逆手に取り、京極家を取り込むことで浅井を膝下に敷こうと動いていた。
少なくとも長政は、北近江の支配者としての立場を脅かす織田と対決するため、挙兵を決めたのであろう。
員昌は内心でそう結論付けた。
「もう、殿は兵を出したのじゃな? 仮に、儂がお諫めしたくとも、既に小谷を出立した後なのじゃな?」
逸る気持ちを押しとどめ、員昌は使者に対し、くどいほどに念を押す。
「仰せの通りにござります。磯野様におかれましては、佐和山を固く守るようにせよとのご命令にござります」
身を固くして応える使者の声も、わずかに震えを帯びている。
(またしても、殿は儂に相談しようとなさらなかった)
確かに、長政にとって員昌は、佐和山城を任せて以来、なんとなく疎遠となっている家臣である。
頼りにするときもあろうが、煩わしく、気兼ねすることも多い相手であろう。
だがなにより、相談すれば諌止されるとでも思ったか、黙って兵を動かした長政の心根が、員昌にはどうしようもなく寂しかった。
(確かに、儂は止めたやもしれぬ。今の織田を相手に戦うのは無謀というもの。されど、共に死んでくれと言われれば、繰り言も抑えて付き従ったであろうに)
しかし、内心で愚痴をこぼしている暇などある筈もなかった。
「承知した。この城は儂がきっと守り抜くゆえ、殿が本懐を遂げられることを祈念しておると申し上げてくれ」
員昌は揺れ動く内心を面に出さぬよう、つとめて穏やかな声でそう申し伝え、使者を送り返す。
「大変なことになったのう、兄者」
員昌と使者のやりとりを息を潜めて聞いていた員春が、青い顔をして呟く。
「嘆いている場合ではないぞ。殿が織田殿のお命を縮め給うこと、叶おうが叶うまいが、織田との戦さは簡単には終われぬぞ」
「うむ。気合を入れ直さねば」
厳しい口調の員昌に対し、員春は素直に首肯する。
「南近江に、織田の兵がどれほど残っておるや判らぬ。仮に観音寺あたりから織田勢が押し出して参ったとて、当面の間は小谷からの後詰めも期待できぬ。この城の兵糧はどれほど確保してある」
員昌とて、城の備蓄に関してはおおむねのところは把握しているが、この手の数字は、やはり員春のほうが詳しい。
「それならば、来年の秋の収穫まで、一年半は保つ。二年、年貢が取れねばどうにもならぬ」
計数に明るい員春は、語気も強く即答した。
「ことによっては、今年の収穫は諦めねばならぬかも知れぬな。とは申せ、城を囲まれることばかり考えておっても仕方がない」
東山道を扼する佐和山城の存在は、織田にとっては東西交通の要を抑えられているようなものである。
もっとも、織田には伊勢を回って行き来する道筋もあるため、完全に分断されている訳ではない。
それでも、遠回りを余儀なくされて得することはなにもない。
長政が織田勢の背後を衝き、信長を討ち取ることに成功しようがしまいが、織田勢が佐和山城に攻め寄せてくる可能性は高い。
(盛造に命じて、南近江に残る織田勢の動きを探らねば)
員昌は今後の方策を打ち出すべく、思案を巡らせ始めた。
佐和山城の周囲から敵が消えていた泰平の数年は過去のものとなり、再び国境の要衝としての役目を果たす時が来たのだ。
員昌は佐和山城の戦支度を整えさせる一方、周辺の国衆にも陣触れを発して軍兵の動員を命じ、織田の逆襲に備えさせた。
その間にも、小谷城からは続報がぽつりぽつりともたらされる。
曰く——、
浅井勢来るとの報を受けた織田勢は、総崩れとなって越前から退いた。
その際、信長が真っ先に逃げ出し、余りの逃げ足の速さに浅井勢は捕捉しそこねた。
信長は西近江路を避け、高島郡の朽木谷を抜ける若狭街道を用い、四月三十日には無事に京に戻ったらしい——。
それらの報せが聞こえるたび、員昌の眉間に刻まれる皺が深くなった。
信長が虎口を脱したことが明らかとなった五月一日、員昌は大広間に家臣を集めて軍議を開いた。
「よもや、織田の当主ともあろう御方が、一戦も交えずに真っ先に逃げ出すとは」
皆、予想外の事態に困惑していた。
「いや、腹背に敵を受けては、いかな名将とて持ちこたえられぬ。むしろ見事な逃げっぷりではないか」
剛毅な荒武者を演じたい員春が、ここぞとばかりに高笑いをしてみせるが、同調する者は少ない。
「事を起こした以上は、なにがあっても取らねばならなんだ信長の首級を取り損ねたのじゃ。誉めておる場合ではないぞ。次はどうなると思う」
員昌は員春をたしなめた上で、問いを発した。
これに対し、家臣を代表する形で小堀正房が小柄な身体を乗り出すようにして応じる。
「されば、織田の本貫は尾張。そして織田弾正様は居城を美濃の岐阜城に定めておるゆえ、一度は美濃に戻って兵を募り、恐れながら小谷の城を攻める腹ではないかと存じますが」
まだ織田を敵とすることに実感が沸かないのか、正房は信長を諱で呼び捨てにはしなかった。
「であろうな。かと申して、織田の軍勢が東山道を抜けていくはずもない。無論、我らの眼前を通るとなれば、黙って見過ごしはせぬが」
員昌の言葉に、家臣たちはそれぞれの頭の中に地図と情景を思い描く。
隊伍も整わない敗残の信長の軍勢を急襲して散々に打ち破る、そんな痛快な情景を思い浮かべた者もすくなくない。
しかし、冷静になって考えれば、そんな都合の良いことがある筈もない。
「まずもって、弾正様は伊勢から尾張に抜ける道を用いましょうな」
と、磯野家臣団の中でも物の見えている小堀正房の見立てである。
皆もが一瞬の夢想から覚め、頷かずにはいられない。
「それを我等が止める、何か良き手だてがあればよいが」
員昌の呟きに、妙手をもって応じられる家臣はいなかった。
皆、首をひねるばかりでこれといった策も出てこない。
もし万が一、信長が軍勢を連ねて東山道を押し通る無法を働くのであれば、必ずこれに立ち向かい、首級をあげる事だけは皆の意見が一致した。
あまり実のない軍評定を終えた員昌が本丸御殿の寝所に戻ると、部屋の片隅にうずくまる何者かの気配を感じた。
(織田の間者か!)
員昌はとっさに身構えたが、すぐに相手の正体に気づいて肩の力を抜く。
「善住坊か。久しいな」
懐かしさから、員昌の声も思わず大きくなる。
「如何なされましたか」
次の間に控える近習が、慌てた様子で尋ねてくる。
「大事ない。独り言じゃ。これよりしばし、思案しながら声を出すが、気にせずともよいぞ」
員昌は急いで近習に向かって応じると、善住坊の前に円座を置いて腰を据える。
「夜分、このような形で参上つかまつり、あまつさえ寝所にまで入り込んだこと、大変申し訳ございませぬ」
相変わらずの僧形である杉谷善住坊は、わずかに頭を上げたものの視線は床に落としたまま、低い声で謝罪の言葉を述べた。
聞けば善住坊は、員昌の陣触れに応じた国衆が手勢を引き連れて佐和山城に入城するどさくさに紛れて、誰何されることなく本丸御殿まで潜り込んだという。
「流石は甲賀の忍びよ。見張りを増やさねばならぬかな。まあ、善住坊ならば構わぬ。敵の忍びが儂の寝首を掻きに忍んで来ておったのであれば、危ういところであったがな」
員昌は声を潜めて鷹揚に応じつつ、背筋に冷や汗が噴き出る思いをせずにはいられなかった。
「お許しいただき、ありがたき仕合せに存じます」
「して、此度は何用あって参ったのじゃ」
「それがし、六角承禎様より織田信長を鉄砲にて射止めよとの御役目を、百貫文にて承ってござります」
信長上洛の際、観音寺城を捨てて近江国愛知郡の鯰江城に逼塞していた六角承禎こと義賢が、今回の長政の決起に呼応して挙兵した、との報せは員昌も受けていた。
長年にわたって抗争を続けてきた両家は、反信長で一致し、手を取り合う形となったのだ。
員昌としては胸中複雑なものがあるが、御家を守るためと割り切るほかなかった。
「ほう。京に戻った織田弾正殿は、ほどなく本貫の美濃に戻るであろう。そこを狙う算段か」
「はっ。いかに信長が向こう見ずな男であろうとも、この佐和山の城の眼下を抜けるとは考えられませぬゆえ、伊勢へと抜けるものと踏んでおります」
善住坊は、先の軍議で出た意見と同じ推察を口にした。
取り立てて鋭い洞察という訳ではない。常識的に考えれば誰でもわかることだ。
「ふむ……。敵の総大将を鉄砲で撃ち殺して仕舞いにするというのは、有り体に申して気にいらぬ手管ではある。されど、選り好みをしておる場合ではないやも知れぬ」
員昌はそう応じて、しばし自らの言葉の意味を頭の中で整理する。
(どうあれ、織田信長さえ亡き者に出来るのなら、この後、浅井が立ちゆく方途も見えて来よう)
心の中でそう結論付けた員昌は、小さく息をついてから再び口を開き、言葉を継ぐ。
「首尾よく討ち果たせるよう、儂も願っておる。されど、なにゆえそのことをわざわざ報せに参ったのじゃ」
「信長を討ち、百貫文もの大金を頂戴したならば、それがしはもはや荒事に手を染める必要はございませぬ。また、仕損じたならば追手に討たれることもございましょう。いずれにせよ、今生の別れやもしれませぬのでご挨拶に参った次第にて」
善住坊の言葉に、員昌は大きくうなずいた。
もちろん、善住坊が敢えて口にしなかった思いが裏にあることに、員昌は気づいている。
元は六角義賢からの依頼ではあれども、自分は員昌のために今回の任務を成功させ、太尾城での失策を取り戻してみせる。
善住坊は員昌にそう告げに来たのだ。
もっともこの時代、その事実が国内に知れ渡るには相応の日数を要する。
改元二日後、二十五日に佐和山城にて長政からの急使を迎えた員昌は、この時点ではまだ改元を知らなかった可能性が高い。
しかし、やってきた使者がもたらしたのは、改元の報せなどではない。
使者の切羽詰まった様子から、信長絡みでなにか思わぬ事態が出来したのでは、と想像がついた。
折しも改元前の四月二十日に、信長は三万と呼号する軍勢を率いて若狭に向かっている。
出陣の名目は若狭武田家の老臣・武藤友益の討伐であった。
しかし、それにしては率いる軍勢の数が多すぎることから、実際には越前の朝倉を討伐を企図している、との噂が流れていた。
朝倉義景は今年の正月に、足利義昭のために上洛を命じる信長の触状に従っておらず、追討の名分もあった。
そして武藤友益を早々に降すや、二十五日には織田勢は遂に越前の敦賀表に侵入している。
朝倉義景も織田勢の侵攻は予見しており、境目の城となる金ヶ崎城・天筒山城に兵を入れて迎撃の構えを整えていた。
織田・朝倉両方に近しい浅井家は苦しい立場に置かれることになる。
浅井家は信長から出陣の要請を受けておらず、局外中立を求められているのだと員昌は理解していた。
(もしや、織田勢が思わぬ苦戦に陥って、浅井の援軍が求められておるのか)
しかし、現実は員昌の予測とは全く違った方向に動き出していた。
使者がもたらしたのは、「浅井は朝倉との同盟を守り、織田の背後を衝くと決めた」という報せだったのだ。
「真か。本当に、当家は朝倉に味方し、織田とは手を切る。殿はそう断じられたのじゃな」
さしもの員昌も絶句し、嘘である筈もないと知りつつ、思わず使者に問い直してしまったほどだ。
朝倉との縁を切れないから、というのは嘘であろう、と員昌は動揺しながらも考えを巡らせる。
その点に限っては、裏切りとはいえない。
浅井は近江半国を治めてはいるが、あくまでも京極の家臣として、その意向に沿って命令を出す、という体制を強いている。
この体裁を保たなければ領内をまとめきれない実情は、先々代の亮親の時代から今も変わっていない。
斯波氏の被官から出発しながら、実力で名実ともに大名となり、もはや斯波氏の権威を必要としない織田家とはかなり異なっている。
信長は、京極を名目上の当主として掲げている浅井の政治方針を逆手に取り、京極家を取り込むことで浅井を膝下に敷こうと動いていた。
少なくとも長政は、北近江の支配者としての立場を脅かす織田と対決するため、挙兵を決めたのであろう。
員昌は内心でそう結論付けた。
「もう、殿は兵を出したのじゃな? 仮に、儂がお諫めしたくとも、既に小谷を出立した後なのじゃな?」
逸る気持ちを押しとどめ、員昌は使者に対し、くどいほどに念を押す。
「仰せの通りにござります。磯野様におかれましては、佐和山を固く守るようにせよとのご命令にござります」
身を固くして応える使者の声も、わずかに震えを帯びている。
(またしても、殿は儂に相談しようとなさらなかった)
確かに、長政にとって員昌は、佐和山城を任せて以来、なんとなく疎遠となっている家臣である。
頼りにするときもあろうが、煩わしく、気兼ねすることも多い相手であろう。
だがなにより、相談すれば諌止されるとでも思ったか、黙って兵を動かした長政の心根が、員昌にはどうしようもなく寂しかった。
(確かに、儂は止めたやもしれぬ。今の織田を相手に戦うのは無謀というもの。されど、共に死んでくれと言われれば、繰り言も抑えて付き従ったであろうに)
しかし、内心で愚痴をこぼしている暇などある筈もなかった。
「承知した。この城は儂がきっと守り抜くゆえ、殿が本懐を遂げられることを祈念しておると申し上げてくれ」
員昌は揺れ動く内心を面に出さぬよう、つとめて穏やかな声でそう申し伝え、使者を送り返す。
「大変なことになったのう、兄者」
員昌と使者のやりとりを息を潜めて聞いていた員春が、青い顔をして呟く。
「嘆いている場合ではないぞ。殿が織田殿のお命を縮め給うこと、叶おうが叶うまいが、織田との戦さは簡単には終われぬぞ」
「うむ。気合を入れ直さねば」
厳しい口調の員昌に対し、員春は素直に首肯する。
「南近江に、織田の兵がどれほど残っておるや判らぬ。仮に観音寺あたりから織田勢が押し出して参ったとて、当面の間は小谷からの後詰めも期待できぬ。この城の兵糧はどれほど確保してある」
員昌とて、城の備蓄に関してはおおむねのところは把握しているが、この手の数字は、やはり員春のほうが詳しい。
「それならば、来年の秋の収穫まで、一年半は保つ。二年、年貢が取れねばどうにもならぬ」
計数に明るい員春は、語気も強く即答した。
「ことによっては、今年の収穫は諦めねばならぬかも知れぬな。とは申せ、城を囲まれることばかり考えておっても仕方がない」
東山道を扼する佐和山城の存在は、織田にとっては東西交通の要を抑えられているようなものである。
もっとも、織田には伊勢を回って行き来する道筋もあるため、完全に分断されている訳ではない。
それでも、遠回りを余儀なくされて得することはなにもない。
長政が織田勢の背後を衝き、信長を討ち取ることに成功しようがしまいが、織田勢が佐和山城に攻め寄せてくる可能性は高い。
(盛造に命じて、南近江に残る織田勢の動きを探らねば)
員昌は今後の方策を打ち出すべく、思案を巡らせ始めた。
佐和山城の周囲から敵が消えていた泰平の数年は過去のものとなり、再び国境の要衝としての役目を果たす時が来たのだ。
員昌は佐和山城の戦支度を整えさせる一方、周辺の国衆にも陣触れを発して軍兵の動員を命じ、織田の逆襲に備えさせた。
その間にも、小谷城からは続報がぽつりぽつりともたらされる。
曰く——、
浅井勢来るとの報を受けた織田勢は、総崩れとなって越前から退いた。
その際、信長が真っ先に逃げ出し、余りの逃げ足の速さに浅井勢は捕捉しそこねた。
信長は西近江路を避け、高島郡の朽木谷を抜ける若狭街道を用い、四月三十日には無事に京に戻ったらしい——。
それらの報せが聞こえるたび、員昌の眉間に刻まれる皺が深くなった。
信長が虎口を脱したことが明らかとなった五月一日、員昌は大広間に家臣を集めて軍議を開いた。
「よもや、織田の当主ともあろう御方が、一戦も交えずに真っ先に逃げ出すとは」
皆、予想外の事態に困惑していた。
「いや、腹背に敵を受けては、いかな名将とて持ちこたえられぬ。むしろ見事な逃げっぷりではないか」
剛毅な荒武者を演じたい員春が、ここぞとばかりに高笑いをしてみせるが、同調する者は少ない。
「事を起こした以上は、なにがあっても取らねばならなんだ信長の首級を取り損ねたのじゃ。誉めておる場合ではないぞ。次はどうなると思う」
員昌は員春をたしなめた上で、問いを発した。
これに対し、家臣を代表する形で小堀正房が小柄な身体を乗り出すようにして応じる。
「されば、織田の本貫は尾張。そして織田弾正様は居城を美濃の岐阜城に定めておるゆえ、一度は美濃に戻って兵を募り、恐れながら小谷の城を攻める腹ではないかと存じますが」
まだ織田を敵とすることに実感が沸かないのか、正房は信長を諱で呼び捨てにはしなかった。
「であろうな。かと申して、織田の軍勢が東山道を抜けていくはずもない。無論、我らの眼前を通るとなれば、黙って見過ごしはせぬが」
員昌の言葉に、家臣たちはそれぞれの頭の中に地図と情景を思い描く。
隊伍も整わない敗残の信長の軍勢を急襲して散々に打ち破る、そんな痛快な情景を思い浮かべた者もすくなくない。
しかし、冷静になって考えれば、そんな都合の良いことがある筈もない。
「まずもって、弾正様は伊勢から尾張に抜ける道を用いましょうな」
と、磯野家臣団の中でも物の見えている小堀正房の見立てである。
皆もが一瞬の夢想から覚め、頷かずにはいられない。
「それを我等が止める、何か良き手だてがあればよいが」
員昌の呟きに、妙手をもって応じられる家臣はいなかった。
皆、首をひねるばかりでこれといった策も出てこない。
もし万が一、信長が軍勢を連ねて東山道を押し通る無法を働くのであれば、必ずこれに立ち向かい、首級をあげる事だけは皆の意見が一致した。
あまり実のない軍評定を終えた員昌が本丸御殿の寝所に戻ると、部屋の片隅にうずくまる何者かの気配を感じた。
(織田の間者か!)
員昌はとっさに身構えたが、すぐに相手の正体に気づいて肩の力を抜く。
「善住坊か。久しいな」
懐かしさから、員昌の声も思わず大きくなる。
「如何なされましたか」
次の間に控える近習が、慌てた様子で尋ねてくる。
「大事ない。独り言じゃ。これよりしばし、思案しながら声を出すが、気にせずともよいぞ」
員昌は急いで近習に向かって応じると、善住坊の前に円座を置いて腰を据える。
「夜分、このような形で参上つかまつり、あまつさえ寝所にまで入り込んだこと、大変申し訳ございませぬ」
相変わらずの僧形である杉谷善住坊は、わずかに頭を上げたものの視線は床に落としたまま、低い声で謝罪の言葉を述べた。
聞けば善住坊は、員昌の陣触れに応じた国衆が手勢を引き連れて佐和山城に入城するどさくさに紛れて、誰何されることなく本丸御殿まで潜り込んだという。
「流石は甲賀の忍びよ。見張りを増やさねばならぬかな。まあ、善住坊ならば構わぬ。敵の忍びが儂の寝首を掻きに忍んで来ておったのであれば、危ういところであったがな」
員昌は声を潜めて鷹揚に応じつつ、背筋に冷や汗が噴き出る思いをせずにはいられなかった。
「お許しいただき、ありがたき仕合せに存じます」
「して、此度は何用あって参ったのじゃ」
「それがし、六角承禎様より織田信長を鉄砲にて射止めよとの御役目を、百貫文にて承ってござります」
信長上洛の際、観音寺城を捨てて近江国愛知郡の鯰江城に逼塞していた六角承禎こと義賢が、今回の長政の決起に呼応して挙兵した、との報せは員昌も受けていた。
長年にわたって抗争を続けてきた両家は、反信長で一致し、手を取り合う形となったのだ。
員昌としては胸中複雑なものがあるが、御家を守るためと割り切るほかなかった。
「ほう。京に戻った織田弾正殿は、ほどなく本貫の美濃に戻るであろう。そこを狙う算段か」
「はっ。いかに信長が向こう見ずな男であろうとも、この佐和山の城の眼下を抜けるとは考えられませぬゆえ、伊勢へと抜けるものと踏んでおります」
善住坊は、先の軍議で出た意見と同じ推察を口にした。
取り立てて鋭い洞察という訳ではない。常識的に考えれば誰でもわかることだ。
「ふむ……。敵の総大将を鉄砲で撃ち殺して仕舞いにするというのは、有り体に申して気にいらぬ手管ではある。されど、選り好みをしておる場合ではないやも知れぬ」
員昌はそう応じて、しばし自らの言葉の意味を頭の中で整理する。
(どうあれ、織田信長さえ亡き者に出来るのなら、この後、浅井が立ちゆく方途も見えて来よう)
心の中でそう結論付けた員昌は、小さく息をついてから再び口を開き、言葉を継ぐ。
「首尾よく討ち果たせるよう、儂も願っておる。されど、なにゆえそのことをわざわざ報せに参ったのじゃ」
「信長を討ち、百貫文もの大金を頂戴したならば、それがしはもはや荒事に手を染める必要はございませぬ。また、仕損じたならば追手に討たれることもございましょう。いずれにせよ、今生の別れやもしれませぬのでご挨拶に参った次第にて」
善住坊の言葉に、員昌は大きくうなずいた。
もちろん、善住坊が敢えて口にしなかった思いが裏にあることに、員昌は気づいている。
元は六角義賢からの依頼ではあれども、自分は員昌のために今回の任務を成功させ、太尾城での失策を取り戻してみせる。
善住坊は員昌にそう告げに来たのだ。
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これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
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