【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬

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(十九)佐和山籠城

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「織田勢、近づいて参ります!」
 員昌に率いられて帰還した兵が日陰を求めて一息ついていたところ、物見櫓の上から見張りの兵が叫びあげた。

 員昌の耳にも、緊張のためかやや裏返った声が届いた。

「おう!」
 物見の兵に返事をして、すぐ員昌も物見櫓に上った。

 東に面した櫓の窓から、欄干に手をかけて眼下を望む。

 東山道を挟んだ左手、すなわち北側から、旗印を林立させた織田の軍勢が進軍してくるのが見える。

 先陣の丹羽勢が員昌の一撃を受けたとはいえ、既に隊列の乱れは見られない。

(あの軍勢の中に、信長もいるのか)

 員昌は、胸の中に膨れ上がった思いを抑えかね、無意識のうちに櫓の欄干に掌を強く打ち付けていた。

 その思いは一つ。
 今度こそ、信長の首級を討てるやも知れぬ。

 既に一戦を交えてささやかながらも勝利を収めているだけに、員昌の闘志が伝染するかのように、城兵も逸り立っていた。

「少し遠いか」
 高ぶる気持ちとは別の部分で、員昌は信長がいるであろう織田勢の本陣までの距離を見極める。

 大手門を開き、敵陣に切り込み、勢いを保ったまま本陣まで届くかどうか。

 頭の中で素早く間合いを見極める。

 この見極めの力ばかりは、兵書を読み、合戦場に立つ経験を積んだからといって必ず身につくものではない。
 天賦の才としか表現のしようがないものだ。

 員昌は、切っ先はわずかに信長まで届かないと踏んだ。

 まだだ。

「良いか! 次に討って出るのは敵手を充分に引き付けてからじゃ! 慌てるでないぞ!」

「おう!」
 員昌の大音声に負けじと、城兵が声を張り上げて応じる。

「よし、やれるぞ」
 員昌は、信長の大軍による力攻めを受けても跳ね返せる手ごたえを感じていた。



 しかし、員昌の思惑は外れることとなる。

 信長は、小谷城の早期攻略が難しいとみて、横山城が早々に降伏したこともあり、あわよくば代わりに佐和山城を奪おうと考えたのかもしれない。

 だが、磯野勢の士気の高さは目論み違いであったのだろう。

 形ばかりの力攻めは一日で打ち切られ、翌日には佐和山城の四方に柴垣を巡らせ、土塁を築きはじめた。

 明らかに、包囲戦に切り替える構えだった。
 やがて、佐和山城を囲むように四方に付城を築くと、信長は直率の手勢を率いて去って行った。

「逃げるか、卑怯者め!」
 城内からは罵声が飛び、嘲る笑い声が沸き起こるが、そのような挑発に心を動かされるような信長ではない。

 そもそも、城内からの声が耳に届く距離まで近づいてくることさえなかった。

「やむを得まい。これより後は、殿の後詰を待つしかあるまい」
 員昌も首を左右に振り、場外出撃を訴える兵どもを宥めに回った。

 かくして、佐和山城の籠城戦がはじまった。



 佐和山城を囲む四方の付城に入っているのは、織田家臣団にあっても後世まで名を残す有力者ばかりである。

 具体的には、北は湖岸際の物生山に市橋長利、東は東山道を挟んだ鳥居本の百々屋敷に丹羽長秀、南は芹川の対岸にある里根山に水野信元、そして西は彦根山に河尻秀隆といった顔ぶれである。

 だが、だからといって佐和山城がすぐさま落城の危機にさらされた訳ではない。

 そもそも、籠城戦では後詰がない限り籠城側に勝ち目はない、という印象は、後世の視点である。

 いくら大軍で囲んでも、その人数を喰わせていく兵站を確保しきれず、城を囲む側が耐えられなくなって兵を退く例は少なくない。

 城内に兵糧をため込んでいる籠城側のほうが、本来長期戦には有利なのである。

 ましてや、なまじ家中の有力な武将ばかりが揃っているため、誰かひとりの指揮によって連携して動くことも難しいはずだ。

 それぞれの陣地に兵を配しているが、陣地の間をつなぐ土塁を築く、といった完全な包囲には程遠い状態である。

 その証拠に、包囲が始まってからおよそ一か月半が経った頃、小谷城から嶋秀淳の実兄、久右衛門尉秀親が佐和山城に馳せ参じた。

「兄者、生きておったのか」
 秀親が来たとの報せを受けて、搦手門前の曲輪に足を運んだ秀淳は、人だかりをかき分けて兄の姿を見つけ、驚きの声を上げる。

「おうよ。戦さはこれからじゃというに、死んでなどおれぬわ」
 潜入行の過酷さを物語るような泥まみれの恰好のまま、秀親はにやりと笑ってみせた。

 秀親は、旗本衆の一員として姉川の戦いの前哨戦となった八相山の退き口に参陣した際、鑓と鉄砲で合わせて三か所もの手傷を負ったため、肝心の姉川の戦いには参加していない。

 やむなく小谷城において傷を癒していた秀親だが、佐和山城に籠った一族のことを思って矢も楯もたまらず、合力を決意した。

 そして、数名の従者と共に、夜陰に乗じて湖を舟で渡り、まんま織田勢の目を盗んで入城してみせたのである。

「ようしてのけた。まだ鉄砲傷も癒えてはおらぬであろうに。弟とは似つかぬ細身の身体のどこに、そんな気力が秘められているのやら」
 その場に駆けつけて秀親が語る武勇伝を聞いて、員昌も驚き、また喜ばせた。

 ひとり、渋い顔をするのは秀親の父・秀安である。

「苦労して参陣したところで、この佐和山にても当分の間、功名の機会はないと思うたほうがよいぞ。なにしろ、織田の軍勢はさっぱり仕寄っては来ぬからの」

「なんと、それでは無駄骨でございますか」
 目を丸くして頓狂な声をあげる秀親に、やりとりを聞いていた将士から一度に笑いが起きた。



 秀親の事例をみても、織田方の包囲は城内の兵糧を枯渇させるための徹底的な体制からは程遠いことが伺える。

 ただし、丹羽長秀らに与えられた任務は、佐和山城に磯野員昌を押し込めることであり、それ以上は求められていなかったと考えられる。

 森盛造とその配下が探りだしたところ、一つの陣地には入っているのは、それぞれ一五〇〇から二〇〇〇程度と推測されていた。

 数だけ見れば、員昌が全力で討って出れば、あるいは陣地を一つ攻め落とすことも不可能ではない。

 だが、もしそのような挙に出たならば、残る三つの陣地から沸きだした兵が、たちまちがら空きの佐和山城に攻め込むことになる。

 むしろ、員昌を誘い出すために計算された兵数と言える。

 員昌としては、包囲に焦れる思いはあっても、敵の思惑に乗るわけにはいかない。

 出来ることは、員昌自ら小勢を率い、夜討ちを仕掛ける程度である。

 土地勘があり、闇に沈む景色の中にあっても、わずかな目印をみつけて自分たちの位置を見失うことなく、神出鬼没な仕掛けができた。

 四つの陣地のうち、どこがもっとも油断し、手薄となっているかの見極めを、員昌は森盛造に託した。

 盛造は「元は浅井家に仕えた武士であったが、主君の怒りを買って致仕し、行商人に身をやつしている」との体裁で織田勢の陣に潜り込み、様々な情報を聞き取ってきた。

 盛造が行商人として売り込むのは、握り飯や餅などの食い物である。

 織田の足軽たちも、命を繋ぐ食い物を売りにくる男が、まさか敵方の乱波であるなどとは思わない。

 それでも米の入手経路を訝しむ者もいなくはなかった。

 しかし、盛造が半ば真実の経歴を語ったうえで、「武士だったころの縁で、籠城しているかつての同輩から兵糧米の横流しを受けている」と説明すれば、大笑いして喜びこそすれ、それ以上の疑いをかけることはなかった。

 果たして、時の流れは浅井と織田、どちらの味方なのか。

 攻め寄せてくる様子のない織田勢を眺めながら、員昌は先の見えない籠城戦の結末に思いを巡らせた。

 確実に一つ言えるのは、後詰がなければ、織田勢が先に音を上げない限り、佐和山城の包囲を打ち破る術はないことだ。

 だが浅井勢単独では横山城を奪い返し、佐和山城下まで兵を進めることは不可能である。

 動かせない現実を前に、員昌は苦慮する。

 救いがあるとすれば、兵の士気がやや過剰なまでに保たれていることぐらいである。

(耐えるしかないが、先が見えぬというのは苦しい)




 しかし一方で、信長も浅井攻めに兵力を集中できる状態ではなかった。

 佐和山城に籠る員昌らは、伝聞でしか外部の動きを知る術はないが、城の外では大きな戦況の変化が生じていた。

 七月二十七日、信長に京を追われて阿波に逃れた三好三人衆が、巻き返しを計って一万三千の兵を率いて海を渡り、石山本願寺の北、野田・福島砦に陣を据えたのだ。

 これに対応すべく、信長は横山城を守る木下秀吉、長光寺城の柴田勝家らの手勢から人数を抽出して軍勢を編成する。

 当然、佐和山城からも四方の付城に陣替えと思しき動きが望見された。

 場合によっては力攻めの準備である可能性もあり、俄かに佐和山城内も騒がしくなる。

 しかし、丹羽長秀が陣替えに際して隙が生じぬよう巧みな采配をみせたため、見張櫓から敵陣の動きを伺っていた員昌は、付け入る機会を見いだせなかった。

「付城の人数が多少減ったところで、後詰のあてがなければ付城を一つ、二つ攻め落としてみせても埒が明かぬわ。それにしても、奴等はいずこに向かうのやら」

 員昌は悔し紛れに、西へと転進する織田勢の人数を見送った。



 信長は、かき集めた四万の兵を率いて三好勢に対抗すべく摂津の天王寺に陣を構えた。

 しかし九月十二日になって、本願寺が反信長の旗幟を鮮明にして挙兵し、信長の陣に夜討ちをかけた。

 本願寺の門跡・顕如光佐は各地の門徒に仏敵・信長討伐の檄文を発しており、それは領内に多くの門徒を抱える浅井家にとっては朗報であった。

 さらに朗報は続く。
 姉川の合戦における損害を癒していた朝倉勢も、戦況の好転を察したのか、ようやく腰を上げたのだ。

 当主・朝倉義景自らが率いる朝倉勢二万が木目峠を越えた、と森盛造が知らせてきた。

 盛造は、敵陣にて物売りに扮して入り込んで行っていた調者働きの最中に、この重大情報をつかんできたのだ。
 員昌はすぐさま軍評定を開いた。

「一向宗を敵に回して、信長も尻に火が付きましたな。殿が朝倉勢と共に後詰に来るとなれば、討って出る算段を致さねば」
 勢いづく嶋秀淳ら家臣を前に、しかし上座に腰を据える員昌は浮かぬ顔であった。

 員昌はこれまで、幾度か小谷まで使者を立てて後詰を願ってきた。だが、情勢が許さないとして今まで色よい回答を得られていない。

 それ自体はやむを得ない面もあると理解しているが、員昌の心を傷つけるのは、長政の側からは一向に連絡を取ろうとして来ないことだ。

 織田勢による佐和山城の包囲は、闇に紛れてすり抜けられることは、嶋秀親の例があり、こちらから送り出している使者が小谷城まで無事に辿りついていることから把握できている筈である。

 もちろん、現時点では小谷城が使者も通さぬほどの厳重な包囲を受けている訳ではない。

 それなのに、なんら使者が派遣されないため、長政の心根が判らない。

(殿の立場からすれば、当てのない口約束をするのは無責任だと考えてのことやも知れぬが)
 それでも、激励する言葉だけでも届けてはもらえないのだろうか、と思う。

 自分はともかく、家臣に顔向けできない。

(いかんな、四方に敵を構えて、心が弱くなっておる。もっと前向きに物事を考えねば)
 員昌は気持ちを奮い立たせた。

「いずれにせよ、後詰があれば即座に対応せねばならぬ。遅れをとるでないぞ」
 そう、軍議を締めくくった。



 家臣が大広間から去り、員昌は寝所の前まで戻る。

 平時ならば美弥が出迎えるところだが、このところ、員昌は美弥と顔を合わす機会を減らしていた。

 家族と別れて籠城に加わっている者どものことを思えば、自分だけが家族水入らずの時を過ごすことが憚られたのだ。

 美弥も心得ていて、でしゃばるような真似はしない。

 ふと気づくと、森盛造が廊下の隅にうずくまるようにして控えていた。
「その方がようやってくれておるおかげで、我等も外の動きを知り、方策を立てられる。して、なんぞあったのか」

 いつもにもまして厳しい表情をしている盛造を部屋に入れつつ、向かい合って座った員昌は問うた。

「はっ。せっかく、殿にお褒めをいただいたのですが、どうも織田は我等を泳がせておる様子にござります」

「泳がせておる、とな。つまり、城外への行き来を見て見ぬふりをしておるということか」

「はっ。我が手の者がしくじり、陣地を見回っておった足軽の一隊に姿を見られたものの、さして追いかけられることもなく帰還できたと申しております」

 盛造の言葉に、員昌は思わずうなった。

「なるほど。いかにも、泳がせておるという訳じゃ。そちらの方が下手に捕らえるよりも都合がよい、ということか」

 城内に事実が広がれば広がるだけ、籠城を続ける意志が挫ける、そう思われている。

 それだけ情勢は織田に有利、浅井に不利ということなのか。
 員昌の顔に翳りが差した。
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