4 / 8
消えた魔法
しおりを挟む
私が辺境領行きの馬車に揺られている頃、王都の騎士団本部では小さな混乱が起きていたはずだ。
これまでカイルが「自分の手柄」として提出していた報告書の数々、予算の申請書類、そして部下たちへの細やかな指示書。それらはすべて、私が夜な夜な彼の書斎で、あるいは自分の職場の休憩時間に代筆していたものだった。
カイルは剣の腕こそ悪くないが、組織運営に必要な事務能力は絶望的に欠けている。
彼にとって、書類は「出せば勝手に受理される魔法の紙」のような認識だったのだろう。その魔法をかけていた魔法使いが、もうどこにもいないということに、彼はまだ気づいていない。
「……ふぅ。空気が美味しいわ」
数日後。辿り着いたのは、王都から遠く離れた北の辺境領。
ここは魔物こそ出るが、利権やしがらみとは無縁の開拓地だ。グレイヴ閣下の推薦状を持った私を、領主代行の青年は驚くほど快く迎え入れてくれた。
「君がリリア君か。閣下からは『稀代の事務能力を持つ、王都には勿体ない逸材』だと聞いているよ。早速だが、この山積みの未処理案件、頼めるかな?」
差し出された書類の束を見て、私は思わず笑みが溢れた。
誰かの顔色を窺うためではなく、自分の実力を発揮するために働く。これほど清々しいことが、これまでの人生にあっただろうか。
――その頃、王都。
「おい、カイル! どういうことだ、この報告書は!」
カイルは、上官の怒声に肩を震わせた。
目の前に叩きつけられたのは、彼が昨日、深夜までかかって(彼なりに一生懸命)書き上げた演習報告書だ。
「……何か、不備がありましたでしょうか。僕は誠実に向き合って書いたつもりですが」
「不備どころか、書式はバラバラ、数字の計算は合っていない、おまけに誤字脱字だらけだ! 今までは完璧だったのに、急にどうしたんだ!?」
「それは……」
今まではリリアが「カイル、これじゃ通らないわよ」と苦笑しながら、一晩で完璧に直してくれていたのだ。カイルはその過程を知らない。自分はただ、リリアに渡せば「清書」されて戻ってくるものだと思い込んでいた。
「すみません。少し、私生活でバタバタしておりまして……」
「私生活? ああ、あの親友の女と婚約者を捨てて一緒になったという話か。騎士の間でも噂になっているぞ。不誠実な奴だとな」
カイルの顔が屈辱に赤く染まった。
「……誤解です! 僕たちは、真実の愛に従っただけで、不誠実なことなど――」
「愛だか何だか知らんが、仕事に穴を開けるのは不誠実そのものだ。今日中に書き直せ! できなければ、次期の昇進は見送りだ!」
カイルはフラフラになりながら執務室を出た。
こんなはずではなかった。正直に告白して身を固めれば、世界は自分たちを応援してくれるはずだったのに。
重い足取りで「新居」に帰ると、そこにはさらに頭の痛い光景が待っていた。
「おかえりなさい、カイル様! ……あら、どうしたの? そんなに暗い顔をして」
ミーナが駆け寄ってくるが、部屋の中はひどい有り様だった。
洗濯物は溜まり、床には埃が落ちている。何より、リリアがいた頃のような、あの整然とした居心地の良さがどこにもない。
「ミーナ、掃除は……?」
「ごめんなさい、今日はリリアの職場に行っていたの。彼女、急に退職しちゃったみたいで、連絡も取れなくて。親友として、彼女の荷物を整理してあげようと思ったんだけど、拒否されちゃって……ひどいと思わない?」
ミーナはぷう、と頬を膨らませた。
「リリアがいなくなったせいで、この家の家賃も、来月の私のドレス代も困っているのよ。カイル様、なんとかして?」
「家賃……? ああ、リリアが払ってくれないのか……」
「そうよ! 彼女、自分の幸せしか考えていないんだわ。あんなに仲良くしてあげたのに、冷たいわよね」
二人は、当たり前のようにリリアの「不在」を責めた。
自分たちが彼女からすべてを奪ったという自覚はなく、ただ「自分たちの世話を焼くリリア」という便利な歯車が外れたことへの不満だけが募っていく。
「……大丈夫だよ、ミーナ。僕がなんとかする。リリアも、きっとそのうち頭が冷えたら、また謝りに来るはずだ」
「そうよね。私たちは何も悪いことしていないもの。真実の愛は、最後には勝つのよね」
二人は狭いリビングで抱き合い、互いの「正しさ」を確認し合う。
その足元で、リリアの名義で契約されていた水道やガスの「督促状」が、郵便受けから溢れ出していることにも気づかずに。
リリアがかけていた「快適な生活」という名の魔法。
それが解けた後の現実が、少しずつ、けれど確実に二人を飲み込もうとしていた。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
これまでカイルが「自分の手柄」として提出していた報告書の数々、予算の申請書類、そして部下たちへの細やかな指示書。それらはすべて、私が夜な夜な彼の書斎で、あるいは自分の職場の休憩時間に代筆していたものだった。
カイルは剣の腕こそ悪くないが、組織運営に必要な事務能力は絶望的に欠けている。
彼にとって、書類は「出せば勝手に受理される魔法の紙」のような認識だったのだろう。その魔法をかけていた魔法使いが、もうどこにもいないということに、彼はまだ気づいていない。
「……ふぅ。空気が美味しいわ」
数日後。辿り着いたのは、王都から遠く離れた北の辺境領。
ここは魔物こそ出るが、利権やしがらみとは無縁の開拓地だ。グレイヴ閣下の推薦状を持った私を、領主代行の青年は驚くほど快く迎え入れてくれた。
「君がリリア君か。閣下からは『稀代の事務能力を持つ、王都には勿体ない逸材』だと聞いているよ。早速だが、この山積みの未処理案件、頼めるかな?」
差し出された書類の束を見て、私は思わず笑みが溢れた。
誰かの顔色を窺うためではなく、自分の実力を発揮するために働く。これほど清々しいことが、これまでの人生にあっただろうか。
――その頃、王都。
「おい、カイル! どういうことだ、この報告書は!」
カイルは、上官の怒声に肩を震わせた。
目の前に叩きつけられたのは、彼が昨日、深夜までかかって(彼なりに一生懸命)書き上げた演習報告書だ。
「……何か、不備がありましたでしょうか。僕は誠実に向き合って書いたつもりですが」
「不備どころか、書式はバラバラ、数字の計算は合っていない、おまけに誤字脱字だらけだ! 今までは完璧だったのに、急にどうしたんだ!?」
「それは……」
今まではリリアが「カイル、これじゃ通らないわよ」と苦笑しながら、一晩で完璧に直してくれていたのだ。カイルはその過程を知らない。自分はただ、リリアに渡せば「清書」されて戻ってくるものだと思い込んでいた。
「すみません。少し、私生活でバタバタしておりまして……」
「私生活? ああ、あの親友の女と婚約者を捨てて一緒になったという話か。騎士の間でも噂になっているぞ。不誠実な奴だとな」
カイルの顔が屈辱に赤く染まった。
「……誤解です! 僕たちは、真実の愛に従っただけで、不誠実なことなど――」
「愛だか何だか知らんが、仕事に穴を開けるのは不誠実そのものだ。今日中に書き直せ! できなければ、次期の昇進は見送りだ!」
カイルはフラフラになりながら執務室を出た。
こんなはずではなかった。正直に告白して身を固めれば、世界は自分たちを応援してくれるはずだったのに。
重い足取りで「新居」に帰ると、そこにはさらに頭の痛い光景が待っていた。
「おかえりなさい、カイル様! ……あら、どうしたの? そんなに暗い顔をして」
ミーナが駆け寄ってくるが、部屋の中はひどい有り様だった。
洗濯物は溜まり、床には埃が落ちている。何より、リリアがいた頃のような、あの整然とした居心地の良さがどこにもない。
「ミーナ、掃除は……?」
「ごめんなさい、今日はリリアの職場に行っていたの。彼女、急に退職しちゃったみたいで、連絡も取れなくて。親友として、彼女の荷物を整理してあげようと思ったんだけど、拒否されちゃって……ひどいと思わない?」
ミーナはぷう、と頬を膨らませた。
「リリアがいなくなったせいで、この家の家賃も、来月の私のドレス代も困っているのよ。カイル様、なんとかして?」
「家賃……? ああ、リリアが払ってくれないのか……」
「そうよ! 彼女、自分の幸せしか考えていないんだわ。あんなに仲良くしてあげたのに、冷たいわよね」
二人は、当たり前のようにリリアの「不在」を責めた。
自分たちが彼女からすべてを奪ったという自覚はなく、ただ「自分たちの世話を焼くリリア」という便利な歯車が外れたことへの不満だけが募っていく。
「……大丈夫だよ、ミーナ。僕がなんとかする。リリアも、きっとそのうち頭が冷えたら、また謝りに来るはずだ」
「そうよね。私たちは何も悪いことしていないもの。真実の愛は、最後には勝つのよね」
二人は狭いリビングで抱き合い、互いの「正しさ」を確認し合う。
その足元で、リリアの名義で契約されていた水道やガスの「督促状」が、郵便受けから溢れ出していることにも気づかずに。
リリアがかけていた「快適な生活」という名の魔法。
それが解けた後の現実が、少しずつ、けれど確実に二人を飲み込もうとしていた。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
667
あなたにおすすめの小説
一年だけの夫婦でも私は幸せでした。
クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。
フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。
フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。
更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
偽聖女の義妹から全て取り戻します。皆様覚悟してくださいね。今まで受けた仕打ちは倍にしてお返し致します。
くろねこ
恋愛
「殴られても、奪われても、祈れば治るから大丈夫」
――そう思い込まされて育った公爵令嬢オリビア。
しかし、偽聖女を名乗る義妹に階段から突き落とされた瞬間、
彼女の中で“何か”が完全に目覚める。
奪われた聖女の立場。
踏みにじられた尊厳。
見て見ぬふりをした家族と神殿。
――もう、我慢はしない。
大地そのものに影響を与える本物の加護を持つオリビアは、知略と魔法で屋敷を制圧し、偽りを一つずつ洗い流していく。
敵意を向けた者は近づけず、逆らった義母は“環境”に叱られ、王太子は腹を抱えて大笑い。
「奪われたなら、取り戻すだけです。倍……いえ、一万倍で」
これは、偽りの聖女からすべてを奪い返し、本物が“正しい場所”に立つ物語。
ざまぁ好き必読。
静かに、確実に、格の違いを見せつけます。
♦︎タイトル変えました。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
虐げられた新妻は義理の家族への復讐を決意する
ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のリーゼは公爵家の当主であるウィルベルトに嫁ぐこととなった。
しかしウィルベルトには愛する恋人がおり、リーゼのせいで離れ離れになったのだという。
おかげで夫からは憎まれ、義理の両親や使用人たちからもぞんざいに扱われる日々。
居場所の無くなった公爵邸でリーゼは自身と同じ境遇に置かれているある人物と出会う。
彼と出会い、互いに惹かれていくうちにリーゼは夫や義理の両親たちへの復讐を誓う。
婚約者の幼馴染?それが何か?
仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた
「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」
目の前にいる私の事はガン無視である
「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」
リカルドにそう言われたマリサは
「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」
ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・
「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。
ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。
そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。
娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。
それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。
婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。
リリスは平民として第二の人生を歩み始める。
全8話。完結まで執筆済みです。
この作品は小説家になろう様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる