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無能という名の、最強の盾
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「お姉様、そのリボンも私にくださる?」
異母妹のセシリアは、無邪気な笑みを浮かべてわたくしの髪に手をかけました。
それは、侯爵家嫡男であるルシアンお兄様が、わたくしが余計な嫉妬を買わぬようにと、公の贈り物ではなく、「個人的な贈り物」として選んでくれた、控えめな麻のリボンでした。
「……あ、これ、おにーたんが……」
わたくしがわざとらしく声を震わせると、セシリアの瞳に嗜虐的な悦びが宿るのが分かりました。
「お姉様には、そんな野暮ったい色は似合いませんわ。わたくしが代わりに処分してあげます。ね?」
ブチリ、と乱暴にリボンが引き抜かれ、わたくしの髪がバラリと肩に落ちます。セシリアはそれを手に入れると、わざとらしくわたくしの目の前で足蹴にし、泥で汚してからゴミ箱へ捨てました。
「あら、手が滑ってしまいましたわ。うふふ、お姉様、泣かないで? 代わりにわたくしの使い古しの端切れを差し上げますから」
そう言って投げつけられたのは、セシリアのドレスを仕立てた際に出た、本当の端切れでした。
『ひっひっひ! いいねぇ、実に醜い。アニエス、今のあんたの顔、最高に「可哀想な被害者」に見えてるよ』
頭の中のおねえちゃんの声が、愉快そうに弾みます。
わたくしは俯き、肩を震わせて、小さな声で「ありがとう、セシリアちゃん……」と呟きました。
セシリアが満足げに部屋を出ていくと、わたくしはすぐに顔を上げ、無表情で膝についた埃を払いました。
「……おねえちゃん、リボン、もったいなかったかな?」
『バカを言いな。あんな安物の麻布一枚で、あの小娘の慢心を買えるなら安いもんさ。あんたが抵抗すればするほど、あいつは警戒する。でも、こうして「何でも奪える無能」だと思い込ませておけば、あいつはあんたの足元に広がる巨大な穴に気づかずに踊り続けるのさ』
おねえちゃんの言う通りです。セシリアに奪わせれば奪わせるほど、父上や義母様、そして屋敷の使用人たちの目はわたくしから逸れていきます。
「離宮のネズミは、セシリア様に怯えるだけの無害な無能」
その評価こそが、わたくしにとって最大の盾となるのです。
わたくしは、床下に隠した銀貨を取り出し、そっと撫でました。
「セシリアちゃん。わたくしのリボンを捨てたこと、忘れないでね。いつか……その何万倍もの価値があるあなたの『地位』を、わたくしが同じように捨ててあげるから」
それから数日後。わたくしはルシアンお兄様との秘密の勉強会に臨んでいました。場所は離宮の裏にある、古びた温室。ここなら、お父様の厳しい監視の目も届きません。
「……アニエス。またリボンを失くしたのかい? セシリアが何かしたなら、僕に言って……」
お兄様は、わたくしの乱れた髪を見て、胸を痛めるように顔を曇らせました。
わたくしは、にへらっと間抜けな笑みを浮かべます。
「ううん、おにーたん。わたくしがドジして、お外で落としちゃったの。ごめんね?」
「そうか……。いや、いいんだ。また今度、もっと素敵なものを贈るよ」
お兄様はわたくしの頭を優しく撫でると、持ってきた教科書を開きました。
十一歳のお兄様が学んでいるのは、高等教育の内容である「多国間貿易と関税の歴史」。
「今日は少し難しいけど、僕が読んであげるから、アニエスは聞いてるだけでいいよ」
お兄様はわたくしを「守るべきいたいけな妹」だと思っています。だから、わたくしはあくびを噛み殺しながら、たどたどしい口調で質問を投げかけました。
「ねぇ、おにーたん。この『かんじぇい』っていうのは、おカネを払わないとお国を通り抜けられない魔法なの?」
「はは、魔法じゃないよ。でも、似たようなものだね。これがあるから、自分の国で作ったものが守られるんだ」
お兄様が一生懸命説明してくれるのを、わたくしは「ふーん」と聞き流すふりをしながら、頭の中で妖精のアドバイスと照らし合わせていました。
『アニエス、お兄ちゃんの言ってることは教科書通りだけど、甘いね。隣国のサリア王国が最近、港の整備を始めた理由を考えな。五年後にはこの関税率は、ただの「障壁」じゃなくて「自爆スイッチ」に変わるよ』
わたくしはお兄様に気づかれないよう、心の中で深く頷きます。そして、わざとらしく教科書の数字を指差しました。
「でもぉ、おにーたん。ここに書いてある計算、わたくしのキノコさんよりヘンだよ? こっちを多くしたら、おカネが逃げちゃう気がするの」
「え……? ああ、それは、過去の統計に基づいた数値だから……。でも、待てよ。アニエスが言うように、もし隣国の流通が変わったら……?」
ルシアン様が、ハッとしたように計算書を凝視しました。
お兄様は優秀です。わたくしが投げた「幼児の勘違いという名の正解」を、すぐに拾い上げ、検討し始める。
「アニエス……君は、もしかして天才なんじゃないか?」
「えへへ、わかんなーい! おにーたん、おなかしゅいた!」
わたくしがはしゃいで見せると、お兄様は「そうだね、ごめん。僕の考えすぎだ」と笑って、隠し持ってきた焼き菓子を差し出してくれました。
お兄様を助けたい。でも、わたくしが「天才」だとバレれば、お父様はわたくしを政略結婚の道具として、もっと早くに売ってしまうでしょう。
『奪わせておけば、後で倍返しできる』という確信。その黒い愉悦を胸に、わたくしは今日も一番大切な知性を『無能』という名の箱に隠して、にっこりと微笑むのでした。
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異母妹のセシリアは、無邪気な笑みを浮かべてわたくしの髪に手をかけました。
それは、侯爵家嫡男であるルシアンお兄様が、わたくしが余計な嫉妬を買わぬようにと、公の贈り物ではなく、「個人的な贈り物」として選んでくれた、控えめな麻のリボンでした。
「……あ、これ、おにーたんが……」
わたくしがわざとらしく声を震わせると、セシリアの瞳に嗜虐的な悦びが宿るのが分かりました。
「お姉様には、そんな野暮ったい色は似合いませんわ。わたくしが代わりに処分してあげます。ね?」
ブチリ、と乱暴にリボンが引き抜かれ、わたくしの髪がバラリと肩に落ちます。セシリアはそれを手に入れると、わざとらしくわたくしの目の前で足蹴にし、泥で汚してからゴミ箱へ捨てました。
「あら、手が滑ってしまいましたわ。うふふ、お姉様、泣かないで? 代わりにわたくしの使い古しの端切れを差し上げますから」
そう言って投げつけられたのは、セシリアのドレスを仕立てた際に出た、本当の端切れでした。
『ひっひっひ! いいねぇ、実に醜い。アニエス、今のあんたの顔、最高に「可哀想な被害者」に見えてるよ』
頭の中のおねえちゃんの声が、愉快そうに弾みます。
わたくしは俯き、肩を震わせて、小さな声で「ありがとう、セシリアちゃん……」と呟きました。
セシリアが満足げに部屋を出ていくと、わたくしはすぐに顔を上げ、無表情で膝についた埃を払いました。
「……おねえちゃん、リボン、もったいなかったかな?」
『バカを言いな。あんな安物の麻布一枚で、あの小娘の慢心を買えるなら安いもんさ。あんたが抵抗すればするほど、あいつは警戒する。でも、こうして「何でも奪える無能」だと思い込ませておけば、あいつはあんたの足元に広がる巨大な穴に気づかずに踊り続けるのさ』
おねえちゃんの言う通りです。セシリアに奪わせれば奪わせるほど、父上や義母様、そして屋敷の使用人たちの目はわたくしから逸れていきます。
「離宮のネズミは、セシリア様に怯えるだけの無害な無能」
その評価こそが、わたくしにとって最大の盾となるのです。
わたくしは、床下に隠した銀貨を取り出し、そっと撫でました。
「セシリアちゃん。わたくしのリボンを捨てたこと、忘れないでね。いつか……その何万倍もの価値があるあなたの『地位』を、わたくしが同じように捨ててあげるから」
それから数日後。わたくしはルシアンお兄様との秘密の勉強会に臨んでいました。場所は離宮の裏にある、古びた温室。ここなら、お父様の厳しい監視の目も届きません。
「……アニエス。またリボンを失くしたのかい? セシリアが何かしたなら、僕に言って……」
お兄様は、わたくしの乱れた髪を見て、胸を痛めるように顔を曇らせました。
わたくしは、にへらっと間抜けな笑みを浮かべます。
「ううん、おにーたん。わたくしがドジして、お外で落としちゃったの。ごめんね?」
「そうか……。いや、いいんだ。また今度、もっと素敵なものを贈るよ」
お兄様はわたくしの頭を優しく撫でると、持ってきた教科書を開きました。
十一歳のお兄様が学んでいるのは、高等教育の内容である「多国間貿易と関税の歴史」。
「今日は少し難しいけど、僕が読んであげるから、アニエスは聞いてるだけでいいよ」
お兄様はわたくしを「守るべきいたいけな妹」だと思っています。だから、わたくしはあくびを噛み殺しながら、たどたどしい口調で質問を投げかけました。
「ねぇ、おにーたん。この『かんじぇい』っていうのは、おカネを払わないとお国を通り抜けられない魔法なの?」
「はは、魔法じゃないよ。でも、似たようなものだね。これがあるから、自分の国で作ったものが守られるんだ」
お兄様が一生懸命説明してくれるのを、わたくしは「ふーん」と聞き流すふりをしながら、頭の中で妖精のアドバイスと照らし合わせていました。
『アニエス、お兄ちゃんの言ってることは教科書通りだけど、甘いね。隣国のサリア王国が最近、港の整備を始めた理由を考えな。五年後にはこの関税率は、ただの「障壁」じゃなくて「自爆スイッチ」に変わるよ』
わたくしはお兄様に気づかれないよう、心の中で深く頷きます。そして、わざとらしく教科書の数字を指差しました。
「でもぉ、おにーたん。ここに書いてある計算、わたくしのキノコさんよりヘンだよ? こっちを多くしたら、おカネが逃げちゃう気がするの」
「え……? ああ、それは、過去の統計に基づいた数値だから……。でも、待てよ。アニエスが言うように、もし隣国の流通が変わったら……?」
ルシアン様が、ハッとしたように計算書を凝視しました。
お兄様は優秀です。わたくしが投げた「幼児の勘違いという名の正解」を、すぐに拾い上げ、検討し始める。
「アニエス……君は、もしかして天才なんじゃないか?」
「えへへ、わかんなーい! おにーたん、おなかしゅいた!」
わたくしがはしゃいで見せると、お兄様は「そうだね、ごめん。僕の考えすぎだ」と笑って、隠し持ってきた焼き菓子を差し出してくれました。
お兄様を助けたい。でも、わたくしが「天才」だとバレれば、お父様はわたくしを政略結婚の道具として、もっと早くに売ってしまうでしょう。
『奪わせておけば、後で倍返しできる』という確信。その黒い愉悦を胸に、わたくしは今日も一番大切な知性を『無能』という名の箱に隠して、にっこりと微笑むのでした。
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