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債務の檻と、救いの手
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「……お義母様、お顔色が真っ青ですわ。おカネの精霊さんが、怒って帰ってしまったのかしら?」
わたくしは、本館の執務室の扉の影から、そっと中を覗き込みました。部屋の中では、お父様の怒号が雷のように鳴り響いています。
「どういうことだと言っているんだ、エルザ! 王都の商会から、返品と違約金の請求書が山のように届いているぞ!『スノーウール』は最高級の生地ではなかったのか!?」
「そ、それは……わたくしも分かりませんわ! 誰かが毒でも混ぜたに違いありません……っ!」
お義母様は、お父様の足元で震えながら泣き叫んでいました。
かつての傲慢な姿はどこへやら、その手には、ボロボロに溶け崩れたドレスの残骸が握られています。
『ひっひっひ! いい気味だねぇ。アニエス、見てごらん。あの請求書の束……合計で五百万リラは下らないよ。侯爵様が大切に溜め込んでいた予備費も、これで一気に吹き飛ぶね』
五百万リラ。それは、普通の貴族が一生遊んで暮らせるほどの額であり、今の侯爵家にとっては「致命傷」に近い数字です。お父様はプライドが高い一方で、実利に敏い男。家族の不始末で資産が削られることを、何よりも嫌います。
「エルザ。お前には失望した。この損害、お前の実家に補填させるか、さもなくば……」
「そ、それだけは! 実家も今は余裕がございません……!」
お父様の手が、お義母様の細い首にかかりそうなほど険しく振り上げられました。
……ここです!
わたくしは、おねえちゃんから教わった「最高のタイミング」で、あどけない声を響かせました。
「……お父様、お義母様。そんなに怒らないで?」
「アニエスか。下がっていろ、今はそれどころではない!」
「でもぉ、わたくし、そのおカネのこと……ちょっとだけ、お助けできるかもしれません」
お父様の動きが、止まりました。氷のような冷たい視線が、七歳の小さなわたくしに向けられます。
「……助けるだと? お前のような子供が、数百万リラの話に口を挟むな」
「わたくし、お庭で遊んでいたら、『ふしぎな袋』を見つけたの。……ルシアンお兄様がお勉強で使わなくなった古い倉庫の中に、キラキラしたおカネがいっぱい詰まってたの」
わたくしは、テオたちに運ばせておいた、重たい麻袋を一つ、引きずるようにして部屋に持ち込みました。
袋の口が開き、中から溢れ出したのは――。本物の金貨と、大量の銀貨でした。
「なっ……これは、どういうことだ……!?」
お父様が絶句し、お義母様が這いつくばって金貨に手を伸ばそうとします。
もちろん、これはお義母様が贅沢に溺れている間に、わたくしが裏の商会で稼ぎ出し、「倉庫の肥やし」として偽装して隠しておいた資産の一部です。
「このおカネ、お父様にあげる。……その代わり、わたくしと『お約束』してほしいの」
わたくしはお父様の膝にしがみつき、上目遣いで微笑みました。
「お約束……だと?」
「うん。一つ目は、このおカネでお義母様の失敗を許してあげること。二つ目は……ルシアンお兄様の婚約を、これからはルシアンお兄様が自分で選べるようにしてあげること。……いい?」
お父様は、金貨の山とわたくしの顔を交互に見て、深く息を吐きました。
彼にとって、わたくしがどこでこのカネを手に入れたかよりも、目の前の「五百万リラの負債」が消えることの方が、はるかに重要だったのです。
「……よかろう。ルシアンの件は、当面保留とする。エルザ、今回だけはアニエスに免じて許してやる。だが、二度目はないと思え」
お義母様は「ありがとうございます……! アニエス、ありがとう……っ!」とわたくしの手を握り締めました。その手は、恐怖でガタガタと震えていました。
『……完璧だね、アニエス。これでお父様は「アニエスは幸運を運んでくる福の神」だと認識した。そして義母様は、あんたがいなければ自分は破滅していたと、骨の髄まで叩き込まれたわけだ』
「……ふふ。お義母様、おカネで命が買えて、よかったね」
わたくしは、義母様の耳元で、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁きました。
お義母様は、わたくしの瞳に宿る「何か」に気づき、悲鳴を上げそうになって口を塞ぎました。
彼女はもう、二度とわたくしに逆らえません。わたくしは彼女を救った恩人であり、同時に、いつでも彼女を地獄へ突き落とせる怪物になったのですから。
その夜。離宮の窓辺で、わたくしはルシアンお兄様と夜空を見上げていました。
「アニエス……君が、僕のためにあんな大金をお父様に差し出したなんて。……ごめん。僕は兄なのに、君に守られてばかりだ」
「ううん。わたくし、お兄様の笑顔が見られれば、おカネなんていくらでもいらないもん」
わたくしは嘘をつきました。おカネは、とっても大切です。
でも、おカネを使って「大切な人の未来」を買い取ることは、もっともっと刺激的で、楽しいことなのだと知ってしまったのです。
『さあ、幼少期の幕引きだね、アニエス。……ここからは、もっと大きな海に出るよ。あんたが蓄えたこの資産を、王都すべての胃袋と財布に繋げてやるんだ』
「……うん。おねえちゃん、わたくし、もっともっと悪い子になるね」
わたくしは、手元に残った最後の一枚の銀貨を空へ放り投げ、キャッチしました。
アニエス・クロワ侯爵令嬢、七歳。彼女の「守銭奴令嬢」としての伝説は、この日、家族を支配した瞬間から、真の意味で始まったのです。
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わたくしは、本館の執務室の扉の影から、そっと中を覗き込みました。部屋の中では、お父様の怒号が雷のように鳴り響いています。
「どういうことだと言っているんだ、エルザ! 王都の商会から、返品と違約金の請求書が山のように届いているぞ!『スノーウール』は最高級の生地ではなかったのか!?」
「そ、それは……わたくしも分かりませんわ! 誰かが毒でも混ぜたに違いありません……っ!」
お義母様は、お父様の足元で震えながら泣き叫んでいました。
かつての傲慢な姿はどこへやら、その手には、ボロボロに溶け崩れたドレスの残骸が握られています。
『ひっひっひ! いい気味だねぇ。アニエス、見てごらん。あの請求書の束……合計で五百万リラは下らないよ。侯爵様が大切に溜め込んでいた予備費も、これで一気に吹き飛ぶね』
五百万リラ。それは、普通の貴族が一生遊んで暮らせるほどの額であり、今の侯爵家にとっては「致命傷」に近い数字です。お父様はプライドが高い一方で、実利に敏い男。家族の不始末で資産が削られることを、何よりも嫌います。
「エルザ。お前には失望した。この損害、お前の実家に補填させるか、さもなくば……」
「そ、それだけは! 実家も今は余裕がございません……!」
お父様の手が、お義母様の細い首にかかりそうなほど険しく振り上げられました。
……ここです!
わたくしは、おねえちゃんから教わった「最高のタイミング」で、あどけない声を響かせました。
「……お父様、お義母様。そんなに怒らないで?」
「アニエスか。下がっていろ、今はそれどころではない!」
「でもぉ、わたくし、そのおカネのこと……ちょっとだけ、お助けできるかもしれません」
お父様の動きが、止まりました。氷のような冷たい視線が、七歳の小さなわたくしに向けられます。
「……助けるだと? お前のような子供が、数百万リラの話に口を挟むな」
「わたくし、お庭で遊んでいたら、『ふしぎな袋』を見つけたの。……ルシアンお兄様がお勉強で使わなくなった古い倉庫の中に、キラキラしたおカネがいっぱい詰まってたの」
わたくしは、テオたちに運ばせておいた、重たい麻袋を一つ、引きずるようにして部屋に持ち込みました。
袋の口が開き、中から溢れ出したのは――。本物の金貨と、大量の銀貨でした。
「なっ……これは、どういうことだ……!?」
お父様が絶句し、お義母様が這いつくばって金貨に手を伸ばそうとします。
もちろん、これはお義母様が贅沢に溺れている間に、わたくしが裏の商会で稼ぎ出し、「倉庫の肥やし」として偽装して隠しておいた資産の一部です。
「このおカネ、お父様にあげる。……その代わり、わたくしと『お約束』してほしいの」
わたくしはお父様の膝にしがみつき、上目遣いで微笑みました。
「お約束……だと?」
「うん。一つ目は、このおカネでお義母様の失敗を許してあげること。二つ目は……ルシアンお兄様の婚約を、これからはルシアンお兄様が自分で選べるようにしてあげること。……いい?」
お父様は、金貨の山とわたくしの顔を交互に見て、深く息を吐きました。
彼にとって、わたくしがどこでこのカネを手に入れたかよりも、目の前の「五百万リラの負債」が消えることの方が、はるかに重要だったのです。
「……よかろう。ルシアンの件は、当面保留とする。エルザ、今回だけはアニエスに免じて許してやる。だが、二度目はないと思え」
お義母様は「ありがとうございます……! アニエス、ありがとう……っ!」とわたくしの手を握り締めました。その手は、恐怖でガタガタと震えていました。
『……完璧だね、アニエス。これでお父様は「アニエスは幸運を運んでくる福の神」だと認識した。そして義母様は、あんたがいなければ自分は破滅していたと、骨の髄まで叩き込まれたわけだ』
「……ふふ。お義母様、おカネで命が買えて、よかったね」
わたくしは、義母様の耳元で、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁きました。
お義母様は、わたくしの瞳に宿る「何か」に気づき、悲鳴を上げそうになって口を塞ぎました。
彼女はもう、二度とわたくしに逆らえません。わたくしは彼女を救った恩人であり、同時に、いつでも彼女を地獄へ突き落とせる怪物になったのですから。
その夜。離宮の窓辺で、わたくしはルシアンお兄様と夜空を見上げていました。
「アニエス……君が、僕のためにあんな大金をお父様に差し出したなんて。……ごめん。僕は兄なのに、君に守られてばかりだ」
「ううん。わたくし、お兄様の笑顔が見られれば、おカネなんていくらでもいらないもん」
わたくしは嘘をつきました。おカネは、とっても大切です。
でも、おカネを使って「大切な人の未来」を買い取ることは、もっともっと刺激的で、楽しいことなのだと知ってしまったのです。
『さあ、幼少期の幕引きだね、アニエス。……ここからは、もっと大きな海に出るよ。あんたが蓄えたこの資産を、王都すべての胃袋と財布に繋げてやるんだ』
「……うん。おねえちゃん、わたくし、もっともっと悪い子になるね」
わたくしは、手元に残った最後の一枚の銀貨を空へ放り投げ、キャッチしました。
アニエス・クロワ侯爵令嬢、七歳。彼女の「守銭奴令嬢」としての伝説は、この日、家族を支配した瞬間から、真の意味で始まったのです。
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