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5 笑われる

32 リグダミス

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「盛り上がっているところすまないが、来客だ」
 イチゴがそう言うと同時に、入口のドアについている鈴の音が店内に鳴り響く。涼しげな音で、普段ならば何とも思わないような音であるが、こと今回に限っては驚いた。――なるはずがない音だからだ。

 初めてこの店を訪れた時からあまり人の入りがいい店ではなかったが、『close』の札が掛けられている時は、誰ひとりとして入ってくるはずがない。その札は店が開いていないことを意味しているのだから。それなのに、来客があるということは、現状から考えてもいい物であるとは到底思えない。
 しかし、僕はドアの向こう側から入ってきた男を見て内心ほっとした。
 別にスーツを着た紳士が、僕の良い知り合いだったとかそういうわけではない。彼が犬種の獣人だったからだ。そんな彼は、頭に黒いハットをかぶり、手にはこじゃれたステッキを握りしめている。歳は4・50と言ったところだろう、少なくとも20代でないことは確かだ。それはハットの下から伸びる白髪や、顔のほうれい線を見ればわかる。

「イザベラ……」
 男はいかにも親しげにイチゴをファーストネームで呼んだ。
 この店を訪れた客たちは皆、彼女を『イチゴ』というあだ名で呼んでいるし、僕達だってそうだ。それなのに、彼は本名を口にした。それだけでただならぬ関係だということは察せる。
 だが、その男は、ほんの少しだけ僕とメリーの方に敵意のような視線を見せたような気がした。あまりにも一瞬だったので、もしかしたら勘違いかもしれない。

「気安く呼ぶな……私とお前はそんな仲じゃないだろう?」
 イチゴは明らかに敵意をむき出しにしている。
 残念ながら彼女の仲間や友人というわけではないらしい。だとするなら、彼の正体はおおよそ見当がつく。犬種でありながら高そうなスーツを身にまとい、僕や妹を嫌悪する男。本当ならそれだけで正体はわかったはずだ。
 だが犬種である男を敵視することは僕には出来なかった。たとえ、相手が犬種差別を生み出したリグダミス・ロットワイラーだとしても。

「ああ、私だってイザベラなんかに会いたくはなかったのだがな……」
「だったら何しに来た。ロットワイラー」
 リグダミス・ロットワイラー。貴族の中でも最上位に当たる大公で、実質、裏の王だ。そんな男が、護衛もつけずにこのような場所を訪れる理由はただ一つだろう。

「妹に何の用だ?」
「はあ……これだから犬っころは嫌いなんだ。主人に対する絶対的な忠誠を疑うこともなくまっとうする。それは素晴らしいことだ。まあ私は御免こうむるがね……ともかく、主人の危機となれば誰彼かまわずかみつく。そんなだから犬は嫌われるんだよ」
 僕の問いかけに対して、笑って冗談めかしくそう返してきたものの、目はまるで笑っていない。冗談ではなく、本気でそう思っているのだろう。まるで犬嫌いの人間が言いそうなことをいう。

「僕に主人はいないし、犬種には忠義というものは存在しないと思いけどな」
「ああ、勘違いしてくれるな。別に私は犬種の獣人全体に対してそう思っているわけじゃない。犬のように愚かな君に対して言っているだけだ」
 葉はどう考えても不自然でならない。
 この世界には『犬種の獣人』はいても、『犬』は存在しない。故に、人間性を強く持つ『犬種の獣人』に対する侮蔑の言葉として、忠誠心を揶揄するのは不自然なのだ。だがそれは、転生者である僕だからこそ気がつけたことだろう。
 現にイチゴもメリーも、彼の言葉に違和感があるようなそぶりは見せていない。

「なるほど、つまりあんたが嫌いなのは犬種ではなく、犬そのものなんだな?」
「愚鈍な犬にしては理解が早くて助かるよ。私の言葉を理解できない愚鈍な女神とは違ってね」
 犬を知っていて、女神に会ったことがある。彼はそう言っているも同然だ。信じがたいことではあるが、それは彼が転生者であるという可能性を高めている。それも犬嫌いの転生者だ。僕と正反対な性質上、対立は避けられないだろう。
 そうなると、僕のもともと少なかったアドバンテージはなくなったも同然だ。むしろ、僕と同じ条件で転生したというのであれば、僕よりも彼、リグダミスの方がかなり有利な戦いになることだろう。もし仮に、敵対することがなかったならば、彼ほど頼もしい存在はいないだろう。転生者としては先輩にあたるわけだからね。
 ともかく、女神様という存在は、とことん僕のことが嫌いみたいだ。次から次へと試練を与えてくれる。――いや、試練を与えてくれるということは、愛されているととるべきなのかな?

「なるほど、かわいい子には旅をさせろってことですか……」
 他の3人には聞こえないぐらいに小さな声でひとり言をこぼし、僕はリグダミスを睨みつける。
 それに気が付いてリグダミスは鋭い眼光をこちらに向けた。
「不敬な……犬ごときが私にそのような目を向けるとは……」

 彼は完全に僕のことを犬として扱うつもりらしい。
 元来犬になりたかった僕だ。もちろん犬扱いされることは光栄だし、ありがたいことだとも思う。だが犬をバカにすることだけは絶対に許せない。

「どんな事情があるのかは知らないけど、犬を卑下するのはやめてもらいたい。やめないのなら」
「どうするというのかね?」
「どうもしない。今の僕じゃ力でも権力でも勝てそうにないからな」
「なるほど、思っていたよりは聡いようだ。やはり、タダの犬種ではないということか?」
 リグダミスは怪しい笑みを浮かべると、何度かうなずいて、僕の方に迫る。
「ケン、だった……その名前は犬を感じさせるから覚えたくはなかったが、覚えておこう。いつかは消す時が来るかもしれないからな」
 僕の顔を覗き込むように睨みつけて、殺気のこもった声で囁いた。

「名前にこだわりとかないし」
 ひしひしと伝わる殺気に、内心では震えながらも僕は皮肉で返した。
 リグダミスは僕からゆっくりと顔をひくと、笑顔を浮かべながら言う。

「ふっ、ガキが……なめてると殺すぞ?」
 満面の笑みを浮かべてはいるものの、目は笑っていない。それどころか、ほんの一瞬だけ黒い感情が彼のからだ中からあふれ出したような錯覚すら感じた。
 あれは貴族が出すようなものではない。死になれた暗殺者が放ちそうな殺気だ。いやそれすらもふさわしい表現とはいいがたい。いうなれば、野生の殺気。純粋な殺意が目に見えたと錯覚できるほどに強く表れていたのだと思う。
 最初の殺意には何とか耐えられたものの、今度は耐えられなかった。
 憎まれ口をたたこうにも口は開かないし、距離を取ろうにも足は動かない。からだ中からは汗が吹き出し、脳は今すぐに逃げ出すことを命令する。それなのに、体は死を悟ったようにまったくこれっぽっちも動きそうにない。まるで金縛りにでもあったかのようだ。
 考えたくはなかったが、冒険者である僕は、ただの貴族である男にはるかに劣っているらしい。

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