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11 魔法の言葉

154 喜怒哀楽

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「あれ? 痛くない?」

 ケントニスの手が、僕の頬に触れた感覚はあった。
 だけどそれは痛みをもたらすようなものではなく、優しく痛みを包み込むような慈悲に満ちたものだ。

「恐怖は克服できるものじゃない。受け入れるものだよ」

 ケントニスの口調がいつも通りに戻る。すると、ずっと感じていた冷たさが消え、僕の心から恐怖がなくなった。

「あったかい……」

 僕の両頬に触れていたのはケントニスのっ両手の平だ。
 何が起こってそうなったのかはわからないが、どうやらもう痛みを味あわせられることはないらしい。それを理解して、緊張の糸が一気に切れて僕は膝から崩れ落ちる。
 膝から崩れ落ちた僕の頭をケントニスが優しくなでた。

「頑張ったね」

 中身は既に大人な僕だったが、実のところ、そんな風に褒められるのは初めての経験だ。
 だからだろうか、どうしてか目頭が熱くなった。
 そんな僕を慰めるように、ケントニスの手の平が僕の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「魔法使いが命を落とす一番の理由が、大きな恐怖に飲み込まれることなんだよ! だからね、誰も魔法使いに慣れないんだ。だって、誰も恐怖を克服することなんて出来ないからね!」

 恐怖を克服できないんだったら、今日の訓練は一体なんだったんだと怒りすら湧いてくるが……たぶんそう言う事なんだろう。
 ケントニスは、無言でいる僕に続けて話す。

「『恐怖を受け入れること』はとても難しいことなんだ。特に短期間で、その段階に持っていくにはかなりむちゃしなくちゃいけなかったんだ……ごめんね」

『ごめんね』と、口にしたケントニスの表情は今にも泣き出しそうなものだった。
 今までの彼女を見てきた僕としては、今の彼女は最初に会った時と近い感じだが、それにしては悲壮感が漂っている気がする。
 それに、謝られている理由がいまいちぴんと来ない。恐怖心を与えたことを言っているのなら、それは訓練なのだから仕方ないことだ。

「そ、そうなんですか……」

 それにしても尋常じゃないぐらい疲れた。
 訓練でこれほど疲れていたら、実戦なんて無理だ。まだ、『言葉の魔法』の本質を学んだというわけでもないのに、これほどの疲労感があっては先が思いやられる。

「そうなんだ。でもいい知らせもあるよ……ようやく、楽しい魔法について教えられる」

 悲しそうな顔つきから一転、喜びに満ち溢れたような笑顔を僕に向けるケントニス。
 怒ったり、悲しんだり、喜んだり、楽しんだりと、忙しい人だ。

 それにしても、『ようやく、魔法について教えられる』か……それじゃあまるで、今まで魔法について何も教えてないみたいじゃないか。



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