『チート作家の異世界執筆録 〜今日も原稿と畑で世界を綴る〜』

第18話 ミランダの夜更け、ひと皿の記憶

　星が瞬くような深い夜の筆の家。昼間の喧騒が嘘のように、すべてのランプが消えた客席には、ひんやりとした静寂だけが広がっていた。逆さに伏せられテーブルに乗せられた椅子の脚が行儀よく並び、調理台の鍋もやかんも、今日の役目を終えてきれいにしまわれている。営業の幕が閉じられた厨房に、ただひとつだけ、ミランダの作る料理のように温かく、しかしどこか寂しげな淡い橙色の明かりが残っていた。

「……砂糖、もう少し控えめでもよかったかしら」

　ミランダは調理台に向かい、温かい湯気が立ち上る小鍋をそっとかき混ぜながら、その中でゆっくりと形を変える芋団子を、自分の作った一皿として愛おしむように見つめた。
　そこには、どこか素朴で、けれども温かなぬくもりを感じさせるシンプルな「芋団子のミルク煮」が並んでいる。
　一口頬張れば、優しい甘さが口いっぱいに広がる。黄金色のジャガイモをひと口大に丸め、薄く小麦粉をまぶして蒸し上げた団子は、外はふわり、中はもっちり。その食感は、まるで柔らかな雲のよう。そこに、とろりとした牛乳と黄金色の蜂蜜を加え、じんわりと煮詰めた後、火を止めてからほんのひと振りのシナモンを散らしただけ。飾り気はないが、どこか懐かしい、心がほっと安らぐ味わいだ。それは、日々の疲れを忘れさせてくれるような、魔法の一皿だった。

「また……作ってしまったわね」
　ミランダは、苦笑いのように自嘲するように小さく微笑み、鍋から立ち上る、甘く温かな香る湯気をそっと手の甲で押さえた。その指先には、昔の記憶が微かに蘇るような、そんな感覚が走った。

　かつて、この味は彼女の「我が家の味」、つまりミランダにとって最も大切な思い出の味だった。
　若き日に結婚した騎士の夫が好み、息子がまだ小さかった頃、まだあどけない顔で、「熱々で口の中をやけどしながらも笑って食べてくれた」あの味。甘い主菜、当時の王国では珍しいレシピだが、ミランダの家族だけの特別な一皿だった。そこには、彼らの笑顔と、温かな団欒の記憶が、確かに溶け込んでいたのだ。

「……夫は、少しだけ冷ましてから食べるのが好きだった。猫舌だったのかしら。息子は熱いままかじりついて、いつも『もっと熱い方が好き！』なんて目をキラキラさせてはしゃいで……」
　ミランダの遠い記憶に沈む声が、鍋をかき混ぜるカチャカチャという音にかすかに溶け込む。その声は、まるで過去の情景を呼び覚ます呪文のようだった。

　その時、不意に、静寂を破る声が響いた。
「……おいしそうな匂いがするって思ったら、やっぱり誰かいたか」
　カウンター越しに現れたのは、夜警でもなく、ただの客でもない、この筆の家のもう一人の住人、リュウだった。彼の低い、けれどもどこか安心させる声が、静かな厨房にじんわりと染み渡る。手には、ノートと洗い物用のふきんがしっかり握られている。どうやら、彼もまた、夜遅くまで作業をしていたようだ。

　ミランダは全く驚きもせず、むしろどこか楽しげに淡く笑って答える。
「あなたに言われたくないわね。“夜な夜な筆を走らせる男”に」
　リュウはふっと口元を緩め、ふきんをひらりと棚に掛け、ノートを胸に抱えた。その仕草には、ミランダとの気兼ねない関係性がにじみ出ていた。

「ま、それはともかく。余ってるなら……もらってもいい？」
「どうぞ。文句は言わせないわ。これは私の大切な、家族の味だから。誰もが安易に口にできるものではないけれど、あなたならきっと、その価値を理解してくれるでしょう」
　ミランダは言葉にできない思いを込めるように、小鉢に団子をすくい入れ、そっとリュウに差し出した。温かい湯気が、二人の間に漂う静寂を優しく包んだ。

「いただきます」
　リュウはひと口大の団子をゆっくりとクチに入れる。その瞬間、ミルクの甘さと芋のほのかな香り、シナモンの温かな余韻がじんわり広がり、彼の意識は、まるで古ぼけた絵本の中へと吸い込まれるように、そのまま記憶の底へと誘われるようだった。

「……これは、なんだろうな。すごく、“誰かと一緒に食べたくなる”味だ」
　リュウの言葉は、まるでミランダの心の奥底に眠っていた大切な記憶の扉をそっと開けるかのように、彼女の手をぴたりと止めた。深い夜の静寂の中、彼女はそっと目を閉じ、温かな涙が瞳の奥で揺れるのを感じた。
「……そう言ってもらえると、少し救われるわ」
　ミランダは寂しさと安堵が入り混じったような、小さく微笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。その声は、夜の帳に溶け込むように、ひっそりと響いた。

「……ミランダさん、俺ね……筆の家をやってきて、本当によかったって思うんだ」
　リュウはふいに打ち明けるように続けた。彼の言葉には、偽りのない真摯な思いが込められていた。

「誰かが、ここでしか作れない一皿を出してくれるとき。その料理には、その人の人生が、思い出が、希望が、ぜんぶ詰まっている。それって、物語そのものなんじゃないかなって」

　静かな厨房に、芋団子のミルク煮の甘い香りが満ちる。二人の間に流れる時間は、言葉以上に雄弁に、互いの心を通わせる絆を育んでいた。深い夜に紡がれた、一皿の記憶。

　その夜、リュウのノートにはこう綴られた。

《夜更けの厨房。ひっそりと灯る明かりの下、ひとつの鍋と、ひとつの皿と、そして、誰かのために残された“家族の味”があった。その温もりは、凍える心を溶かし、この家に集うすべての人を、静かに、優しく包み込む魔法だったのだ》

　遠く上の階からは、三姉妹メイドのはしゃぎ声とルナの「うるさいばい！」がかすかに響く。それは、まるでこの家の息吹のように、夜の静寂を彩っていた。
　それもまた、筆の家に息づく何気ない日常。温かくて、賑やかで、そしてかけがえのない、この家ならではの日常。

　そしてミランダの目元には、消えかけた月明かりのようにひとすじの涙がそっと光を映し出し、温かな余韻を残して消えていった。それは、過ぎ去った過去への哀愁と、今ここにある温かな現在への感謝が混じり合った、静かな涙だった。

　夜が明ければ、新たな物語が始まる。筆の家には、今日もまた、誰かの笑顔と、新しい一日が待っている。

　やわらかな朝陽が差し込み始めた朝靄の残る厨房亭。小鳥のさえずりがそっと街を揺らし、厨房からは焼きたてパンの、食欲をそそる香ばしい湯気が客席ホールまでふわりと広がっていた。今日一日の始まりを告げる、温かく心地よい匂いだった。

「おーい、ミィ！　盛り付けプレートに星が多すぎるばい！」
　エプロンの紐をきつく結び直し、気合十分の早口のルナが、厨房とホールをつなぐ小窓から叫ぶ。その声には、朝から全開の活力が満ち溢れていた。

「でもねでもね、今日は“星の日”なの！　昨夜の夜空があまりに綺麗だったから、みんなにもおすそ分けしたくて！」
　ミィは瞳をキラキラと輝かせ、まるで宝物でも見せるかのように、星形にくり抜いたにんじんを高らかに掲げる。彼女の両手には、自作の小さな星の川があしらわれた皿がずしりと重い。その皿は、ミィの感性そのままに、まるで夜空を切り取ったかのような美しさだった。

「理由が詩人か！」
　思わずツッコミを入れる俺、リュウに、ミィは元気よくウインクを返した。その可愛らしい仕草に、思わず口元が緩む。

「ミィ～！　スプーン、逆に置いとるばい！　お客さん、どっちがすくいやすいと思うね！？」
「ええと……ええと……“手が短いほう”？」
　ミィは頭をひねりながらも、決して悪気はないが、どこかずれている答えを返し、持ち替えずにそのまま口に運んでしまい、ルナが思わず「こりゃダメだ」とばかりに頭を抱えるように茶碗を抱え込んだ。

　そんな賑やかなホールの奥、一歩奥に入ると、ミランダがまるで魔法使いのように落ち着いた手つきで三品の調理を並行進行中だった。その手際の良さは、まさに熟練の技。

「今日の主菜は“香草鶏のパン包み焼き”よ。ティア、魔力オーブンの調整をお願いね」
「すでに設定は完了しています。あとはリュウさんが焦がさなければ完璧です」
「焦がす焦がさないの問題じゃないだろ……昨日は“ちょっと”炙っただけのはずなのに」
「“ちょっと”ね……あの焦げ付きは、“火竜の吐息レベル”でしたけど」
　お互いのやり取りにどこか楽しげに微笑みながら、リュウは再び失敗しないよう、真剣な眼差しでオーブンに目を光らせた。彼らの軽妙なやり取りは、この厨房亭の日常風景の一つだ。

　開店と同時に、待ちかねたように、常連客たちの足音が響き渡る。筆の家は、朝から活気に満ち溢れた。

「ここの野菜スープ、飲むと体が芯から温まって、若返った気がするわぁ」
「盛り付けがかわいくて、娘が毎日通いたがるのよ。おかげで財布が軽いけど、これも幸せな出費かしらね」
「厨房亭のごはんは、うちの家族より家族らしいんよね。本当に、心が安らぐわ」

　ルナは胸を張り、満面の笑みで案内する。その朗らかな声は、店の活気をさらに高める。

「はいはい、空いてる席は奥ばい！　本日のおすすめは香草が効いたパン包み焼き～！」
　ティアは機械じかけのように正確な計算でレジを打ち、セリスが静かに伝票を手渡す。三姉妹メイドが、それぞれの役割を完璧にこなしていく。

　ミィはカウンター越しに、トマトで作った小さな花飾りをそっと乗せる。その可愛らしい演出に、子ども客が歓声を上げ、隣席の大人たちも思わず顔をほころばせた。ミィのちょっとした心遣いが、客たちの心に温かい光を灯していた。

　背後の厨房では、ミランダが香草とハーブの香りを確かめ、料理の最終調整を行う。その瞳には、客の笑顔を思い描くような優しい光が宿っていた。そして、その横では、リュウが筆を握りしめながらも、顔には安堵の柔らかな光が浮かんている。彼もまた、この活気ある厨房亭の風景に、心から安らぎを感じているようだった。

　営業が終わり、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った厨房亭。調理器具や食器を丁寧に片付け、洗い場に並ぶ洗い物が最後の湯気を上げるころ、リュウはいつものように、白紙のノートを広げた。今日一日の出来事を、心に刻むかのように。

《厨房亭・筆の家の3階に、それぞれの個性を映し出すような、三つの新しい部屋が完成した。
　一つはミィの星の間、窓にはステンドグラスで夜空が描かれ、壁にはきらめく星型のルーンが刻まれている。夜には天井から本物の星屑が降り注ぐような、幻想的な空間。
　一つはセリスの静謐の間、音を吸う魔力壁紙に包まれ、そこだけ時がゆっくり流れるような空間。まるで、瞑想のための聖域のようだ。
　一つはラミナの甘香の間、棚一杯にハーブとスパイスが飾られ、扉を開けるたびにふわりと心地よい匂いが漂う。彼女の探求心と情熱が凝縮された、秘密の香りの工房。
　すべては、住む者の色で染まる、あたらしい家族の居場所。それは、単なる部屋ではなく、彼女たち一人ひとりの「物語」が息づく場所だった。》

「完成～！」
　ルナが両手を叩き、喜びを全身で表現する。その声は、筆の家に響き渡り、新しい始まりを祝うかのようだった。

「さすがリュウばい。ミィが入った瞬間、“星がしゃべった～！”って大はしゃぎだったけん」
「なにそれ、マジで怖っ」
「夢の話か魔力の話か、判断が難しいなぁ」
　リュウの言葉に、みんなが笑顔になる。彼らの間には、言葉にはできない信頼と絆が確かに存在していた。

　もちろん、フィナとモモにも雑貨店の2階にリュウが心を込めて執筆でリニューアルした部屋を用意した。筆の家は、着実に、その家族を増やしていた。

　そして、長い一日の終わり。その夜、すべてが静まり返った後。月明かりが筆の家を優しく照らし、今日一日の出来事を包み込んでいた。

　ミランダはそっと厨房亭2階の自室の窓を開け、涼しい夜風を胸に吸い込んだ。日中の喧騒が嘘のように、風は静かに、そして優しく肌を撫でる。屋根の向こうに見える満月は、まるで新しい部屋をやさしく見守っているようだ。その光は、この家に宿るすべての魂を包み込むように、温かく輝いていた。

「……本当に、にぎやかになったわね」ミランダの言葉には、寂しさとは違う、じんわりとした温かさが込められていた。

　背後でノックと同時に扉が開き、リュウが紅茶と温かなあんドーナツを抱えて現れた。二人の間には、もはや言葉はいらなかった。ただ、そこにある温かさが、すべてを物語っていた。
「でも、まだ増えると思うよ。ここは、そういう家だから」
「あんドーナツに関しては、また物語書きそうな勢いなんだけど……リュウくん、食べ過ぎは良くないわよ？」

　ミランダは苦笑しながら、そっと手を伸ばしてカップを受け取った。温かいカップの感触が、ミランダの指先にじんわりと染み渡る。

　また一人、また一部屋。それでも、筆の家は窮屈にならなかった。むしろ、心はどんどん広がっていった。
　窓の外では、夜風が優しく吹き抜け、のれんがふわりと揺れ、明かりが窓辺をくつろいだ色に染める。
　新しい朝を迎える準備は、もう整っている。この温かな光が、明日もまた、多くの物語を紡ぎ出すだろう。