『チート作家の異世界執筆録 〜今日も原稿と畑で世界を綴る〜』

第19話 伯爵来訪、食卓に差す影

　昼下がりの「筆の家」厨房亭には、いつもの笑い声と食器の音が満ちていた。店先ではモモの透き通るような声が、朗らかに響いていた。
　
「今日のおすすめスープは、お芋ときらきらにんじんだよー！」

　彼女の元気な呼び声に、通りすがりの子どもたちが足を止め、窓ごしにきらきらと目を輝かせながら顔をのぞかせる。店内では、ミィが丁寧にチキンプレートを仕上げていた。黄金色に焼き上がったチキンを皿に乗せ、その傍らには、ぷっくりと赤く実ったミニトマトを、まるで宝石のように一粒ずつ慎重に並べていた。その手つきは、まるで芸術品を生み出すかのようだ。
　
　その穏やかな午後を裂くように、途轍もなく重厚な馬車の車輪音が、不穏な響きを立てて近づいてきた。昼のピークを迎え、活気に満ちていた客の波が一瞬ざわめき、その視線は一斉に店の前に停まった威圧感を放つ漆黒の車体へと向けられる。

「ふむ……これが“王族の舌を虜にした庶民の台所”か。噂に違わぬ味かどうか、この私が、この舌で、確かめてやろう」

　そう言って馬車からゆっくりと降りてきたのは、麗しき刺繍をあしらった豪華な貴族の礼服に身を包む中年男、カールス・ローデン伯爵だった。王国北西の準自領を治める名門伯爵家の当主で、その背後には忠臣の護衛と侍女が控えている。その顔には、隠しきれない傲慢さが浮かんでいた。

「そこ、どけ。私に、このローデン伯爵に並ばせる気か？」

　伯爵は横柄な声で列の前に割り込み、泣きそうな顔をした子ども客の脇を、まるで邪魔物とばかりに豪腕で押し退けた。慌てた客たちが小声で抗議する中、彼は微塵も気に留める様子がない。まるで、目の前の人間が、自分とは違う下等な生き物であるかのように。

「貴族様！　大変申し訳ございません。もしよろしければ、外でお待ちいただいたほうが……」

　セリスが慌てて店の奥から出てきて、丁重に伯爵の横暴を止めようとするが、伯爵は片腕を突き出してその言葉を制した。

「下女めが……私の名が、ローデン伯爵のものと知らぬか！　今すぐ、この私を店内に通せ！」

　店内の空気が、一瞬にして凍てついたように静まり返った。入口で騒ぐ護衛を振り切り、伯爵はズカズカと、まるで自分の屋敷であるかのように、四人掛けの一等席へと進んでいく。
　
「な、なんね、この騒ぎは」

　厨房で野菜を刻んでいたルナが、鼻をひくつかせながらカウンターを越えて、その表情を硬くする。彼女の目に映るのは、無理矢理席を奪われて俯く子ども客の小さな背中、困惑に満ちた常連客たちの顔、そして伯爵に従う護衛たちの硬い表情だ。

「おい、猫耳め。さっさと酒を持ってこい、それと料理もだ。給仕は下僕の仕事であろうが」

　伯爵は、偉そうに背を向けるルナに命令した。その横柄な物言いに、ルナの猫耳がぴくりと動く。凛としたルナの瞳が伯爵を射抜き、静かに、だが深く、息を吸い込んだ。

「あんた、何さま？」

　ルナの声は低く、静かな怒りをはらんでいた。その場にいる誰もが、彼女の次の言葉に息を呑んだ。

「伯爵様に決まっておろう。下々の者が何を言う？」

「ふーん。じゃあ言わせてもらうばい」

　ルナは背筋を伸ばし、声を震わせずに、伯爵の瞳をまっすぐに見据えて口を開いた。その瞳には、一切の臆病さがなかった。

「うちは、客の笑顔のためにここにおる。貴族だろうが庶民だろうが、品性を疑う客の前に料理出すほど、甘い店じゃないばい」

　店内に、息を呑むほどの静寂が訪れた。伯爵の顔色が急速に失われ、青ざめていた伯爵の頬が、怒りで急速に真紅に染め上げられていく。

「貴様ァ……！」

　護衛たちが剣を抜いてルナを取り囲もうとした、まさにその瞬間、フィナとモモが小さな悲鳴を上げて飛び出し、護衛に飛びかかろうと身構える。

「やめてっ……！」

　ミィも身構え、誰もが固唾を呑んで見守る、まさに緊迫した一触即発の瞬間。厨房の奥から、冷たくも凛とした声が響いた。

「やめなさい。それ以上、この店に踏み込まないでください」

　扉が開き、金髪の小柄な少年が颯爽と現れる。彼こそ、「筆の家」の大切な常連にして、王国の第一皇太子、レオネル・アグナス・ディ・ルミアその人だった。

　幼さを残すその瞳には、しかし揺るぎない気高さと、確固たる意志が宿っていた。

「この店は、私の“もうひとつの家”です。ここに無礼を働くことは、私への無礼と等しい。それは、決して許しません」

　伯爵はその姿に目を細め、ふんと鼻を鳴らし、嘲るように笑った。

「ほう、小童が貴族の話に首を突っ込むとは。家に帰ってママのお膝にでも座っていろ」

　伯爵は鼻で嘲り笑い、手にしたグラスの、琥珀色の液体を、「お子様には、ぶどうジュースの方が、お似合いだろう」そう言い放つと、レオネルの頭上に中身をぶちまけた。
　
　一瞬、時が止まったような静寂が、店中に広がった。

　その行為は、単なる無礼ではない。すでに故人となられた王妃殿下への、許されざる侮辱行為に他ならなかった。レオネルの亡き母への侮辱。それは、彼にとって何よりも許せない行為だった。

　ティアが鋭く立ち上がり、ミランダは背後の包丁をちらりと握りしめ、リュウはそっとスプーンを置いた。全員の表情が、一瞬にして凍りつく。

「あーあ、やっちゃったな」

　リュウの呟きが、重苦しい緊張の中で不思議なほど静かに響いた。その声には、諦めにも似た、しかしどこか確信めいた響きがあった。

　そのとき、店外から低い命令が降りてきた。

「警戒態勢、展開。対象を包囲せよ」

　黒装束に身を包んだ騎士たちが、静かに、しかし確かな足取りで一歩一歩、店内へと迫る。彼らこそ、王宮直属、レオネル皇太子の『影』として、密かに護衛任務を遂行する者たちだった。彼らは剣を抜くことさえせず、ただその圧倒的な気配だけで、張り詰めた空間をさらに引き締めていく。

　伯爵のそばの護衛たちは、その気配に圧倒され、震える手で剣を収めた。彼らの顔は青ざめ、見る間に背筋が凍りつき、冷たい汗が流れ落ちる。そして、伯爵自身が、まるで糸が切れたかのようにがくりと膝を折った。

「お、お前……何者だ……っ！？」

「皇太子、レオネル・アグナス・ディ・ルミア。この国の未来を担う者にして、俺たちの、大切な家族だよ」

　リュウの言葉に、伯爵はがくがくと膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。彼の顔は恐怖に歪み、最早、傲慢な貴族の面影はどこにもなかった。

　その瞬間、「筆の家」の扉が再び開き、銀髪の紳士が現れた。

　内大臣　ラグレス公。王の実弟にして、「筆の家」の強力な後援者でもある。
　
「また、私の出番ですかな？」ラグレス公は、その静かな声で呟き、地面に膝をついた伯爵を見下ろした。その表情には、慈悲のかけらも見当たらない。

「ローデン伯爵。この店を“庶民の台所”と侮った罪は重い。貴殿の屋敷でも、きっと今日の醜態は広まっておりますぞ」

　伯爵は震える声で哀れにうめき、やがて顔を覆うように深く俯いた。彼の体からは、完全に力が抜け落ちていた。

　厨房の向こう、蒸気の中に浮かぶレオネルの背中は、小さくも凛としていた。その幼い背中には、未来の国王としての威厳が宿っているかのようだった。

「この家が、汚されるのが嫌だっただけです」

　その目には怒りではなく、ただ静かな誇りが宿っていた。そして、この場所を守るという、揺るぎない決意が。
　一皿の料理に込められた誇りと、家族のような温かい絆が、ここに確かに守られたのだった。

　翌朝。黄金色の朝陽が軒先の暖簾を優しく揺らし、新たな一日の始まりを告げる頃、「筆の家」厨房亭はいつもどおりの活気に満ちていた。木製のテーブルには、湯気を立てる朝の定番、ふわとろスフレ芋が並び、その甘く香ばしい香りが通りすがりの人々の足を自然と止めさせていた。

　しかし、厨房の奥、いつもの活気とは少しだけ異なる、昨晩の大騒動を思わせるような緊張の残滓が、ほんのりと空気を引き締めていた。

「……昨日のあれ、王宮内でもかなり話題になっとるらしかばい」
　無心にジャガイモの皮を剥く手を動かしながら、ルナはぽつりと呟いた。その声には、わずかながら不安が滲んでいる。

「そりゃそうよ。殿下に酒ぶっかけたって、単なる暴挙じゃないでしょ。王宮でも大問題になって当然だわ」
　帳簿のページをめくる手を止めずに、ティアは冷静に続けた。彼女の言葉はいつも事実を淡々と述べる。

「“筆の家の料理と接客”が評価されつつあったのに、今は“王族の台所で事件”という印象が先行してしまったわ」
　不安げに聞き入るモモの小さな頭を、ミィがそっと撫でながら励ますように言った。

「だいじょうぶだよー。おにーちゃんたち、ちゃんと守ってくれるから！」
「そうそう、だって『筆の家』は“王子様が帰ってくる家”なんだから」

　ミランダは大鍋を静かにかき混ぜ、その優しい声で締めくくった。
「ええ。ここは、あの子にとっても、民にとっても*“心の居場所”ですもの」

　その日の昼下がり。

　厨房亭前に停まるのは、またしても王宮御用達の、あの漆黒の馬車が停まっていた。扉が開き、降りてきたのは
　ラグレス公、王国宰相にして内大臣、そして「筆の家」の後援者であり、王の実弟でもある。

「また来たな……。あの人、タイミングの読みが絶妙すぎるぜ」
　厨房から出てきたリュウが苦笑混じりに呟き、扉越しにラグレス公を迎えた。

「筆の家の皆さま、昨日は大変申し訳ありませんでした。

　そして、レオネル殿下へのご配慮、心より感謝申し上げます」

「いえ…こちらこそ。うちの猫耳が取り乱してしまいまして…」
「誰のことを言うばい！？　取り乱しとらんし、怒っただけたい！」

　ルナとセリスが同時にツッコミを入れる中、ラグレス公は優しく微笑み、ポケットから一通の封筒を取り出した。

「これは陛下からの親書です。「筆の家」に関わる、重要な内容が記されています。どうぞ、ご覧ください」

　リュウがそっと封を切り、皆で紙面を覗き込む。そこに書かれていたのは、国王直筆の重々しい言葉だった。

『筆の家は、王太子の心を癒やす場であると同時に、王都の民が“味と温もり”を知る象徴でもある。この度の騒動を受け、筆の家を正式に王国庇護下に置くことを決定した。ただし、自由と中立の精神は尊重すること。筆の家は筆の家のままで在れ。』
　王国陛下　直筆

「……まじで？」
　リュウは言葉を失い、額に冷や汗を滲ませた。これがどれだけ異例で、どれだけ大きな意味を持つことか、彼はすぐに理解した。

「王様が、わたしたちを直々に“守る”と言ってくださったんだ……」
　モモが目を輝かせ、震える声で呟いた。その小さな手は、ぎゅっとリュウの服を掴んでいる。
「それって…筆の家が“王様公認のごはん屋さん”ってこと？」
「そういうことだな、モモ」
　ラグレス公が満面の笑みで頷いた。その笑みには、安堵と、そして深い満足感が含まれていた。

「もともと、王宮の厨房にあなたの料理を採用しようという声も上がっていたのです。ですが、殿下が“あの家の空気ごと”が、この店であると。その一言が、陛下のお心を動かしたのでしょう」

　その日、「筆の家」の扉には新たな掲示がなされた。

【筆の家厨房亭】
　王都料理管理ギルド認定店舗　王宮友好食堂

　だが店内に漂うのは、相変わらずのあたたかな活気。何も変わらない、いつもの日常がそこにあった。

　ティアはハーブを刻み、ミィは星形にんじんを並べ、ルナは、いつもの若干ツンデレな態度を崩さずも、どこか晴れやかな満面の笑顔で客を迎えていた。
　厨房奥でリュウはそっと呟いた。
　
「書くんだよ。“うちの家族を守る物語”をね」

　そしてノートに筆を走らせる。そのペン先からは、彼らの「家族」の物語が紡ぎ出されていく。

《筆の家は、ただの食堂ではなかった。家族の物語を描き、心を包む小さな奇跡の場所。その味は、王も民も、分け隔てなく届けられる。それこそが、“筆の家”の流儀だった》
　
　筆の家は今日も、変わらずにぎやかで、あたたかかった。