『チート作家の異世界執筆録 〜今日も原稿と畑で世界を綴る〜』

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第31話 今の毎日、まるで夢みたい

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 王都ルミアステラの朝は、いつにも増して賑やかそのものだった。遠くの教会からは規則正しく荘厳な鐘の音が鳴り響き、市場へ向かう荷馬車はきしむ車輪を転がしながら通りを埋め尽くす。商人たちの威勢のいい呼び声が路地を満たし、鍛冶屋からはハンマーが金床を打つ心地よいリズムが響き渡る。そんな喧騒の渦中にあっても、雑貨屋・筆の家は、まるで“穏やかな日常”をそのまま切り取ったかのように、温かい空気を漂わせていた。
 
 店先には、看板娘のフィナが柔らかな笑顔で立っている。その声は、まるで春風のように心地よく、道行く人々の足を自然と店へと誘う。
 
「いらっしゃいませっ! 今日は真っ赤なトマトがよく実っていますよ~!」
 
 その隣では、妹のモモが、朝露に輝くような色鮮やかなキュウリを籠に並べつつ、お客さま一人ひとりににこにこと手を振っていた。その小さな笑顔は、見ているだけで心が和む。
 常連の老婦人が、慈しむような眼差しでフィナに微笑みかける。
 
「フィナちゃん、今日の果物は何がおすすめかしら?」
 
 フィナは胸を張って、自信に満ちた笑顔で答えた。
 
「うふふ、リュウさんの畑で今朝収穫したばかりの桃がおいしいです! ほんのり冷やすと、甘みが一層引き立ちますよ!」
 
 通りすがりの貴婦人も、その和やかな雰囲気に誘われるように足を止め、つられて頬笑む。
 
「まあ! 今日も完璧な笑顔ね。うちの娘にも見習わせたいくらいよ」
 
 モモは、褒められたことが少し気恥ずかしそうに頷きながら、思わずフィナに耳打ちする。
 
「ねぇ、お姉ちゃん。桃って、あたしの名前と一緒だよね? えへへ、特売価格にしちゃおっかな?」
 
 フィナは慌ててモモを制した。
 
「……モモ、それは売る側の顔じゃなくて、買う側の顔になってるよ?」
「えーっ、だってお姉ちゃん、本当においしそうなんだもん~!」
 
 二人の姉妹の他愛ないやり取りに、お客さんたちの間からは楽しげな笑い声が交じり合った。筆の家の店全体が、温かく、そして幸せな空気に包み込まれていく。店の奥では、ルナやティアが、そんな光景を優しい眼差しで見守りながら、互いに微笑みを浮かべて頷き合っていた。
 
 夜の帳が降り、王都の喧騒が遠のいた頃。灯りを絞ったランタンが、部屋の隅でかすかに揺れている。窓からは淡い月光が、まるで慈しむかのように静かに注ぎ込んでいた。布団にくるまったモモは、隣で穏やかな寝息を立てている。その安らかな寝顔を、フィナはそっと見つめた。
 ふと、フィナは自身の布団を胸元にぎゅっと抱き寄せ、その横顔に囁く。
 
「……ほんと、夢みたいだな」
 
 小さな台の上のランタンの炎が、その言葉を優しく反響させた。フィナは、震える声で言葉を継ぐ。
 
「お客さんと笑って話して……毎日ちゃんとご飯を食べて、ぬくぬくの布団で眠れて……」
 
 指先でそっと胸元を押さえる。そこには、過去には考えられなかった、満ち足りた幸福感があった。だが、その幸福は、同時に怖さも孕んでいた。
 
「こんな暮らしが、できるなんて思ってもみなかったから……」
 
 ふと、過去の自分たちのことを思い起こし、冷たい震えが背筋を走った。あの絶望的な日々を知っているからこそ、今のこの幸福が、いつか壊れてしまうのではないかと、心臓が痛むほど怖くなる瞬間があるのだ。
 
「ねぇ、モモ。王都に来た最初の頃、覚えてる?」
 
 モモは目を閉じたまま、夢うつつのようにかすかに頷いた。その小さな返事に、フィナはそっと、過去の扉を開く。
 
「じゃあ、ちょっとだけ……昔話をしてもいい?」
 
 夜風がカーテンを揺らし、フィナの髪先をそっと撫でた。
 
 ——それは、遠い日の、残酷な記憶。
 ——夢を抱いて王都に来た、あの日のこと。
 ——しかし、その夢が、瞬く間に絶望的な現実へと変わっていった、長い日々のことを——
 
 窓の外では、遠くの教会の鐘が深い余韻を残して鳴り止む。フィナは淡い月光に照らされた小さな部屋の中で、眠りについた妹モモをそっと見下ろした。布団にもぐり込んだモモの寝顔は、わずかに頬杖をつくかのように安らかだ。フィナは息を整え、静かに語りはじめる。
 
「……あの頃のこと、まだ夢みたいに思う時があるの」
 
 かつて、私たちは緑の丘に囲まれた地方の農村で暮らしていた。広大な麦畑が風に揺れ、ゆるやかな水路が煌めく風景は、心を癒す美しさに満ちていた。だが、日々の暮らしは、その美しさとは裏腹に、想像以上に厳しかった。父は朝の薄暗い早朝から、夕焼けに追われるようにまで農具を担いで働いた。母は病を抱えながらも、いつも私たち姉妹に優しい微笑みを向けてくれた。しかし、その病は、ある日突然、母から命を奪い去った。残されたのは、幼い私たち姉妹と、打ちひしがれた老いた父だけだった。
 
「うちは貧乏だったけど、家族三人でいた時は、まだ……少しは幸せだったんだよね」
 
 母を失った後、山の畑は次第に作物の価値を下げていった。痩せた土壌からは、ろくなものが育たず、市場までの道は遠く険しかった。かろうじて売れるのは麦わらのわずかな手数料にしかならず、父の額からは笑顔が消え、深い苦悩の皺が刻まれていった。
 そんなある日、村の酒場で耳にした噂が、まるで砂漠のオアシスのように、絶望の淵にあった私たちを誘った。
 
「王都に宿屋を持つチャンスがある。金貨十枚を出資すれば、屋敷と営業権を手にできるらしい」
 
 父は、その言葉を最後の希望だと信じたのだろう。藁にもすがる気持ちで、近隣の村々から頭を下げて金を借り、家財道具を質に入れ、懸命に貯めた小銭をかき集めた。私たち姉妹は幼い手をつなぎ、父の背に寄り添うようにして、遠い王都への旅に出た。胸には、希望と、新しい生活への淡い期待を抱いて。
 
「モモは嬉しそうだった。『新しいおうちがあるんだよね?』って、何度も何度も聞いてきたんだ」
 
 だが、王都に着いてみれば、そんな宿屋はどこにも存在しなかった。豪奢な書類も、証人の署名も、人々が口にした噂話も、すべては欺瞞に満ちた幻だった。金貨十枚は宙に消え、父の夢は、音を立てて瓦解したのだ。
 
「……お父さん、あの日から、別人みたいになっちゃった」
 
 王都の片隅、薄汚れた酒場兼小屋に身を寄せた父は、日々を酒でつぶすしかなくなった。夕暮れになると、彼の胸には辛辣な言葉と、暴力へと変わる拳が抱えられ、私たち幼い娘たちへと向けられるようになった。
 
「モモが泣いても、あたしが必死でかばっても、お父さんは殴るのをやめなかった」
 
 空腹は幼い身体を蝕み、夜寒は震えで眠りを奪った。愛されるはずの娘たちには、怒号と暴力だけが、容赦なく降り注いだ。
 
「それでも……信じたかったんだ。お父さんは、本当は優しかったから……」
 
 フィナの声が震え、絞り出すように続く。その言葉には、それでも父親を信じようとした、幼い彼女の悲痛な願いが込められていた。
 
 ある晩、モモが高い熱を出した。
 痙攣に怯えながらも、フィナは真っ暗な部屋で手探りで水を探し、苦しそうに咳き込む妹を必死で抱きしめた。
 
「このままだと、モモが死ぬ」
 
 私の胸に、凍るような恐怖が走り抜けた。父は、そんな私たちの苦しみを知ることもなく、酒に酔い、静かに足音を消して遠ざかっていた。背を向けた父親の姿に、フィナの心は深く深く傷ついた。
 
「ごめんね、お父さん。あたし、もう無理だったの……」
 
 姉として、そして子として。私は、目の前で命の炎が消えかかっている妹を、ただ守るしかなかった。
 
 隣の布団で、モモはかすかに目を開き、フィナの手をそっと握った。その小さな手から伝わる温かさに、フィナの胸は締め付けられる。
 
「ううん……お姉ちゃん、助けてくれて、ありがとう」
 
 突然のモモの言葉に、フィナは驚き、取り乱しながらも、モモの手をぎゅっと握り返した。
 
「ば、ばか……泣いてないし!」
 
 フィナの目からは、とめどなく涙が溢れ落ちていた。モモはそんな姉の姿を見て、けらけらと無邪気に笑い、小さな声で続けた。
 
「お姉ちゃんがいて、本当によかったって思ったんだ」
 
 部屋には、遠い日の苦しみを超えた、確かな温もりが満ちていた。
 それは、あの日からずっと探し求めていた「家族の光」そのものだった。
 夜風がカーテンをそっと揺らし、一瞬の静寂が二人を優しく包んだ。そして、二人の新しい、希望に満ちた明日へと、静かに時が流れていく。
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