婚約者に大切にされない俺の話

ゆく

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8. 一人きりの発情期

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 大学で心理学を専攻した俺は修士課程を修了した後、瀬尾家が経営している総合病院のバース科で心理士として働いている。

 元々俺自身がオメガ性を瀬尾家に診てもらっているということもあったけれど、決して宏樹との婚約を意識して心理士になったわけじゃない。


 俺が初めての発情期を迎えたのは、卒業式を数日後に控えた小学六年生の冬だった。

 入れ違いにはなるけれど宏樹と同じ中学への入学が既に決まっていて、でもなかなか俺と会ってくれない彼に悲しくなっていた頃だ。



 一般的に初めての発情期はごく軽めだと言われている。

 オメガの子宮が完成するのは思春期以降で、子宮が未発達の状態だと分泌されるフェロモンが微量になるからだ。発情の周期も最初は不安定で、数年かけて落ち着いていく。多分ここらへんは女性の生理と同じような感じだろう。成人を迎える頃にようやくフェロモン量も周期も安定するようになり、オメガは妊娠可能な体となる。

 俺の初めての発情はイレギュラーなものだった。
 事前に聞かされていたものとは異なる興奮状態になった俺はパニックになった。


 診てくれている先生が言うには、俺みたいな症例のオメガは毎年少ない人数ではあるけれど減らないようだった。イレギュラーな症例じゃなくても、自分の性に悩み心を病むオメガも多い。



「待って真緒くん、――きみそろそろヒート休暇の時期じゃない?」


 一日の勤務を終え、職員専用玄関から出ようとした俺の右手を掴んで尚樹さんが引き止めた。


「今回は休暇の申請が出てないけど、どうするの?」
「あっ」


 そうだった。
 バース科の責任者である尚樹さんは、当然俺の勤怠を把握している。成人して周期も安定した俺は決まった時期にヒート休暇を申請しているのに、今回は申請するのを忘れてしまっていた。

 スマホにインストールしている管理アプリを見れば、尚樹さんの言うように確かに明後日頃から発情期に入る予定だった。いつも予備として予定日前日から休暇に入るから、本来であれば明日から休暇だ。


「すみません。忘れてました……明日から休暇をとらせていただいても大丈夫ですか?」
「それはもちろん構わないけど」


 そろそろだと思ってたし大丈夫だよ、と尚樹さんは俺を安心させるためか微笑んだ。掴んだ右手はそのまま。


「帰宅したら自宅からオンラインで申請します」
「オーケー。まぁ申請自体は後日でもいけるから、そこは急がなくていいよ」
「ありがとうございます」
「――で、どうするの?」
「何をですか」
「ヒートの相手だよ。まさか薬で乗り切ろうとか思ってないよね? 俺としては、いいかげんに宏樹をうちから引き取ってくれると助かるんだけどなー?」


 揶揄からかうような声色なのに尚樹さんの眼差しは真剣そのものだった。


 薬――発情抑制剤――で発情を抑えることは本能を無理やり抑えこむことで、服用者の心身に強い影響を与えてしまう。けれど服薬を続ければ耐性ができてしまい、抑えるためにどんどん強い薬に手を出すオメガがいるのが現実だ。


「宏樹はきみの周期を把握してなかった?」
「…………いえ。把握してくれてました」
「俺は、薬を使うことは反対だよ。きみもバース科の職員なら、なぜ俺が反対するのかわかるよね?」
「……………………はい」
「俺も、真緒くんにあんな不出来な弟の汚いちんこが入るの嫌だけどさ、もういっそあんな奴でも利用してやるっていうくらいの気持ちでいてよ」
「いやいや、尚樹さん!?」


 開けっぴろげな言葉にギョッとすると、尚樹さんは「してやったり」といった顔をして、やっと俺が逃げないよう掴んだままだった右手を解いた。


「どうしてもダメだったらさ、薬を飲む前に俺も瀬尾だってこと思い出して。いいね?」
「はい。……ありがとうございます」
「大丈夫。瀬尾は馬鹿な次男より、みんな真緒くんの味方だから」
「ははっ、……宏樹が聞いたら泣きますよ」
「あいつはいっぺん死んだ方がいいってみんな思ってるし」
「はははっ」


 尚樹さんには敵わないなー……
 年上の幼なじみの優しさを、俺は噛み締めながら笑った。



 宏樹が使っていたマンションの鍵は俺が回収したままだ。帰宅後オンラインで休暇申請をして、玄関の鍵を開けて寝室へ向かう。

 一人きりで発情期を迎えるのは初めてで、俺は、クローゼットに残された宏樹の匂いの残るシャツをぐしゃぐしゃに抱きしめる。お腹の奥がズクズクする熱を感じて、俺は目を閉じた。





*次回はR18予定です*
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