浮雲の譜

神尾 宥人

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第一章 浮雲

(二)

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 顔の前で何かが忙しなく動いているのがわかった。おそらくは羽虫であろうと思い、善十郎はそれを手で払おうとしたが、まず腕を上げることすらできなかった。いったいどうしたのかと怪訝に思い、うっすらと目蓋を開く。そして、突然差し込んできた強い光に思わず呻き声を漏らした。
 いったん顔を背け、もう一度そっと視線を上げる。そうしてようやく見えたのは、藁で葺かれた粗末な屋根だった。その隙間から差し込む陽の光が、ちょうど顔に当たっているのだ。瞬いているように思えたのは、やはり顔の上を煩わしく飛び回っている羽虫のせいだった。
 ここはどこだ。これはいったいどういうことだ。そうつぶやこうとしたが、声が出なかった。善十郎はまた数度目蓋を瞬かせ、明るさに目が慣れるのを待つ。それからやっと腕を上げ、目の前に翳しながら、あたりを見回してみた。
 おのれがいるのは、小さな小屋の中だった。ひどく汚れ、壁のところどころは破れていたが、かろうじて雨露は凌げてはいるようだ。他に人の姿はなかった。善十郎はその隅に、茣蓙を敷いて横たわっていた。
「……どこだ、ここは……」
 今度はどうにか、声が出せた。しかしそれとともに、脇腹で鐘を打つような痛みが走る。善十郎は身体を起こすのを諦め、ゆっくりと息を整えながら、歯を食いしばってその痛みに耐えた。
 そうしていると、小屋の外に気配を感じた。かすかではあったが、小枝を踏み折ったような物音。やがて立て掛けてあるだけの戸板の隙間から、ひとつの影がするりと忍び込んできた。
 善十郎は腰に手をやり、そしてそこに刀がないことを知ると、傍らを掃き均すように探る。しかしどこにも、得物となりそうなものはなかった。そしてそれだけの所作で、また身体のあちこちに刺されるような痛みを覚え、漏らしそうになった呻きを飲み込む。
「……お目覚めになったのでございますね」
 声がした。善十郎は驚いて、目だけを影のほうへと向ける。入ってきたのは女だった。色の褪せた粗末な小袖に、ぼさぼさの根結い垂れ髪。顔も煤のようなもので汚れていて、齢の頃はすぐにはわからなかった。しかし声からして、さほど若くはなさそうだ。
「おぬしは……くっ、わしは」
「あまり大きな声は出されませぬよう。表からは土山にしか見えぬよう細工はしておりますが、それでも物音は漏れまする」
 女は口元に指を当て、囁くように言った。そうして横たわる善十郎の傍らに音もなく座る。身形はみすぼらしいが、その所作はどうにも百姓には見えなかった。別に気品があるとかいうわけではない。むしろ武人のそれに近い、隙のない動きだ。こうしている間も、半身を出入口に向けて警戒を怠っていない。
「わしは……どうしたのだ。何ゆえここでこうしておる?」
 先ほどよりも声を落として、善十郎は尋ねた。女はちらりと目を向けると、何やら含みがあるような表情でくすりと笑う。
「この少し下のあたりに倒れていらしたのですよ。それを私が、ここまでお連れしたという次第にございます」
 ではここは、高遠の城からもさほど離れてはいないということか。おそらくあのとき斜面を転がり落ちて、そのまま気を失ったのであろう。
「何ゆえ……?」
 何ゆえ助けたのだ。その問いは、またかすれて声にはならなかった。それでも女には伝わったようだった。
「何ゆえ、と申されましても……死にかけておられた方をお助けするのに理由が要りましょうや、飯島さま?」
「わしを……知っておるのか」
 驚きと警戒を滲ませて、善十郎は問いを重ねる。慥かに飯島の城下であれば、近郷の者もこの顔を見知っているかもしれない。しかし高遠に落ち延びてからは、城の外にはほとんど出ていなかった。
「はい。鎧に三引き両の紋がありましたし、城でも幾度かお顔を見かけておりましたゆえ」
「城で、とな?」
 城とはもちろん、高遠の城のことであろう。城中にも慥かに、女子供がいなかったわけではない。中には近在の城から妻子を連れて逃げ延びてきた者もあったし、城攻めがはじまる数日前までは、盛信の姉である督松とくまつ姫とお付きの者たちがいた。
「では、いずこかのご家中の?」
「はい、小山田備中守さまの元に」
「小山田どのの……はて」
 小山田備中守昌成のことは、もちろん善十郎も知っていた。何しろ城主盛信の脇大将(副将)であり、父虎満の代から譜代家老衆として武田を支えた重臣でもある。ただし数年前に家督を譲って隠居の身で、此度の織田の侵攻に際し、盛信の要請に応じて身ひとつで参陣したと聞いていた。その際、城中に妻子を連れてきていてはいないはず。だから家中にいたのは兵だけである。
 女の兵などいるわけもなく、となると考えられるのはひとつだけだった。この女の隙のない立ち振る舞いから思い至ったことだ。
「……透波すっぱか」
「はい」と、女はあっさりと認めた。「五郎さまと備中さまのため、影働きをしておりました」
 なるほどの、とつぶやいて目を閉じた。小山田備中守と言えば、武田きっての智将でもある。透破や草を使った情報戦にも通じ、対上杉の要衝である海津城の城代を長く勤めた。その手下であるのなら、当然生半なまなかの者ではあるまい。城に出入りしていた者の顔と名くらい、すべて覚えていてもおかしくなかった。
「わしは、どのくらい眠っておった?」
「五日ほどでしょうか。見つけたときは身体も冷え切って、ほとんど死にかけていらっしゃいました。よくもまあ、こうして息を吹き返したものでございます」
「五日か……」と、小さくため息をつく。そして、答えのわかっている問いを投げ掛けた。「城は、どうなったのだ」
「夕刻前には落ちました。五郎さま、備中さまをはじめ、主だった方々はみなお討死されたとのことにございます」
「夕刻前に……なんと」
 天下に聞こえし名城である高遠城が、わずか一日と持たなかったということだ。しかしあの状況を思い出せば、無理もないこととも言えた。
 兄や金太夫も、おそらくはもう生きていまい。他にもあの城にいた多くの者が死んだであろう。そう考えても、悲しみはさほど湧いてこなかった。ただ、冷え冷えとした虚しさだけがあった。
「武田も、終わりよの」
「やも、しれませぬ」
 女は淡々とした声で言った。そうしてまた、音もなく立ち上がる。
「まだ、傷は癒えてはおりません。どうぞそのままお休みください。私はまた薬草でも採ってまいります。多少は心得もございますので」
 また遠ざかってゆく背中に、善十郎はひとつ尋ねた。「名を……訊いてもよいか」
つた、とお呼びくださいませ」と、女は答えた。
 
 
 蔦と名乗った女の思惑は、善十郎にはだいたい察しがついていた。主を失った者が、見込みがありそうな相手へ恩を売り、再仕官のための伝手を得ようとするのはよくあることだ。おのれが透波であることをあっさり明かしたのもそのためであろう。
 しかしその相手におのれを選んだのは見込み違いだのう。善十郎はそう冷笑する。そもそもおのれなどが生き残ったことが、何かの間違いとしか思えない。生き残るべき者は、もっと他にいたであろうに。どうして天はよりにもよって、かような何もない男を生かしたのか。気まぐれにもほどがあるというものだ。
 信濃の小さな国人の家に二男として生まれ、わずかな領地と兄を支え守ることだけ考えて生きてきた。そうして気が付けば齢も四十を数え、妻を娶り子を成し、そのどちらをも病で失った。あとに残せるものなど何もない。守るべき家も、支えるべき主たる兄ももういない。さような身で、ただ命だけ長らえて何になろう。
「では、どうなさるのですか?」
 善十郎がそんな胸の内を漏らすと、蔦は尋ねてくる。声音に、ほんの少し揶揄するような色を滲ませて。
「さて、な。いっそ刀は捨てて、百姓にでもなってしまうのがいいのかもしれん」
 それにも抵抗はなかった。元々城主の一族とはいえ、半分は百姓のようなものだ。屋敷の庭には畑があり、父も兄とともに自ら鍬を持ち、おのれの食い扶持くらいは育てていたものだった。またそのような暮らしに戻ればいいだけだ。野良仕事だって、決して嫌いではなかった。
「さようでございますか。それも宜しかろうと存じます」
「あるいは頭を丸めて雲水にでもなるかの。戦とはいえ、この手で数多を殺してきた。その菩提を弔わねば、地獄にも行けぬであろう」
 蔦はまたくすりと笑い、小さく頷いた。「それもまた、宜しいかと」
 まるで「そんな気は露ほどもないくせに」と言いたげな口調だった。慥かにその通りだ、と善十郎も観念する。まったく見透かされている。おのれにそのような生き方ができるとは到底思えない。
 結局はまた、槍を取るしかないのだ。おのれにはそれしか出来ることがない。そうしていずこかの家中の雑兵として、ひとり泥に塗れて野垂れ死ぬ。そんな行く末が、もっともしっくり来る。結局、そうした生き方しかできぬのだ。
 そぼとき不意に女は笑みを消し、険しい声で「お静かに」と善十郎を制した。息を潜めて耳を澄ますと、かすかに足音が聞こえてくる。まだ遠いが、ひとりふたりではなさそうなのはわかった。ざくざくと草を踏む音とともに、具足の擦れる響きも混じっている。小勢ではあれど、武者の集団のようだ。
「おそらく、織田の残党狩りでございましょう。いかがなされますか?」
「いかが、とは?」善十郎は囁き返した。
「今出て行けば、すぐに首を刎ねてもらえますよ。それがお望みではないのですか?」
 慥かにただ無様に死ぬことだけが望みであれば、それがもっとも容易かった。しかし同じ死ぬにしても、織田の連中にただでこの首をくれてやるのはごめんだ。せめてひとりふたり道連れにした上でもなければ。とはいえ今のこの身体では、満足に槍を振るうことも難しい。
 仕方なく苦笑すると、蔦は呆れたようにため息をついた。
「殿方は何かと、面倒臭いものでございますね」
 その声音は哀れむようでもあり、また蔑むようでもあった。しかし不思議と善十郎は、その響きに不快は覚えなかった。気のせいかもしれないが、どことなく羨むような調子すら感じ取れてしまったからかもしれない。
「おのれの足で出てゆく気にはなれぬ。ただし、突き出すのであれば好きにするがよい」
 織田方は、武田の名のある将の首を差し出した者には、応分の金子を弾むと触れ回っているらしい。もちろん、おのれごときの首にさほどの値打があるとも思えないが。
されど女は、静かに首を振って答えた。「そうするくらいなら、最初からお助けしたりはいたしません」
「されどこのままでは、いずれ気付く者もあろう。おぬしが売らぬでも、他にも目が眩む者が現れるかもしれぬ」
 むしろ、今までそうした者が現れなかったことのほうが不思議だった。たとえ小屋が外からそれとわからぬよう細工されているとしても、この女は頻繁に出入りしているのだ。それどころかたびたび里に下りて、薬草や粟などの食料を分けてもらってもいるらしい。それではむしろ、気付かれぬほうがおかしい。
「慥かに、薄々とは気付かれているやもしれません。されど今のところは、口を噤んでくれているようで」
「さようか?」
「はい、それも五郎さまの人徳にございましょう。このあたりの領民には、ずいぶんと慕われておられたようですから」
 続く話によれば領民たちは、夜中に城へ忍び込み、五郎盛信と小山田備中の亡骸をこっそり運び出したのだとか。そうして山の上に祠を建て、ふたりの弔いをするつもりらしい。
 四郎勝頼は織田との決戦のために重税を敷き、領民にはかなり恨みを買っていたと聞いていたが、この高遠ではまた違ったようだ。それはある意味統制の緩みでもあるのだが、今はむしろ有難いことと言うべきか。
 幸い足音は何事もなく通り過ぎ、やがて聞こえなくなった。ほっと息をつくと、善十郎は先ほど口にしかけた問いをあらためて投げかけた。
「それで、おぬしはどうするのだ」
「どう、とは?」
「先ほど申した通り、これ以上わしになど関わっておっても良いことなどないぞ。おぬしはおぬしで、身の振り方を考えてはどうだ」
「そうは言われましても、行き場のない身であることは同じですゆえ」
 目を覚ましてからすでに数日が経つ。その間に、早くも武田は滅んでいた。小勢にて新府から退却した四郎勝頼は天目山にて発見され、嫡男信勝らとともに討ち取られたという。長らくの本拠であった躑躅ヶ崎つつじがさきも焼け、甲斐と信濃は織田・徳川の手に落ちた。四郎の首は衆目に晒すため、即座に京へと運ばれていったらしい。
 と言っても、善十郎にはそのことに対しての悲しみはなかった。元より飯島一族を含む信濃の先方衆には、そこまで武田に強い思い入れはない。むしろ祖父や父からは、かつての主たる諏訪家を簒奪した武田への恨み言を散々聞かされてきたものだった。兄やおのれが最後まで武田に残ったのも、忠義というより変わり身のできない不器用さゆえのことでしかない。だからあるのは、滅びとはこうも呆気ないものかという驚きだけだった。
 蔦はそのことを、どこからともなく聞き付けて善十郎に伝えていた。近郷の百姓たちがそれほど耳が早いとも思えず、ならばこの女は今でもそうした伝手を持っているということだ。
「まことはわしなど利用せずとも、おぬしはどこへでも行けるのではないのか?」
 しかし重ねて尋ねてはみても、女はただ「さあ、どうでございましょう」と笑うだけだった。それこそ、風に揺れる柳がごとく掴みどころがない。どうやら見透かされるのは此方ばかりで、おのれの内心を見せる気はないようだった。
「さようなことよりも、早く傷を癒してくださいませ。いつまでもここでこうして、隠れ棲むわけにもまいりませぬゆえ」
 そうはぐらかされて、善十郎は「……わかっておる」と憮然と答えた。
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