浮雲の譜

神尾 宥人

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第一章 浮雲

(五)

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 雲の間にぼんやりと、正円をわずかに欠いた月が浮かんでいる。善十郎は同じように縁の欠けた椀を口に運び、白く濁った酒を喉に流し込んだ。
 夜もすっかり更けたが、なおも蝉は五月蠅く鳴き続けていた。風はべったりと湿り気を帯びていて、その中にかすかに潮の香りが混じっている。この地に来てはじめて、こんな夜風も悪くないと感じていた。されどやはり、おのれには似合わぬとも。
 気配に気付いて振り返ると、城下へ出ていたはずの蔦がいつの間にか戻ってきていて、肴にするつもりか烏賊を炙っていた。いつものことなので、もう驚くことはない。
「おぬしもこちらに来て、一献付き合わぬか」
 善十郎が言うと、女はくすりと笑って首を振った。飲めぬわけでもないのだろうに、いまだに食事も酒も同席しようとはしない。あまり好きではないのかもしれなかった。それならば、無理強いすることもない。
 それに正直ああは言ってみたものの、はいと答えられたらどうしたものかとも思っていた。むろん命を救われた恩もあるゆえ、邪険にするつもりはない。されど今日までともにいてなお、この女の心根が見えぬのだ。いったい何を考えて、おのれのような男とともにいるのかわからない。そんな薄気味悪さがどうしても抜けなかった。
「どうやら尾上さまのお話に、偽りはなかったようにございます」
 善十郎は「さようか」と頷いた。もちろん、最初から疑っていたわけではない。あの男が偽りを並べる理由もないのだ。
「織田右大将信長、明智惟任日向守謀反により、京は本能寺にて討死。安土城もすでに明智が手に落ち、細川、筒井といった畿内の諸将も呼応する様子」
「城介……いや、中将はどうした。それを黙って見ているはずもあるまい」
「中将信忠もまた、二条城にて明智の襲撃を受けて行き方知れずとの由。おそらくは、討死したものと思われます」
「なんと……のう」
 あのとき善十郎や金太夫が討ち果たすどころか、足元にさえも辿り着けなかった信忠が、ずいぶんと呆気ないものだった。呆気なさすぎて、すぐには現のことと思えない。夢にでも浮かされているようだった。
「あと三月、堪えておればのう」
 思わずそのような言葉が口をついた。四郎勝頼があと三月、どうにか堪えてさえいれば、武田の運命も変わったのであろうか。考えずにはいられないことだった。
 しかし蔦はあっさりと、善十郎の夢想を「それはどうでしょう」と打ち消す。
「右大将が安土を離れ、本能寺なる寺に陣を置いていたのも、羽柴筑前が備前高松城攻めへの後詰に向かう途上であったとのこと。それも武田をひと月と経たずに滅ぼし、東に憂いがなくなったゆえでございましょう。もしも、を言うても詮無きことかと」
「わかっておる」と答えて、また椀を呷った。この世は奇々怪界に見えて、すべてのことは起こるべくして起こっている。まったく関わりのないような事柄が、それぞれ絡まりながら動いているのだ。だからすでに起きてしまったこと、終わってしまったことを、あのときこうであったならと悔やむのは虚しいものだ。ここまで齢を重ねて、善十郎もようやくそのことがわかってきていた。
「それで、天下はこのまま明智のものになるのか」
「はて、私にはそのようなことは何とも」
「戯れの夜語りじゃ。思うたことを言うがよい」
 蔦は善十郎の言葉にまた笑みを浮かべ、思案するように黙り込む。そうしてしばしののち、諦めたように首を振った。
「やはり、何とも言えません。ほんの一寸したことで、どちらにも転がりうるかと」
 それは善十郎も同じ考えだった。明智がたとえ京、そして畿内を抑えたとしても、織田の麾下にあった者たちが皆、簡単に従うとは思えない。
「越前に戻った柴田修理も、態勢が整えば京へ攻め入るとのことよの。となれば、どちらが勝つか……」
「それも何とも。そもそも、柴田もそう疾く動けるとは思えませぬ」
「さようか?」
「はい。上杉が魚津へ後詰を送れなかったのも、信濃より攻め入った滝川勢に背を衝かれる恐れがあったゆえ。それがなくなれば一転、これを好機と越中へ、さらには能登へも攻め込みましょう。その抑えでしばらくは、柴田も佐々も身動きが取れぬかと」
 それはきっと、備前で毛利と相対している羽柴筑前も同じこと。惟任日向がそんな状況も見越して動いたのであれば、このあとの戦略も綿密に練られているはずだった。ならば当分の間、睨み合いが続くのか。
「世の行く末はともかく……飯島さまはどうなされるのですか?」
 声音にどこか意地悪げな響きを含ませて、蔦は話を変えた。
「尾上さまのお誘い、お心が動いているようにお見受けいたしましたが?」
 そうよのう、と善十郎はまた夜空を見上げた。氏綱は別段、答えを急かしはしなかった。気が向いたら、飛騨白川郷を訪ねて来いと言い残し、一行を連れて帰って行った。おそらく善十郎が話を受けるか否か、半々くらいに思っていることだろう。
「険しい山々に囲まれた、小さな里なのであろうな。わしも田舎者ゆえ、そうした地のほうが落ち着くのは慥かよ」
 焼き上がった烏賊を皿に乗せ、蔦は善十郎の傍らに置いた。そして空になった椀の中に、新しい酒を注ぐ。
「風が、吹いたのやもしれぬな」
「風でございますか?」
「ああ。今のわしは一片の浮雲よ。風に吹かれるまま、流れてゆくのが似合いであろう」
 そう声に出して言ってみて、ようやく心が決まった。どうせ拾った命なのだ。ならば、流れるままにその景色を楽しむのもまた一興。善十郎の言葉に、蔦はまたいつものくすくす笑いを返してきた。どうせ、行き当たりばったりの生き様に呆れているのであろう。
「おぬしはどうするのだ。無理に付いて来る必要などないぞ。織田でも上杉でも、あるいは明智でも、好きなところに行くがよい」
 これから、世はまた千々に乱れるやもしれぬ。ならばその激しい只中に飛び込んでみるのも楽しかろう。されど蔦はひとしきり笑ったのち、ともに月を見上げて答えた。
「私も、浮雲でございますよ」
 さようか、とだけ答えた。相変わらず、何を考えているのかわからぬまま。心根も見えぬまま。おそらく善十郎がいくら探りを入れたとて、簡単にはその裡を見せはしないのであろう。ならば勝手にすればよい。
「ところで……飯島さま?」
「何だ?」
「先ほど尾上さまは、私のことを『御内儀』と呼ばれました」
 この女が手拭いの下で暗器を構えていたときだ。氏綱はおそらく気配で気付き、そう呼んでこの女を制した。
「どうして、違うとおっしゃらなかったのでございますか?」
「理由などない。説くのが面倒だっただけよ」
 さようでございますか、と。蔦はまるで善十郎の真似をするように答え、頷いた。
「ではあちらに行ったらまず、その誤りを解かねばなりませぬな。飯島さまにご迷惑がかかります」
「わしは別にどちらでもよい。面倒がないなら、好きなように思わせておけ」
「そうはまいりません。私のことは、下女とでもお伝えくださいませ」
 蔦はそう言って、やけに優雅な所作で頭を下げた。善十郎はまた酒を口にして、唇だけで短くつぶやく。やっぱりわからぬ、と。
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