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第三章【イリュリア事変】

3-18.戦略的撤退

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「焼じ──」
「[禁足]!!」

 クレアの術式の完成と、ミカエラの術式の発動が重なった。ミカエラが放った[禁足]の術式がクレアの術式を包み込み、抑え込み、発動を阻害する。

 [禁足]は術式の起動から発動までの僅かなタイミングに合わせてその術式に干渉し、発動を抑える魔術だ。魔術というのはどんな術式でも霊炉で起動し、それを体外に出して発動させるまでにタイムラグがある。[禁足]はそのタイムラグを利用し、発動の瞬間だけを妨害することで魔術を発動させなくする術式だ。
 妨害される魔術が何であれ、発動の瞬間さえ防げれば理論上はどんな強大な魔術でも発動を止めることができる。だが術式によって異なる発動タイミングの見極めが非常に難しく、しかも詠唱を隠すのはそのタイミングを誤魔化す意図もあるため、合わせるのは容易ではない。
 この時、クレアとミカエラは互いの詠唱が聞き取れるほど至近にいて、しかもミカエラはクレアの詠唱の癖やタイミングを熟知していた。だからこそ完璧にタイミングを合わせることができ、彼女の[禁足]は問題なくクレアの魔術を抑え込んだ。

「クレア!こげなこんなとこで[焼塵]やら使つこうてから!ウチら全員殺す気!?」

 [禁足]で発動を防がれたのが不思議だったのか、自分の掌をしげしげと見ているクレアにミカエラの怒声が飛ぶ。[焼塵]は赤属性の、つまり火炎系の魔術でもっとも攻撃力の高い、その場の全てを燃やし尽くすまで止まらない広範囲殲滅魔術である。明らかにこんな地下の、狭い部屋の中で撃つべき魔術ではない。

「うるさい」

 だがクレアは怒られたことも意に介さない様子で、すぐに次の詠唱を始める。

「溶が──」
「[禁足]!!って今度は[溶河]やら!あんたほんと大概にせんね!」

 [溶河]は大地を溶かしマグマに変えてその中に敵を落とし、塵ひとつ残さず焼き尽くす術式だ。そんなものをこんな所で使われたら、この場の全員が髪の毛一本残さず溶けて消えるに違いない。

「炎りゅ──」
「ああもう![禁足]!」

 [炎龍]は炎と熱で形作った巨大な“龍”を敵にぶつける直接攻撃魔術だ。龍、というのは東方に伝わる霊獣で、一般的に西方世界で知られる亜竜とは違って蛇のような細くて長い姿をしているのだという。何故その姿を象るのかは、太古の術式作成者でなければもはや分からない。
 だがそれはひとまずどうでもいい。問題はクレアに敵意があり、攻撃の手を止めないことだ。殺意まではなさそうだが、どう見ても正気ではないし明らかにやり過ぎである。どうやら“おとうさん”を守りたいようだが、術を放てば放つほど彼女自身が“おとうさん”を危険に晒していることにまるで気付いていない。
 というかそもそも、“エンヴィルおとうさん”を瀕死に追い込んだのもクレアあなたが放った[業炎]なんですがね?

「ちょっと!埒が明かないわよこれ!」
「分かっとう!ばってだけどどげんもどうにもならんやろうもん!」
「ちょっと団長さん!?クレアに一体何したの!?」

 この場で唯一状況を説明できそうな騎士団長にレギーナの詰問が飛ぶ。確かにどうなっているのか説明がなければ、これ以上の理解が及びそうにない。

「業火きゅ──」
「[禁足]ぅーー!!」

 ミカエラも[禁足]で防ぎ続けるしか手がない。魔術師としては明らかにクレアの方が格上なのだから、まともに術式を発動されてしまえば勝ち目はないのだ。
 だが、タイミングを読むのがシビアな[禁足]がいつまでも成功するとは限らない。クレアだって馬鹿ではないのだから、タイミングを外す手段ならいくらでも持っている。

「い…いや、私が聞いているのは、催眠暗示をかけて我々を味方だと思い込ませると、それしか──」
「暗示!?洗脳じゃなくて!?」

 つまりクレアは暗示によってエンヴィルという男を父親だと思い込まされ、その父を助けるために父を攻撃した(と思い込んでいる)レギーナたちに攻撃を仕掛けているのだ。

 端的に言って絶望的な状況であった。洗脳であれば脳に干渉する魔術的作用のある精神攻撃の一種なので、青属性のミカエラに解除の手段がある。だが暗示は「誤った情報を真実と思い込ませる」という刷り込みの技術なので、魔術ではないから解除が利かない。どうにかしてそれが間違っていると、思い込まされた者、この場合はクレアに気付かせなければならないのだ。
 そして、当のクレアは今まったく聞く耳を持たない。[静寂]の術式で詠唱の発音を封じたところで詠唱そのものは無音でも効力を発揮するし、物理的に身体を傷付けて精神集中をできなくすれば魔術の攻撃は止まるだろうがそれだけはしたくない。後で治せると分かってはいても、その時に受けた苦痛の記憶まで消せるわけではないのだ。

 つまり、この場でレギーナは全くの無力だった。クレアとミカエラの魔術の攻防に割って入れる力はないし、怪我をさせずにクレアを止めるのも無理だ。そしてレギーナが説得したところで今のクレアの心には届かない。

「姫ちゃん!こらもうアレしかないばい!」

 限界ギリギリの攻防を続けながらミカエラが叫ぶ。

「アレ?アレって何よ!?」
「クレアの“おとうさん”て言うたらおいちゃんの事やろ!おいちゃん呼んでくるしかなかばいないよ!」
「ええ!?」

 いやまあ確かに正気のクレアがアルベルトをおとうさんと呼んでいるのは事実だ。
 事実だが、事実ではない。そこはいいのか。

「それとも他になんか手があるとね!?」
「いや、それはそうだけど……」

 クレアに正気を取り戻させるためには、自分たちよりはるかに実力の劣る彼を頼るしかない。その事実がレギーナを躊躇わせる。

「早よしてて!ウチもそげん保たせられんっちゃけん!」
「爆は──」
「っ![禁足]うぅ!」

 会話しながらミカエラが[禁足]をかけ続ける。
 実は彼女はレギーナと会話しながら[禁足]をダブルで起動させ続け、タイミングの合う方で発動させていた。つまりレギーナとの会話が長引けば長引くほどミカエラの神経は磨り減っていく。

 もうこうなっては、背に腹は替えられない。
 そうしてレギーナは、悔しさと無力感を飲み込んでを選ぶ。

「敵前逃亡じゃないからね!退だからね!」
「分かっとうてるから!早よ行かんね!!」
「ミカエラも、死なないでよ!」
「死なせとうたくなかったら早よ行って早よ帰ってきて!」

 そしてレギーナは駆け出す。目指すは地上、別の作戦に向かっているアルベルトのもとへ──!





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