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【レティシア12歳】

042.危険しかないヤバい森

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 レティシアは駆けた。
 闇雲に駆けた。

 どこに行きたいか、どこに向かっているのか、そんなことはこの際どうでも良かった。
 ただ今は、アンドレの顔を見たくなかった。

 だって今彼の顔を見たら、きっと酷い言葉を投げつけてしまいそうだったから。


 森の中を走るのはもちろん初めてで、それどころか屋外で走ることさえ体術教師の指導監督下以外では初めてだ。予測不能なレベルで起伏があり、木々の生い茂る枝も不規則に張り出していてとても走りにくく、だがすぐにの思考に夢中になった。


 アンドレの言わんとすることは理解できている。
 彼が正しいということも。
 自分がワガママを言って困らせているのも解っている。

 でも、ちょっとくらい良いじゃない。
 5歳の頃からずっと頑張ってきたのよ?少しくらいワガママを言ったって許されるはずだわ。
 なのに、どうしてアンドレさまは分かってくださらないの?


 走りながら、頭の中をぐるぐると考えが巡る。
 考えれば考えるほど、いつだって理不尽なほどに誰からも『公女レティシア』を押し付けられる現状に、次第に腹が立ってきた。

 もうっ。頭にくるわ。
 わたくしだって怒るときは怒るのですからね!
 アンドレさまのバカ!意地悪!

 そうして我慢できなくなって、一言文句を言ってやろうと彼女は足を止め、振り返った。

「………………あ、あら?」

 そこには、誰も居なかった。
 太い幹の木々が陽射しを遮り、風も遮られるのか梢の擦れ合う音さえも聞こえてこない。もちろん見渡す限り人の声はおろか気配すらなく、というより木々の幹と枝葉とその合間の闇しかなかった。
 そして足元は、レティシアの腰ほどまである深い藪。もちろん道などない。

「………………………えっ。ここ、どこなの?」

 レティシア12歳。
 こうして彼女はエールスの森で


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「た、大変だ!」
「見失ったぞ!」

 レティシアの護衛たちが慌てふためくなか、アンドレは呆然とするばかりであった。
 今まで、アンドレの言葉に彼女が無視したり反抗したりしたことなどなかった。懇切丁寧に教え諭してやれば、必ず彼女は理解し受け入れてきた。
 だから、今度もまた聞いてくれる。そう思っていたのに。

「か、[感知]だ!せめて方角だけでも⸺」
「そんな、私の感知範囲にそれらしき反応がありません!」
「何だと!?」

 無属性魔術の[感知]の術式は、自己の魔力を糸のように伸ばし、それを自分を起点として網のように編み上げ四方に広げて、それが届く範囲の魔力の反応を探る術式だ。
 その性質上、自分に向かってくる反応を捉えるには有用だが遠ざかる反応を拾うのは難しい。また術者の魔力量によって効果範囲も感知精度も変わるため、確実性にやや欠ける。

「ええい、こうなったらとにかく捜索を⸺」
「だ、だが、この人数でか!?」

 レティシアに随行してきている護衛は六名。セー近郊で、騎士であるアンドレが一緒にいることを考えると過剰とも言える人数だったが、こうなってしまうとこの広いエールスの森を六名で捜索するのは無謀に過ぎる。しかも伯爵夫人でもある侍女ジョアンナと馭者のためにも、脚竜車付近にも護衛を残さねばならない。
 かといってセーの別邸や騎士団セー支部に応援を要請するのは憚られる。ノルマンド公女レティシアの失踪などという大事件を表沙汰になどできるわけがない。
 彼女を一刻も早く見つけ出し、。でなければこの場の全員の首が飛ぶ。おそらく物理的に。

「ブザンソン様」

 呆然としたままのアンドレに、ジョアンナが声をかけた。護衛たちも馭者も慌てふためく中で、何故か彼女だけが落ち着き払っている。

「効率的にお嬢様をお捜しするために、お知恵をお貸し下さいまし」

 効率的にと言われても、アンドレだって森の奥深くまではほとんど立ち入った事がない。それでも森に不慣れな護衛たちよりははるかにマシだが、そもそも“魔力なし”で[感知]も使えないアンドレには人海戦術しか思い浮かばない。

「とっ、とりあえず、護衛の方はここに二名残って下さい。あとの方は⸺そうですね、[感知]の得意な方と青加護の方がおられれば捜索に回って頂いて、⸺あ、捜索は全員が固まって行動します」
「なっ、なんですと!?」

 必死で頭を働かせつつ捜索方針を決めてゆくアンドレの言葉に、護衛たちから悲鳴のような声が上がる。広大なエールスの森で分散しないと言われたのだから無理もない。

「この森では単独行動のほうが危険です。灰熊は概ね排除が済んでいますが、奥地にはまだいるかも知れません。それにこの森は、樹蛇が多い」

 樹蛇とは、主に森林に生息する中型の蛇である。普段は樹の上に潜んでいて、その下を獲物が通りかかると樹上から音もなく襲い掛かってくる、なかなか厄介な相手だ。
 中型とはいえ体長は50デジ約1mを超える。単独行動していて首にでも巻きつかれたら、そのまま絞め殺されるのがオチだ。

「じゅ、樹蛇……!」
「ですので行動は最低でも二名以上で、地理に不案内なのを加味すると私の側を離れないのが最上です」
「な、なるほど……分かり申した」
「それから、ほぼ間違いなく黒狼の群れが出ます。10匹程度の小規模の群れなら問題ないですが、20匹を超えてくるとひとりふたりでは捌き切れなくなります」

 黒狼は西方世界ではごくありふれた標準的な狼だが、群れで生活し群れで狩りをする。動きも素早く警戒心が強いため、単独では大きな群れに襲われればひとたまりもない。

「クッ……確かに……」
「あとこの森には崖や洞窟なども点在していますが、絶対に近寄らないように。洞窟猪が出るぐらいならまだいいが、蛇竜だりゅうが出るかも知れません。そうなるとレティシア様の捜索どころではなくなります」
「そ、そんなモノまで……!?」

 さすがは手付かずの原生林である。危険しかない。

 ちなみに洞窟猪とは洞窟の入口付近の暗がりに潜んでいて、前を通りかかったり無警戒に入ってきたりする獲物に突進して、堅い頭蓋の頭突きと長い牙でもって襲いかかる厄介な獣だ。だが肉が美味で冒険者パーティなどが好んで狩る。この洞窟猪を飼いならして繁殖させ品種改良したものが、食卓でおなじみの里猪ブタである。
 そして蛇竜。脚竜と同じく“亜竜”の一種で、洞窟や崖の付近の土中に潜んで通りがかった獲物を襲う危険な相手だ。森で暮らす狩人や木こりたちにとっては灰熊以上に最悪の存在で、発見されればまず確実に冒険者ギルドに討伐依頼が出される。その鱗は非常に硬く討伐は困難を極めるが、首尾よく倒せば上質な鎧の材料となるため高値で取引される。

「たっ、大変だ……!ますます一刻を争うではないか!」

 そう。そんな危険な森で、わずか12歳のレティシアだけがひとり行方不明になったのである。





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