3 / 91
その微笑みに、未来を重ねて
その春は、風がやわらかかった。
陽の光も、今思えば少し眩しすぎるくらいに優しくて、あの頃の自分の心とよく似ていた。
レオナルドとの出会いは、知人を介した紹介だった。
貴族階級では珍しくもない、“良家同士のつりあい”を見計らった出会い。
「まぁ、良いのではないかしら」
「お互い、きちんと話して決めればいい」
両親も、強く押すでもなく、反対するでもなかった。
カタリーナ自身も、この縁が“運命”だと思っていたわけではない。
最初に会ったときの彼の印象は、今でも覚えている。
淡い灰色の上衣に、品よく結ばれたシルクのタイ。
整えられた指先と、深い青の瞳。
貴族らしく洗練されていて、そして何より──とても、紳士的だった。
「初めまして、レオナルド・セレスタです」
「……カタリーナ・リベルタと申します」
そう名乗った時の声が、自分でも驚くほど硬かったのを覚えている。
鼓動は速く、喉が乾き、まるで舞台に立っているみたいだった。
息苦しくなるほど緊張していた。
彼の外見は──正直に言えば、好みではなかった。
穏やかな顔立ち、整っているが、どこか冷たく見える横顔。
けれどその声は低く静かで、所作には誠実さがにじんでいた。
最初の誘いは、思いがけず早かった。
三度目の面会のあと、退出しようとしたカタリーナに、レオナルドが声をかけた。
「……庭園のバラが、そろそろ見頃のようです。もしご都合がよろしければ、明日の午後、ご一緒にいかがですか」
その言葉に、カタリーナは一瞬、呼吸を忘れた。
丁寧で、柔らかく、けれど決して軽くはない誘い方だった。
まるで何か大切なものに手を伸ばすような、真剣な声色。
「……はい。わたくしでよろしければ」
声がかすかに震えたのを、本人だけが気づいた。
頬が少し熱くなる。
断る理由も、明確な期待もない。ただ、あの人の隣を歩くという行為に、自分が少し緊張していることを初めて自覚した。
その午後、バラの庭園で過ごした時間は、穏やかで、けれど内側から熱を帯びるようなひとときだった。
彼は過度に話しかけることなく、けれど歩幅を合わせて歩き、
足元の花に視線を落としながら「この品種は祖父が好んで育てていたものです」と、ほんの少しだけ、自分のことを話してくれた。
カタリーナは、その話を聞きながら、心の張りつめた緊張がほどけていくのを感じていた。
そして、数日後──
「音楽堂で、弦の演奏会があるそうです。お嫌いでなければ、ご案内させてください」
それが、ふたりにとって二度目の誘いだった。
「弦の……?」
「はい。小規模なものですが、若い奏者たちによるものだとか。静かな音楽がお好きかと思いまして」
自分の好みを覚えていてくれたことが、ほんの少し嬉しかった。
演奏会当日。
礼装を控えめに整え、音楽堂のバルコニー席に並んで腰をかけたふたり。
高い天井に響く、柔らかな弦の音色。
カタリーナは視線を正面に向けたまま、レオナルドの横顔をちらりと見た。
彼は目を閉じ、音に耳を澄ませていた。
その姿が、なぜかとても静かに見えて、カタリーナの胸に不思議な安らぎをもたらした。
──この人は、騒がしさを好まない人なのかもしれない。
彼の沈黙は、ただの無関心ではなく、「静かに寄り添おうとする誠意」なのだと、
このとき初めて、そう感じられた。
演奏が終わると、彼は軽く拍手を送り、カタリーナに向き直った。
「ご負担にならなかったでしょうか」
「いいえ。とても……心地よかったです」
自分でも驚くほど素直にそう答えた。
彼の目がわずかにやわらいだ気がして、その一瞬が、カタリーナの心に静かに残った。
さらに数日後、屋敷の門前に一台の控えめな馬車が止まっていた。
春祭りを控えた城下の市井は、活気と彩りにあふれていた。
華やかな花飾りや果実の露店、職人たちの手仕事、民たちの笑い声。
貴族があえて足を運ぶことは少ない、にぎやかな通りを目指して──レオナルドは、ふたたび彼女を誘ったのだ。
「本日は、市の催しを少しご覧になりませんか」
馬車の前で待っていた彼は、いつもより柔らかな茶の上衣を身にまとい、穏やかな微笑を浮かべていた。
「お出かけの際は、足元にお気をつけて」
差し出された手を取ったとき、カタリーナは心がふっと揺れるのを感じた。
彼の指先は、驚くほどあたたかかった。
馬車の中では、互いに多くを語らなかった。
けれど沈黙は不思議と心地よく、揺れる車輪の音が、ふたりの距離を少しずつ近づけていくようだった。
やがて市に着くと、レオナルドは人混みを避けるように、裏路地に近い通りを選び、露店の並ぶ路地をゆっくりと歩いた。
「お好きなものは、ございますか?」
「……こういうの、あまり来たことがなくて」
少し戸惑いながらそう言ったカタリーナに、レオナルドは迷いなく一つの小箱を手に取った。
木細工のブローチ。小さな月と星をかたどった、素朴な一品。
「こういう品は、高価ではないですが……手作りの温もりがある。
私の母が昔、よくこういうものを好んでいました」
そう言って、そっとカタリーナに差し出した。
それは、贈り物というより、共有された記憶のようだった。
「ありがとうございます。……とても、綺麗ですね」
視線を合わせたその瞬間、カタリーナは気づいた。
彼の中にある静かな優しさは、贅沢ではない“穏やかな愛”のかたちなのだと。
春風が吹き抜け、祭りの香りがふたりの間を通り過ぎていく。
その一日が、ふたりの記憶にどんな形で残るかは、まだ知らなかった。
けれどカタリーナの中には、確かに何かが芽生え始めていた。
「カタリーナ嬢は、将来どんな家庭を思い描いていますか?」
ある日の散策中、彼がそんなことを尋ねた。
突然の問いに驚きながらも、カタリーナは、照れくさそうに笑って答えた。
「そうですね……家の中に笑い声があって、子どもたちが元気に走り回っていて、
……あと、たまには夫婦でお茶を飲みながら、今日のことを話せたら……嬉しいです」
レオナルドはしばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。
「それは、とても良い夢ですね。……私も、そうありたいと思います」
その言葉を聞いたとき、カタリーナの胸の中に小さな灯がともった。
熱ではなく、じんわりとした温もり。
胸の奥にひそんでいた不安が、少しだけほどけていくような感覚だった。
恋ではなかった。けれど、愛に育っていく余地があるかもしれないと、そう思えた。
この人となら、“幸せになろうと努力できる未来”があるのかもしれない。
そう思うことが、どこか救いに感じられた。
恋を知らないままの婚約だった。
けれど、それでもいいのだと思えたのはこの時が初めてだった。
陽の光も、今思えば少し眩しすぎるくらいに優しくて、あの頃の自分の心とよく似ていた。
レオナルドとの出会いは、知人を介した紹介だった。
貴族階級では珍しくもない、“良家同士のつりあい”を見計らった出会い。
「まぁ、良いのではないかしら」
「お互い、きちんと話して決めればいい」
両親も、強く押すでもなく、反対するでもなかった。
カタリーナ自身も、この縁が“運命”だと思っていたわけではない。
最初に会ったときの彼の印象は、今でも覚えている。
淡い灰色の上衣に、品よく結ばれたシルクのタイ。
整えられた指先と、深い青の瞳。
貴族らしく洗練されていて、そして何より──とても、紳士的だった。
「初めまして、レオナルド・セレスタです」
「……カタリーナ・リベルタと申します」
そう名乗った時の声が、自分でも驚くほど硬かったのを覚えている。
鼓動は速く、喉が乾き、まるで舞台に立っているみたいだった。
息苦しくなるほど緊張していた。
彼の外見は──正直に言えば、好みではなかった。
穏やかな顔立ち、整っているが、どこか冷たく見える横顔。
けれどその声は低く静かで、所作には誠実さがにじんでいた。
最初の誘いは、思いがけず早かった。
三度目の面会のあと、退出しようとしたカタリーナに、レオナルドが声をかけた。
「……庭園のバラが、そろそろ見頃のようです。もしご都合がよろしければ、明日の午後、ご一緒にいかがですか」
その言葉に、カタリーナは一瞬、呼吸を忘れた。
丁寧で、柔らかく、けれど決して軽くはない誘い方だった。
まるで何か大切なものに手を伸ばすような、真剣な声色。
「……はい。わたくしでよろしければ」
声がかすかに震えたのを、本人だけが気づいた。
頬が少し熱くなる。
断る理由も、明確な期待もない。ただ、あの人の隣を歩くという行為に、自分が少し緊張していることを初めて自覚した。
その午後、バラの庭園で過ごした時間は、穏やかで、けれど内側から熱を帯びるようなひとときだった。
彼は過度に話しかけることなく、けれど歩幅を合わせて歩き、
足元の花に視線を落としながら「この品種は祖父が好んで育てていたものです」と、ほんの少しだけ、自分のことを話してくれた。
カタリーナは、その話を聞きながら、心の張りつめた緊張がほどけていくのを感じていた。
そして、数日後──
「音楽堂で、弦の演奏会があるそうです。お嫌いでなければ、ご案内させてください」
それが、ふたりにとって二度目の誘いだった。
「弦の……?」
「はい。小規模なものですが、若い奏者たちによるものだとか。静かな音楽がお好きかと思いまして」
自分の好みを覚えていてくれたことが、ほんの少し嬉しかった。
演奏会当日。
礼装を控えめに整え、音楽堂のバルコニー席に並んで腰をかけたふたり。
高い天井に響く、柔らかな弦の音色。
カタリーナは視線を正面に向けたまま、レオナルドの横顔をちらりと見た。
彼は目を閉じ、音に耳を澄ませていた。
その姿が、なぜかとても静かに見えて、カタリーナの胸に不思議な安らぎをもたらした。
──この人は、騒がしさを好まない人なのかもしれない。
彼の沈黙は、ただの無関心ではなく、「静かに寄り添おうとする誠意」なのだと、
このとき初めて、そう感じられた。
演奏が終わると、彼は軽く拍手を送り、カタリーナに向き直った。
「ご負担にならなかったでしょうか」
「いいえ。とても……心地よかったです」
自分でも驚くほど素直にそう答えた。
彼の目がわずかにやわらいだ気がして、その一瞬が、カタリーナの心に静かに残った。
さらに数日後、屋敷の門前に一台の控えめな馬車が止まっていた。
春祭りを控えた城下の市井は、活気と彩りにあふれていた。
華やかな花飾りや果実の露店、職人たちの手仕事、民たちの笑い声。
貴族があえて足を運ぶことは少ない、にぎやかな通りを目指して──レオナルドは、ふたたび彼女を誘ったのだ。
「本日は、市の催しを少しご覧になりませんか」
馬車の前で待っていた彼は、いつもより柔らかな茶の上衣を身にまとい、穏やかな微笑を浮かべていた。
「お出かけの際は、足元にお気をつけて」
差し出された手を取ったとき、カタリーナは心がふっと揺れるのを感じた。
彼の指先は、驚くほどあたたかかった。
馬車の中では、互いに多くを語らなかった。
けれど沈黙は不思議と心地よく、揺れる車輪の音が、ふたりの距離を少しずつ近づけていくようだった。
やがて市に着くと、レオナルドは人混みを避けるように、裏路地に近い通りを選び、露店の並ぶ路地をゆっくりと歩いた。
「お好きなものは、ございますか?」
「……こういうの、あまり来たことがなくて」
少し戸惑いながらそう言ったカタリーナに、レオナルドは迷いなく一つの小箱を手に取った。
木細工のブローチ。小さな月と星をかたどった、素朴な一品。
「こういう品は、高価ではないですが……手作りの温もりがある。
私の母が昔、よくこういうものを好んでいました」
そう言って、そっとカタリーナに差し出した。
それは、贈り物というより、共有された記憶のようだった。
「ありがとうございます。……とても、綺麗ですね」
視線を合わせたその瞬間、カタリーナは気づいた。
彼の中にある静かな優しさは、贅沢ではない“穏やかな愛”のかたちなのだと。
春風が吹き抜け、祭りの香りがふたりの間を通り過ぎていく。
その一日が、ふたりの記憶にどんな形で残るかは、まだ知らなかった。
けれどカタリーナの中には、確かに何かが芽生え始めていた。
「カタリーナ嬢は、将来どんな家庭を思い描いていますか?」
ある日の散策中、彼がそんなことを尋ねた。
突然の問いに驚きながらも、カタリーナは、照れくさそうに笑って答えた。
「そうですね……家の中に笑い声があって、子どもたちが元気に走り回っていて、
……あと、たまには夫婦でお茶を飲みながら、今日のことを話せたら……嬉しいです」
レオナルドはしばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。
「それは、とても良い夢ですね。……私も、そうありたいと思います」
その言葉を聞いたとき、カタリーナの胸の中に小さな灯がともった。
熱ではなく、じんわりとした温もり。
胸の奥にひそんでいた不安が、少しだけほどけていくような感覚だった。
恋ではなかった。けれど、愛に育っていく余地があるかもしれないと、そう思えた。
この人となら、“幸せになろうと努力できる未来”があるのかもしれない。
そう思うことが、どこか救いに感じられた。
恋を知らないままの婚約だった。
けれど、それでもいいのだと思えたのはこの時が初めてだった。
あなたにおすすめの小説
離婚した彼女は死ぬことにした
はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。
もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。
今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、
「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」
返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。
それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。
神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。
大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
初恋にケリをつけたい
志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」
そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。
「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」
初恋とケリをつけたい男女の話。
☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)
旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。
クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」
平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。
セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。
結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。
夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。
セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。
夫には愛人がいた。
愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される…
誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?
すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。
人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。
これでは領民が冬を越せない!!
善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。
『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』
と……。
そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。