鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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その微笑みに、未来を重ねて

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その春は、風がやわらかかった。
 陽の光も、今思えば少し眩しすぎるくらいに優しくて、あの頃の自分の心とよく似ていた。

 レオナルドとの出会いは、知人を介した紹介だった。
 貴族階級では珍しくもない、“良家同士のつりあい”を見計らった出会い。

「まぁ、良いのではないかしら」
「お互い、きちんと話して決めればいい」

 両親も、強く押すでもなく、反対するでもなかった。
 カタリーナ自身も、この縁が“運命”だと思っていたわけではない。

 最初に会ったときの彼の印象は、今でも覚えている。

 淡い灰色の上衣に、品よく結ばれたシルクのタイ。
 整えられた指先と、深い青の瞳。
 貴族らしく洗練されていて、そして何より──とても、紳士的だった。

「初めまして、レオナルド・セレスタです」
「……カタリーナ・リベルタと申します」

 そう名乗った時の声が、自分でも驚くほど硬かったのを覚えている。
 鼓動は速く、喉が乾き、まるで舞台に立っているみたいだった。
 息苦しくなるほど緊張していた。

 彼の外見は──正直に言えば、好みではなかった。
 穏やかな顔立ち、整っているが、どこか冷たく見える横顔。
 けれどその声は低く静かで、所作には誠実さがにじんでいた。

 

 最初の誘いは、思いがけず早かった。

 三度目の面会のあと、退出しようとしたカタリーナに、レオナルドが声をかけた。

「……庭園のバラが、そろそろ見頃のようです。もしご都合がよろしければ、明日の午後、ご一緒にいかがですか」

 その言葉に、カタリーナは一瞬、呼吸を忘れた。

 丁寧で、柔らかく、けれど決して軽くはない誘い方だった。
 まるで何か大切なものに手を伸ばすような、真剣な声色。

「……はい。わたくしでよろしければ」

 声がかすかに震えたのを、本人だけが気づいた。
 頬が少し熱くなる。
 断る理由も、明確な期待もない。ただ、あの人の隣を歩くという行為に、自分が少し緊張していることを初めて自覚した。

 その午後、バラの庭園で過ごした時間は、穏やかで、けれど内側から熱を帯びるようなひとときだった。

 彼は過度に話しかけることなく、けれど歩幅を合わせて歩き、
 足元の花に視線を落としながら「この品種は祖父が好んで育てていたものです」と、ほんの少しだけ、自分のことを話してくれた。

 カタリーナは、その話を聞きながら、心の張りつめた緊張がほどけていくのを感じていた。

 

 そして、数日後──

「音楽堂で、弦の演奏会があるそうです。お嫌いでなければ、ご案内させてください」

 それが、ふたりにとって二度目の誘いだった。

「弦の……?」
「はい。小規模なものですが、若い奏者たちによるものだとか。静かな音楽がお好きかと思いまして」

 自分の好みを覚えていてくれたことが、ほんの少し嬉しかった。

 演奏会当日。
 礼装を控えめに整え、音楽堂のバルコニー席に並んで腰をかけたふたり。
 高い天井に響く、柔らかな弦の音色。
 カタリーナは視線を正面に向けたまま、レオナルドの横顔をちらりと見た。

 彼は目を閉じ、音に耳を澄ませていた。
 その姿が、なぜかとても静かに見えて、カタリーナの胸に不思議な安らぎをもたらした。

 ──この人は、騒がしさを好まない人なのかもしれない。

 彼の沈黙は、ただの無関心ではなく、「静かに寄り添おうとする誠意」なのだと、
 このとき初めて、そう感じられた。

 演奏が終わると、彼は軽く拍手を送り、カタリーナに向き直った。

「ご負担にならなかったでしょうか」

「いいえ。とても……心地よかったです」

 自分でも驚くほど素直にそう答えた。
 彼の目がわずかにやわらいだ気がして、その一瞬が、カタリーナの心に静かに残った。

 

 さらに数日後、屋敷の門前に一台の控えめな馬車が止まっていた。

 春祭りを控えた城下の市井は、活気と彩りにあふれていた。
 華やかな花飾りや果実の露店、職人たちの手仕事、民たちの笑い声。
 貴族があえて足を運ぶことは少ない、にぎやかな通りを目指して──レオナルドは、ふたたび彼女を誘ったのだ。

「本日は、市の催しを少しご覧になりませんか」

 馬車の前で待っていた彼は、いつもより柔らかな茶の上衣を身にまとい、穏やかな微笑を浮かべていた。

「お出かけの際は、足元にお気をつけて」

 差し出された手を取ったとき、カタリーナは心がふっと揺れるのを感じた。
 彼の指先は、驚くほどあたたかかった。

 馬車の中では、互いに多くを語らなかった。
 けれど沈黙は不思議と心地よく、揺れる車輪の音が、ふたりの距離を少しずつ近づけていくようだった。

 やがて市に着くと、レオナルドは人混みを避けるように、裏路地に近い通りを選び、露店の並ぶ路地をゆっくりと歩いた。

「お好きなものは、ございますか?」

「……こういうの、あまり来たことがなくて」

 少し戸惑いながらそう言ったカタリーナに、レオナルドは迷いなく一つの小箱を手に取った。
 木細工のブローチ。小さな月と星をかたどった、素朴な一品。

「こういう品は、高価ではないですが……手作りの温もりがある。
 私の母が昔、よくこういうものを好んでいました」

 そう言って、そっとカタリーナに差し出した。
 それは、贈り物というより、共有された記憶のようだった。

「ありがとうございます。……とても、綺麗ですね」

 視線を合わせたその瞬間、カタリーナは気づいた。
 彼の中にある静かな優しさは、贅沢ではない“穏やかな愛”のかたちなのだと。

 春風が吹き抜け、祭りの香りがふたりの間を通り過ぎていく。
 その一日が、ふたりの記憶にどんな形で残るかは、まだ知らなかった。

 けれどカタリーナの中には、確かに何かが芽生え始めていた。

 

「カタリーナ嬢は、将来どんな家庭を思い描いていますか?」

 ある日の散策中、彼がそんなことを尋ねた。
 突然の問いに驚きながらも、カタリーナは、照れくさそうに笑って答えた。

「そうですね……家の中に笑い声があって、子どもたちが元気に走り回っていて、
 ……あと、たまには夫婦でお茶を飲みながら、今日のことを話せたら……嬉しいです」

 レオナルドはしばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。

「それは、とても良い夢ですね。……私も、そうありたいと思います」

 その言葉を聞いたとき、カタリーナの胸の中に小さな灯がともった。

 熱ではなく、じんわりとした温もり。
 胸の奥にひそんでいた不安が、少しだけほどけていくような感覚だった。

 恋ではなかった。けれど、愛に育っていく余地があるかもしれないと、そう思えた。

 この人となら、“幸せになろうと努力できる未来”があるのかもしれない。
 そう思うことが、どこか救いに感じられた。

 恋を知らないままの婚約だった。
 けれど、それでもいいのだと思えたのはこの時が初めてだった。
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