鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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やさしさの仮面

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朝の光が差し込み始めた頃、カタリーナは静かに目を開けた。
 昨夜は、深く眠れたわけではなかった。  
けれど、目覚めたとき、隣に眠る小さなぬくもりがあるだけで、ほんの少しだけ心が安らいでいた。    

ティモシオがもぞもぞと身じろぎをする。  
その頬に唇を寄せ、そっと囁いた。 
「おはよう、ティモ。今日は、いい日になるといいね」 彼の手が自然と自分の指を握る。  
小さな指の強さが、どれほどカタリーナの心を支えていることか、それは誰にも、見えないことだった。

けれど、それでもカタリーナは信じていた。
この手の中にあるものが、自分を立たせてくれている。
それだけは、確かなことだと。

****

月日は流れ。。

朝の光が差し込む寝室に、いつものように姿を見せる。 
彼がこうしてティモシオに会いに来るのは、もうすっかり日課になっていた。  
産まれたばかりの頃は戸惑っていた彼も、今ではほぼ毎朝こうして寝室を訪れ、わが子の成長を確かめるように目を細める。   

「おはよう、ティモシオ」  
低くやさしい声が響くと、ティモシオが小さく手足をばたつかせた。 
 
それは、父の声をちゃんと覚えている証だった。    
あやすように近づいたレオナルドが、彼の額にそっと触れる。
 
「よく寝たか?」 
その手つきは、どこかぎこちないながらもやさしくて、カタリーナは、その姿をそっと見つめた。  

少し前までは、触れることすら躊躇していたのに。  
いまでは、朝の最初の一言をティモシオにかけることを、レオナルド自身が望んでいるようにさえ見える。 

ティモシオは、くぐもった声で「あー……パパ……」とつぶやいた。
その瞬間、レオナルドの手がふと止まる。

「……今、パパって言ったか?」

カタリーナは微笑みながら頷いた。

「ええ。最近、よく言うのよ。はっきりじゃないけれど、呼びたくて仕方ないみたい」    
ティモシオは、父の顔をじっと見上げながら、小さな手を伸ばした。
レオナルドは驚いたように目を細め、そっとその手を自分の指で包んだ。

その指先はまだ柔らかく、頼りないのに、
不思議と、あたたかな力があった。

「……パパ、か」

その言葉を繰り返したレオナルドの声には、どこか誇らしげな響きがあった。
そして、ほんのわずかに寂しさも混じっていた。

それは、「初めてのパパが、自分ではなかったかもしれない」
ティモシオが「パパ」と言ったのは、今が初めてではないとカタリーナが言った。 

つまり、「その成長の瞬間」にレオナルド自身がいなかった。 
父としての自分が少し遅れてしまったことを実感した瞬間だった。

そして、ああ、もうそんなに大きくなったんだと漸く気づく、時間の喪失。

カタリーナはすべての成長を見守ってきたのに、自分は仕事ばかりで、しっかり見てこれなかった後悔。
ここまで立派に元気に育ってくれたことで、誇らしいけれど、少しだけ距離がある様にも感じた。
更に、自分が必要とされる時期が、あっという間に過ぎていくのではないかと。

これまで、もっと見ていてやれたのに──
そんな後悔にも似た思いが、彼のまなざしに揺れていた。


カタリーナは、その様子を見ながら、胸の奥で何かがほどけるような感覚を覚えた。

レオナルドの手の中で、ティモシオは声を立てて笑い、
その笑顔が、朝の光とともにふたりの間をやわらかく満たしていく。
 
「……あんなふうに笑うんだな」
ぽつりとこぼしたレオナルドの声が、まるで初めて見た宝物のように響いていた。

「……なんだか、不思議な感じだな」

カタリーナは何も言わなかった。
いま、こうして来てくれること。それが彼なりの答えだと、もうわかっていたから。

その言葉が、静かに部屋の空気をあたためていく。

カタリーナはふと、自分の心に灯ったひとすじの光を感じた。
言葉少なでも、ちゃんとこの子に向き合おうとしている
レオナルドなりのやり方で、少しずつ父としての表情を持ちはじめている。

それはまだ、“夫婦として”ではなかったけれど、親としての関係の糸が、確かに編まれはじめている気がした。


朝食の時間になり、食堂には柔らかな陽射しが差し込んでいた。
長いテーブルには、焼きたてのパンや果実の盛り合わせ、香り高いハーブティーが並べられ、
いつもより少しだけ華やかな雰囲気に包まれていた。

「ほら、ティモ。今日はリンゴのジャムよ。好きでしょう?」

カタリーナがやさしく言いながら、小さな皿にほんの一匙を添えると、
ティモシオは満面の笑みで小さなスプーンを握った。

レオナルドはその様子を見て、ふと目を細めた。
そして、スープに手を伸ばす前に、静かにひと言だけ添えた。

「……なんだか、ずいぶん大きくなったな」

それは、カタリーナに向けた言葉だった。
ティモシオのことを“わが子”として見ている、確かな声だった。

使用人たちは控えめに給仕をしていたが、
家族三人が一緒に食卓を囲む光景に、そっと微笑みを浮かべていた。

朝食のあと、ティモシオは使用人とともに庭へ。
春の光に包まれて、まだ覚束ない足取りで草花に手を伸ばし、
「おはな!」「ちょうちょ!」と楽しげな声を響かせていた。

カタリーナは窓越しにその様子を見守り、ふと、レオナルドも同じように庭を見つめていることに気づく。

「こんなふうに、毎日外で遊べるようになったんですよ」

「……そうか。……あの子、よく笑うんだな」

その言葉に、カタリーナの胸がじんと温かくなった。
言葉は少なくても、確かに見てくれている
それだけで、十分だった。

「……そうか。……あの子、よく笑うな」

レオナルドの視線は、庭で遊ぶティモシオの小さな背中に向けられていた。
こんなふうに笑う子どもだったのか。

その笑顔に触れるたび、胸の奥が静かに揺れる。
嬉しいはずなのに、少しだけ痛むのはなぜだろう。

知らなかった。
ティモシオが風に手を伸ばして、小さな声で蝶の名を呼ぶことも。
花を見ては、目を輝かせることも。
そんな当たり前の“日々”に、自分がいなかったという事実だけが、胸に残る。

気づけば、その小さな命は、すでに自分のいないところで育っていたのだ。
それでも、今こうして笑ってくれている。
だからこそ、これからは少しずつでも、父親としてそばにいたいと思ってしまう。

レオナルドは、何かを噛みしめるように黙った。
あの子の笑顔が、まぶしくて、そして……どこか、遠かった。

その言葉に、カタリーナの胸がじんと温かくなった。
言葉は少なくても、確かに“見てくれている”──
それだけで、十分だった。


午後、書斎の文箱を整理していたカタリーナは、一通の手紙を見つけた。
上質な封筒に、見覚えのある紺の封蝋。

義母からだった。

『カタリーナ様

今週末、お屋敷へお伺いいたします。
ティモシオの成長を、ぜひこの目で拝見したく思います。

ご準備のほど、よろしくお願いいたします。』

整った筆致。必要最小限の言葉。
整った文面の奥には、何かを見定めようとする目が隠れているようだった。
 ──お義母様が、来る。

胸の奥に、きゅっと冷たい緊張が走る。

まだ何も言われていないのに、心がざわめいた。
孫を見に来ると言いながら、きっと、自分のことも見極めに来るのだろう

カタリーナは封筒を閉じ、胸元でひとつ息を整えた。

「……大丈夫。やるべきことを、やるだけ」

母として。妻として。
そして、ひとりの女性として。

その決意を胸に抱きながら、再び窓の外を見やった。

ティモシオの笑い声が、まだ風の中に、かすかに響いていた。
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