鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

文字の大きさ
15 / 91

すれ違う夫婦

月日は流れ、ティモシオは三歳になった。

よちよちと歩いていた小さな足は、今では軽やかに庭を駆け回る。
言葉も随分と覚え、「パパ」から「お父様」へ、「ママ」から「お母さま」へ──
きちんとした言葉を使おうとする姿に、カタリーナは日々の成長を噛みしめていた。

「お母さま、ぼく、きょうね、お花に“こんにちは”って言ったよ」
ティモシオの澄んだ声が、屋敷に柔らかな音を運ぶ。

カタリーナは笑って「ご挨拶、上手ね」と応えた。
けれど、その笑顔の奥には、どこか拭えない寂しさがあった。

ふとした瞬間──ティモシオがレオナルドに向かって「お父様」と呼ぶその声に、
レオナルドがどこか、ぎこちないように見えるときがあった。

それは、父としての責任を感じている表情なのか、
それとも、どこかまだ戸惑いがあるのか──
カタリーナには、わからなかった。

不在がちのレオナルドだったが、ティモシオが嫡男である以上、
毎日ではなくとも、短い時間だけでも顔を見せるようにしていた。

けれど、それはほんの一瞬の訪問だった。
部屋の扉を開け、子どもの顔を確かめ、ひと言ふた言だけ言葉をかけて、
まるで“確認”のようにすぐに背を向けて出ていく。

「お父様、きょうもおしごと?」
ティモシオが小さな声で問いかけても、
レオナルドは「……ああ」とだけ応えると、視線をそらすように扉の向こうへ消えていった。

その後ろ姿を、カタリーナは静かに見つめていた。
あの人は何を感じているのだろう──
愛しいと思っているのか、それとも、ただ“跡継ぎ”としての重みだけを見ているのか。

答えはいつも、沈黙の中に消えていった。



カタリーナは母として、ひとつひとつの成長を見守りながら、屋敷の中で静かに過ごしていた。
刺繍や茶葉の選別、子どもの服の縫い直し……毎日は決して派手ではないが、そこに自分の居場所があると思えた。

けれど、レオナルドとの距離は、気づけばまた、ゆるやかに離れ始めていた。

 
朝食の場に彼が姿を見せない日が増えた。
夜も執務室に籠もることが多く、ふたりで過ごす時間はほとんどなかった。

ある夜、珍しく寝室にレオナルドが姿を見せた。
カタリーナが掛け布の上に手を置きながら、そっと尋ねる。

「お忙しいの?」

レオナルドは一度だけ頷き、カフスを直しながら淡々と答えた。
「そうだな……報告書が思ったよりも多くて。今夜は戻れそうにない」

それだけ言って、まるで“通りすがり”のように扉を閉めた。

彼は短くそう言って、軽くカフスを直しながら立ち去った。
足音が遠ざかるたび、寝室の空気が冷えていくようだった。

 
カタリーナはその背中を見つめながら、そっと枕に顔をうずめた。

(彼が向かう場所に、自分の居場所はもうないのかもしれない。
でも、そんなに忙しいなら、私にも言ってくれたらいいのに……)

ほんの少しでも、どんなことに追われているのか、どれほど疲れているのか。

わたしに、何ができるかなんて分からない。
けれど知りたいと思っているのは、それだけは本当だった。

手伝いたいとか、支えたいとか。
そんな言葉が、もしかしたら“重荷”になるのかもしれない。
でも、何も言ってくれないのは……それもまた、苦しかった。
そう思ったとき、胸の奥に、すうっと冷たい風が吹き抜けた。

言葉にするには、あまりに脆く、
問えばすべてが壊れてしまいそうで、口にできなかった。

 

翌朝、レオナルドの姿はなく、食卓には彼の手をつけていない紅茶だけが冷めていた。

ティモシオが「パパは?」と尋ね、カタリーナは笑って答える。

 
「お仕事よ。がんばってるの。……ティモも、がんばろうね」
けれど、その笑顔は自分に向けた仮面だった。

夜、レオナルドがようやく寝室に戻ってきた日、
カタリーナは話す言葉も、聞きたい言葉も、もう見つからなかった。

彼がベッドに腰掛け、ため息をひとつ漏らす音だけが、部屋に落ちた。

──話しかけてほしい。でも、話しかけるにはもう、遠すぎる。

カタリーナは、胸の奥にそっと手を置いた。

鼓動は確かにあるのに、それを誰にも届けられないまま、
ただ、静かに夜が

その翌日から、レオナルドの部屋には、
ふたたび長い灯がともるようになった。
感想 86

あなたにおすすめの小説

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

初恋にケリをつけたい

志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」  そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。 「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」  初恋とケリをつけたい男女の話。 ☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。

クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」 平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。 セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。 結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。 夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。 セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。 夫には愛人がいた。 愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される… 誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。 よろしくお願いします。

婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?

すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。 人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。 これでは領民が冬を越せない!! 善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。 『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』 と……。 そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。

嘘つきな貴方を捨てさせていただきます

梨丸
恋愛
断頭台に上がった公爵令嬢フレイアが最期に聞いた言葉は最愛の婚約者の残忍な言葉だった。 「さっさと死んでくれ」 フレイアを断頭台へと導いたのは最愛の婚約者だった。 愛していると言ってくれたのは嘘だったのね。 嘘つきな貴方なんて、要らない。 ※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。) 11/27HOTランキング5位ありがとうございます。 ※短編と長編の狭間のような長さになりそうなので、短編にするかもしれません。 1/2累計ポイント100万突破、ありがとうございます。 完結小説ランキング恋愛部門8位ありがとうございます。