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すれ違う夫婦
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月日は流れ、ティモシオは三歳になった。
よちよちと歩いていた小さな足は、今では軽やかに庭を駆け回る。
言葉も随分と覚え、「パパ」から「お父様」へ、「ママ」から「お母さま」へ──
きちんとした言葉を使おうとする姿に、カタリーナは日々の成長を噛みしめていた。
「お母さま、ぼく、きょうね、お花に“こんにちは”って言ったよ」
ティモシオの澄んだ声が、屋敷に柔らかな音を運ぶ。
カタリーナは笑って「ご挨拶、上手ね」と応えた。
けれど、その笑顔の奥には、どこか拭えない寂しさがあった。
ふとした瞬間──ティモシオがレオナルドに向かって「お父様」と呼ぶその声に、
レオナルドがどこか、ぎこちないように見えるときがあった。
それは、父としての責任を感じている表情なのか、
それとも、どこかまだ戸惑いがあるのか──
カタリーナには、わからなかった。
不在がちのレオナルドだったが、ティモシオが嫡男である以上、
毎日ではなくとも、短い時間だけでも顔を見せるようにしていた。
けれど、それはほんの一瞬の訪問だった。
部屋の扉を開け、子どもの顔を確かめ、ひと言ふた言だけ言葉をかけて、
まるで“確認”のようにすぐに背を向けて出ていく。
「お父様、きょうもおしごと?」
ティモシオが小さな声で問いかけても、
レオナルドは「……ああ」とだけ応えると、視線をそらすように扉の向こうへ消えていった。
その後ろ姿を、カタリーナは静かに見つめていた。
あの人は何を感じているのだろう──
愛しいと思っているのか、それとも、ただ“跡継ぎ”としての重みだけを見ているのか。
答えはいつも、沈黙の中に消えていった。
カタリーナは母として、ひとつひとつの成長を見守りながら、屋敷の中で静かに過ごしていた。
刺繍や茶葉の選別、子どもの服の縫い直し……毎日は決して派手ではないが、そこに自分の居場所があると思えた。
けれど、レオナルドとの距離は、気づけばまた、ゆるやかに離れ始めていた。
朝食の場に彼が姿を見せない日が増えた。
夜も執務室に籠もることが多く、ふたりで過ごす時間はほとんどなかった。
ある夜、珍しく寝室にレオナルドが姿を見せた。
カタリーナが掛け布の上に手を置きながら、そっと尋ねる。
「お忙しいの?」
レオナルドは一度だけ頷き、カフスを直しながら淡々と答えた。
「そうだな……報告書が思ったよりも多くて。今夜は戻れそうにない」
それだけ言って、まるで“通りすがり”のように扉を閉めた。
彼は短くそう言って、軽くカフスを直しながら立ち去った。
足音が遠ざかるたび、寝室の空気が冷えていくようだった。
カタリーナはその背中を見つめながら、そっと枕に顔をうずめた。
(彼が向かう場所に、自分の居場所はもうないのかもしれない。
でも、そんなに忙しいなら、私にも言ってくれたらいいのに……)
ほんの少しでも、どんなことに追われているのか、どれほど疲れているのか。
わたしに、何ができるかなんて分からない。
けれど知りたいと思っているのは、それだけは本当だった。
手伝いたいとか、支えたいとか。
そんな言葉が、もしかしたら“重荷”になるのかもしれない。
でも、何も言ってくれないのは……それもまた、苦しかった。
そう思ったとき、胸の奥に、すうっと冷たい風が吹き抜けた。
言葉にするには、あまりに脆く、
問えばすべてが壊れてしまいそうで、口にできなかった。
翌朝、レオナルドの姿はなく、食卓には彼の手をつけていない紅茶だけが冷めていた。
ティモシオが「パパは?」と尋ね、カタリーナは笑って答える。
「お仕事よ。がんばってるの。……ティモも、がんばろうね」
けれど、その笑顔は自分に向けた仮面だった。
夜、レオナルドがようやく寝室に戻ってきた日、
カタリーナは話す言葉も、聞きたい言葉も、もう見つからなかった。
彼がベッドに腰掛け、ため息をひとつ漏らす音だけが、部屋に落ちた。
──話しかけてほしい。でも、話しかけるにはもう、遠すぎる。
カタリーナは、胸の奥にそっと手を置いた。
鼓動は確かにあるのに、それを誰にも届けられないまま、
ただ、静かに夜が
その翌日から、レオナルドの部屋には、
ふたたび長い灯がともるようになった。
よちよちと歩いていた小さな足は、今では軽やかに庭を駆け回る。
言葉も随分と覚え、「パパ」から「お父様」へ、「ママ」から「お母さま」へ──
きちんとした言葉を使おうとする姿に、カタリーナは日々の成長を噛みしめていた。
「お母さま、ぼく、きょうね、お花に“こんにちは”って言ったよ」
ティモシオの澄んだ声が、屋敷に柔らかな音を運ぶ。
カタリーナは笑って「ご挨拶、上手ね」と応えた。
けれど、その笑顔の奥には、どこか拭えない寂しさがあった。
ふとした瞬間──ティモシオがレオナルドに向かって「お父様」と呼ぶその声に、
レオナルドがどこか、ぎこちないように見えるときがあった。
それは、父としての責任を感じている表情なのか、
それとも、どこかまだ戸惑いがあるのか──
カタリーナには、わからなかった。
不在がちのレオナルドだったが、ティモシオが嫡男である以上、
毎日ではなくとも、短い時間だけでも顔を見せるようにしていた。
けれど、それはほんの一瞬の訪問だった。
部屋の扉を開け、子どもの顔を確かめ、ひと言ふた言だけ言葉をかけて、
まるで“確認”のようにすぐに背を向けて出ていく。
「お父様、きょうもおしごと?」
ティモシオが小さな声で問いかけても、
レオナルドは「……ああ」とだけ応えると、視線をそらすように扉の向こうへ消えていった。
その後ろ姿を、カタリーナは静かに見つめていた。
あの人は何を感じているのだろう──
愛しいと思っているのか、それとも、ただ“跡継ぎ”としての重みだけを見ているのか。
答えはいつも、沈黙の中に消えていった。
カタリーナは母として、ひとつひとつの成長を見守りながら、屋敷の中で静かに過ごしていた。
刺繍や茶葉の選別、子どもの服の縫い直し……毎日は決して派手ではないが、そこに自分の居場所があると思えた。
けれど、レオナルドとの距離は、気づけばまた、ゆるやかに離れ始めていた。
朝食の場に彼が姿を見せない日が増えた。
夜も執務室に籠もることが多く、ふたりで過ごす時間はほとんどなかった。
ある夜、珍しく寝室にレオナルドが姿を見せた。
カタリーナが掛け布の上に手を置きながら、そっと尋ねる。
「お忙しいの?」
レオナルドは一度だけ頷き、カフスを直しながら淡々と答えた。
「そうだな……報告書が思ったよりも多くて。今夜は戻れそうにない」
それだけ言って、まるで“通りすがり”のように扉を閉めた。
彼は短くそう言って、軽くカフスを直しながら立ち去った。
足音が遠ざかるたび、寝室の空気が冷えていくようだった。
カタリーナはその背中を見つめながら、そっと枕に顔をうずめた。
(彼が向かう場所に、自分の居場所はもうないのかもしれない。
でも、そんなに忙しいなら、私にも言ってくれたらいいのに……)
ほんの少しでも、どんなことに追われているのか、どれほど疲れているのか。
わたしに、何ができるかなんて分からない。
けれど知りたいと思っているのは、それだけは本当だった。
手伝いたいとか、支えたいとか。
そんな言葉が、もしかしたら“重荷”になるのかもしれない。
でも、何も言ってくれないのは……それもまた、苦しかった。
そう思ったとき、胸の奥に、すうっと冷たい風が吹き抜けた。
言葉にするには、あまりに脆く、
問えばすべてが壊れてしまいそうで、口にできなかった。
翌朝、レオナルドの姿はなく、食卓には彼の手をつけていない紅茶だけが冷めていた。
ティモシオが「パパは?」と尋ね、カタリーナは笑って答える。
「お仕事よ。がんばってるの。……ティモも、がんばろうね」
けれど、その笑顔は自分に向けた仮面だった。
夜、レオナルドがようやく寝室に戻ってきた日、
カタリーナは話す言葉も、聞きたい言葉も、もう見つからなかった。
彼がベッドに腰掛け、ため息をひとつ漏らす音だけが、部屋に落ちた。
──話しかけてほしい。でも、話しかけるにはもう、遠すぎる。
カタリーナは、胸の奥にそっと手を置いた。
鼓動は確かにあるのに、それを誰にも届けられないまま、
ただ、静かに夜が
その翌日から、レオナルドの部屋には、
ふたたび長い灯がともるようになった。
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