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新たなる出発
嫌がらせの向こうに
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それは、じわじわと染み出すように始まった。
最初は気のせいかと思っていた。
報告書の回覧が、なぜか彼女の机だけ飛ばされていたり。
共有の資料棚にあるはずの帳簿が、決まってカタリーナの当番のときに見当たらなかったり。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ」
「見落としだったのかもね」
謝罪とも釈明ともつかない言葉を残して、同僚たちはすぐに話をすり替えた。
だが、それが一度や二度ではないと気づいたとき、カタリーナはようやく、これが偶然ではないことを悟った。
「お疲れ様です」
庁舎の給湯室で小さく頭を下げても、誰かが無言のまま出て行く。
配属当初は感じなかったその態度の変化に、心がじわりと冷えていくのを感じた。
噂が、広がっている。
それは恋の噂などという可愛らしいものではなかった。
「護衛の騎士を使って、自分だけ仕事を楽にしている」
「立場を利用して甘えてるのよ」
そんな陰口が、まるで地下水のように職場の隅々に染み渡っていた。
リディアを中心に、表向きは微笑をたたえている同僚たちの視線が、日に日に棘を帯びていく。
(私は……何もしていないのに)
言い返せば、余計に目立つ。
無視すれば、さらに図に乗っていると囁かれる。
逃げ道のない圧力の中で、カタリーナはそっと息を詰めながら、日々をやり過ごすしかなかった。
けれど、そんな彼女の様子に、静かに目を向けていたひとりの男がいた。
ダリオだった。
彼は助けになりたいと願っていた。
だが、庁舎の上層部では既に、ある懸念がささやかれていた。
「護衛として公平に振る舞ってもらわねば困る。
……あまり一人の女性職員に肩入れしているように見えるのは問題だ」
直属の上司から、そう釘を刺されたのは数日前のことだった。
「業務中は、業務にもっと集中してくれ。特に文官との私語や接触は、周囲からの誤解を招く」
その言葉には、どこか非難ではなく、忠告としての重みがあった。
そして極めつけに、こうも言われたのだ。
「これ以上改善が見られないようなら、護衛の配置替えも検討するよう、上から指示が来ている」
ダリオは言葉を失った。
それは、カタリーナの傍から引き離される可能性を意味していた。
何もできない。
そう実感した瞬間、悔しさと無力感が胸の奥を締めつけた。
ただ見ているだけの自分に、腹が立った。
どうすればいい?
助けになりたいのに、声をかけることすら許されない。
今後、彼女とどう接していけばいいのか。
自分の立場を守るべきなのか、信念を貫くべきなのか──
答えの出ない問いが、心の中でぐるぐると渦を巻いていた。
****
そんなある日、庁舎内の執務室にダリオが戻ると、直属の上司に声をかけられた。
「ダリオ、少し時間を取ってくれないか。……実は私用でな」
上司のその言い方には、どこか思いつめたような重さがあった。
「うちの娘と、一度会ってくれないか。彼女が……お前のことを気に入っているらしくてな」
思わぬ言葉に、ダリオは思わず息を呑んだ。
上司の娘、それは、庁舎内で働く若い女性職員で、リディアとも親しくしている、カタリーナと同じ部署の文官だった。
しかも彼女は、すでに父親に対して「ダリオと婚約したい」と懇願していたのだという。
「もちろん、強制はしない。ただ、彼女も年頃だし、上層部としてもそろそろダリオ、お前自身の将来を見据えて、家庭を持ち安定した立場を築くよう勧めているところでな……」
まるで暗に、将来の選択肢として考えろと告げられているような口ぶりだった。
ダリオの胸に、再び重い沈黙が落ちた。
確かに、自分ももう四十歳に近い。
護衛騎士としての務めを果たしてきた年月は長く、周囲がそろそろ家庭や安定を求めるのも理解はできた。
だが『家庭を持ち、安定した立場を築くように』という上司の言葉は、まるで娘と結ばれれば将来の出世が約束されるかのような含みを持っていた。
カタリーナを思い浮かべたとき、胸の奥が静かに痛んだ。
最初は気のせいかと思っていた。
報告書の回覧が、なぜか彼女の机だけ飛ばされていたり。
共有の資料棚にあるはずの帳簿が、決まってカタリーナの当番のときに見当たらなかったり。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ」
「見落としだったのかもね」
謝罪とも釈明ともつかない言葉を残して、同僚たちはすぐに話をすり替えた。
だが、それが一度や二度ではないと気づいたとき、カタリーナはようやく、これが偶然ではないことを悟った。
「お疲れ様です」
庁舎の給湯室で小さく頭を下げても、誰かが無言のまま出て行く。
配属当初は感じなかったその態度の変化に、心がじわりと冷えていくのを感じた。
噂が、広がっている。
それは恋の噂などという可愛らしいものではなかった。
「護衛の騎士を使って、自分だけ仕事を楽にしている」
「立場を利用して甘えてるのよ」
そんな陰口が、まるで地下水のように職場の隅々に染み渡っていた。
リディアを中心に、表向きは微笑をたたえている同僚たちの視線が、日に日に棘を帯びていく。
(私は……何もしていないのに)
言い返せば、余計に目立つ。
無視すれば、さらに図に乗っていると囁かれる。
逃げ道のない圧力の中で、カタリーナはそっと息を詰めながら、日々をやり過ごすしかなかった。
けれど、そんな彼女の様子に、静かに目を向けていたひとりの男がいた。
ダリオだった。
彼は助けになりたいと願っていた。
だが、庁舎の上層部では既に、ある懸念がささやかれていた。
「護衛として公平に振る舞ってもらわねば困る。
……あまり一人の女性職員に肩入れしているように見えるのは問題だ」
直属の上司から、そう釘を刺されたのは数日前のことだった。
「業務中は、業務にもっと集中してくれ。特に文官との私語や接触は、周囲からの誤解を招く」
その言葉には、どこか非難ではなく、忠告としての重みがあった。
そして極めつけに、こうも言われたのだ。
「これ以上改善が見られないようなら、護衛の配置替えも検討するよう、上から指示が来ている」
ダリオは言葉を失った。
それは、カタリーナの傍から引き離される可能性を意味していた。
何もできない。
そう実感した瞬間、悔しさと無力感が胸の奥を締めつけた。
ただ見ているだけの自分に、腹が立った。
どうすればいい?
助けになりたいのに、声をかけることすら許されない。
今後、彼女とどう接していけばいいのか。
自分の立場を守るべきなのか、信念を貫くべきなのか──
答えの出ない問いが、心の中でぐるぐると渦を巻いていた。
****
そんなある日、庁舎内の執務室にダリオが戻ると、直属の上司に声をかけられた。
「ダリオ、少し時間を取ってくれないか。……実は私用でな」
上司のその言い方には、どこか思いつめたような重さがあった。
「うちの娘と、一度会ってくれないか。彼女が……お前のことを気に入っているらしくてな」
思わぬ言葉に、ダリオは思わず息を呑んだ。
上司の娘、それは、庁舎内で働く若い女性職員で、リディアとも親しくしている、カタリーナと同じ部署の文官だった。
しかも彼女は、すでに父親に対して「ダリオと婚約したい」と懇願していたのだという。
「もちろん、強制はしない。ただ、彼女も年頃だし、上層部としてもそろそろダリオ、お前自身の将来を見据えて、家庭を持ち安定した立場を築くよう勧めているところでな……」
まるで暗に、将来の選択肢として考えろと告げられているような口ぶりだった。
ダリオの胸に、再び重い沈黙が落ちた。
確かに、自分ももう四十歳に近い。
護衛騎士としての務めを果たしてきた年月は長く、周囲がそろそろ家庭や安定を求めるのも理解はできた。
だが『家庭を持ち、安定した立場を築くように』という上司の言葉は、まるで娘と結ばれれば将来の出世が約束されるかのような含みを持っていた。
カタリーナを思い浮かべたとき、胸の奥が静かに痛んだ。
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