夜と初恋

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 ホテルから抱えられるようにして沖の部屋に帰ってきたのは大晦日の朝、八時間ほど前のことだった。いま寝室の時計は午後四時を表示している。
 沖は朝早くに帰ってきた理由を、あのままでは律のことを抱き潰してしまうからだと言った。
 確かに食事はベッドの上で沖から与えられたものを口にしていただけだし、お風呂に入っても場所が変わったというだけで、ずっと沖と肌をあわせていた。途中から記憶が曖昧だけれど、シャワーブースでは沖に支えられて、あらぬ場所を指で洗われていたように思う。
 今朝ここに帰ってきてすぐ沖と二人で寝室へ入り、昼下がりまで一緒に睡眠をとった。沖はそのあと買い物に出かけ、年末年始に必要なものを色々と買い込んで帰ってきたようだ。いまはキッチンにいるのだと思うが、沖の体力には舌を巻く。
 律はまだベッドの中で、ホテルで過ごしたことを考えてはぐるぐると思考を巡らせていた。
 自分があんなにも甘い声を上げるだなんて思ってなかったし、ひっきりなしに喘ぎすぎていまも少し声が掠れている。肌もまだ沖に触れられているような感覚がして、あちこちがざわついて仕方がない。ふぅっとくちびるがこぼすため息も、なんだか熱くて落ち着かなかった。
 まだ、沖が欲しいのだと思う。あんなに身体を繋いだくせに、もっと抱きしめて欲しいし、もっと内側をいっぱいに満たして欲しかった。
 沖はたぶん、セックスが上手なのだ。律の身体が変に痛むこともなかったし、時間をかけてくれたおかげもあって、受け入れるときも快感しかなかった。圧迫感は酷くあったけれど、沖のあの大きさを考えれば致し方ないことだろう。
 プールで泳いだあとのような気だるい心地良さで寝返りを打つ。もう一度小さく息をついたのと同時に、寝室のドアが開いて沖が入ってきた。
「起きてるか」
 ベッドの端へ腰を下ろした沖が、横たわる律の頬にキスを落としてくる。それからくちびるにも。
「んん……」
 あたり前のように舌を絡ませ、やわらかく吸い上げられる。律の目にうっすらと涙が浮かんだところでそれは終わり、やさしく前髪を撫で上げられた。
「……また勃ちそうだ」
 耳元に低く艶めいた声で囁かれ、かあっと顔が熱くなった。
 そんな律をコーヒー色の瞳で愛しげに見つめて、沖は喉の奥で笑った。
「客がきてるんだが、顔は出せそうか。律に話しておきたいことがあるんだ」
 こんな時間に誰だろうか。いままで沖の部屋に人が訪ねてきたことはなかったのに。そう思いながらもこくりと頷く。
「ちょっと待ってろ」
 沖は律の意思を確かめてからウォークスルークローゼットへ入り、中から沖のセーターを持ってきた。
「冷えるといけないから、パジャマの上からこれを着ろ」
 手触りの良いダークチャコールのカシミヤのセーターを頭から被せられる。沖に支えられてラグマットの上に立つと、律の膝の上までの長さがあった。
「雪下の店でも折り曲げてたよな、制服のシャツ」
 沖はそう言って手首までが出るように袖口を折り曲げてくれる。初めて二人が出逢ったときの、些細なことを憶えてくれているのが嬉しかった。
「じゃあ行くか」
 沖に差し出された手を取り寝室から出てリビングに入ると、知った顔がソファで優雅に脚を組んでいた。
「片桐さん……」
 今日は眼鏡の奥の双眸がやわらかに微笑んでいる。
「お邪魔しているよ、律くん。悪かったね、疲れているのに」
 沖の話によると片桐の職業はヤクザではなく、本当は弁護士なのだそうだ。だからなのか大晦日でもきちんとスーツを着て、美味しそうにコーヒーを飲んでいた。
「いえ……」
 沖と手を繋いだままで気恥ずかしかったが、あのホテルでそれ以上に恥ずかしいモノを見られているので――松川との行為で自分の大事な部分が見えたと思う――今更かと思い直し、沖と並んで片桐の向かいのソファに座った。
 するとソファのあいだにあるテーブルの上に、片桐のものとは別に紅茶のカップが置いてあるのに気づく。
 沖はコーヒー派だしめずらしいなと思っていると、洗面に続く廊下側からリビングに入ってきた人がいた。
 シャンパン色のイブニングドレスを着た、長い黒髪の細身の綺麗な女性だった。
 ラウンドネックの首元から露出する肩にかけては、細いゴールドのチェーンが白い肌に幾重にも女性的な弧を描いていた。人魚に似た裾の形はマーメイドラインと呼ばれているものだろう。施設にいた頃、外国のアニメを見ながら女の子たちがドレスについて楽しそうに話していたのを思い出す。
「イヤリングは大丈夫だったか」
 沖が彼女に声をかけると、彼女は大ぶりのイヤリングの片側を少し気にしながら、頷いてソファへとやってきた。
「あ」
 そして律の顔を見るなり声を立て、表情を和らげて笑みを見せた。すらりとした体形も、笑ったときの淡いルージュのくちびるの形も、なにもかもが美しかった。
 あまり見つめすぎたからだろうか。彼女が律へと近づいてくる。そしてそのやわらかな笑顔のまま、律のことをぎゅっと抱きしめてきた。
「えっ……」
 彼女のさらりとした黒髪が律の頬を撫でると同時に、官能を感じさせる濃密なパルファムがふわりと香る。
「こら、ヒイラギ」
 低く放たれた沖の言葉に、律の鼓動が一瞬で跳ね上がった。
「ヒイラギ、さん……?」
 この人が、沖の大切な……。
 目を見開いて本当なのかと隣を見上げると、沖は眉間にたくさんのシワを寄せて、律に抱きつくヒイラギの腕をつかんだ。
「律に触るな。お前、これから恋人と出かけるんだろう」
 無理やり律と引き離されると、ヒイラギは沖に向かって顔をしかめて舌を出した。その綺麗な顔に似合わないポーズがなんだか可愛らしい。
「ハグくらいいいじゃないか。とっくに一彬に潰されてると思ってたし。……でもホントにいい表情になったね、律くん。それにすごく色っぽくなった。これは一彬も色々と心配だなぁ……って、だから鎧代わりにお前のセーター着せてきたのか?」
「な……なん、で……」
 この声を自分は知っている。いつでも律にやさしい、あの……。
「ゆっ、雪下さん……?」
 半信半疑で確かめると、目の前の美女は正解だと言って胸の前で手を叩いた。
「でも、髪の毛違うし……胸もちゃんとある……」
 雪下の髪は茶色でふわふわしているはずで、イブニングドレスの胸元には二つのふくらみがあった。
「あ、これ? 女装用のおっぱいがあるんだよ。髪はウィッグ。今度律くんにも教えてあげ……」
「教えんでいい。お前は片桐の横に戻れ」
 雪下の言葉に被せて反論をすると沖は向かいのソファを顎で指し、律を軽々と自分の膝の上に乗せてしまった。この格好はものすごく恥ずかしいので、人前ではやめて欲しいのだけれど。
「うわぁ、独占欲丸出し」
 指定の席に座った雪下が沖に言い放つと、その隣で片桐が咳払いをした。
「沖、俺のほうの話を進めてもいいかな」
 心なしか表情を引き締めると、片桐はテーブルの上に複数の封筒を置いた。
「これが戸籍謄本と住民票。法務局のものは役所に提出されていた婚姻届の写しだ。あとは万全を期して、不動産、預貯金、生命保険、有価証券などの各種資産証明書というところだな。念のため所有している車の車検証のコピーも用意しておいてくれ」
「わかった。すまないな、片桐」
「いや。これも律くんのためだから」
 片桐と雪下の視線が同時に律に向けられる。自分のためだとは、どういうことなのだろうか。
「どうして、沖さんの書類が……おれのためなんですか」
 律は膝の上で沖の精悍な顔を見上げ、答えが欲しくてその腕をぎゅっとつかんだ。
「年明けに、美咲との婚姻無効確認調停を申し入れる」
「婚姻無効……確認調停?」
 律の呟きに片桐が頷いた。
「戸籍謄本と役所に提出された婚姻届を持って、家庭裁判所で調停をおこなうんだ。話しあいで相手と合意できたら、この結婚自体がなかったことになる。沖は離婚じゃなくて、それを狙っているんだよ」
 結婚自体が、なかったことになる。
「律くんはそんなの考えてなかったよねぇ」
 雪下に言われ、うんうんと首を振った。
「調停でだめなら、次は婚姻無効確認の訴えだね。これは家庭裁判所での訴訟になるよ」
「どう違うんですか」
 難しくてよくわからないけれど、沖が律のためにするというのなら自分もきちんと知っておきたいと思った。
「調停で呼出しをしても、相手が無視して裁判所にこないケースもあるからね。そういうときは訴訟を起こして、相手がこなくても婚姻が無効であることを証明することができれば、その婚姻は無効だという判決を得られるんだ」
「できれば調停でカタをつけたいところだな。訴訟になるとどうしても……あとのことがあるし」
 律を抱きしめる沖の腕に、力が入った。
「いずれにせよ婚姻届を偽造して役所に出したとなれば、刑法で複数の罪に問われるからね。示談に応じるから前科がつく前に本人が調停にこいと、相手方に念を押しておくよ」
 片桐は淡々と話すけれど、弁護士としてはよくある案件なのだろうか。勝手に婚姻届を出すとか、律には本当に考えられないことだけれど。
「どうしてこんなことに……」
 チラリと沖を見ながら聞いた。
「あてつけだ。プライドの高い女だからな。少しくらいは遊びに付き合ってやってもいいと思っていたが、俺もまさかここまでするとは思わなかったんだ。元々年明けには動こうと思っていたから、予定通りそうさせてもらう」
「本当にこんなこと、あてつけで……?」
 律の疑問に、沖は頷いて大きく息をついた。
「……美咲には昔からずっと好きな男がいるんだ。でもそいつが全然なびかないから、振り向いて欲しくてあてつけで俺と勝手に籍を入れた。そろそろ俺も美咲から解放されて、本来の相手にお任せしようかと思ってな」
「そんなことで、簡単に結婚する人が……」
「いるんだ、これが。寂しがりやといえばそうなんだろうが、構って欲しい相手を完全に間違えている。言いたいことがあるなら俺じゃなく、その惚れた男に言うべきだ。違うか」
 なぜか沖は雪下を見据えて言葉を放った。
「うん、ごめん」
 雪下が顔を歪めて頭を下げる。
「ど……どうして雪下さんが謝るんですか。沖さん、睨んじゃダメ……」
 雪下の傍に行こうと沖の膝でもがくけれど、その逞しい腕に閉じ込められて立ち上がることすらできなかった。
「違うんだ、律くん。あのね、美咲の好きな人っていうのが……オレの恋人なんだ」
 雪下の恋人ということは、ヒイラギの恋人ということで。
「あ……松川さん」
「うん。美咲はずっと松川が好きなんだ。それこそオレたちが中学の頃からだから、二十年以上になるかな」
「考えたら恐ろしい話だな。律くんが生まれる前からだ」
 片桐が自分の言った言葉に、しきりに頷いている。
 そんなに昔から、ひとりの人が好きだったなんて。そういえば水原も美咲は一途なのだと言っていた。
「オレが松川のこと……律くんのことがあるまで、恋人としてちゃんと受け入れられなかったから。だからここまで拗れちゃって。律くんにも迷惑かけて、ごめんね」
 雪下が律に向かって頭を下げた。
「そんなこと……」
「一彬に言われたんだ。オレがはっきりしないから現状がこうなってて、オレたち全員がそれぞれ立ってる場所に縛りつけられているって。実際その通りなんだよ。松川はオレが好きだから美咲とは付き合えないって、ずっと彼女に言い続けてくれてたんだけど……オレに自信がなかったんだ。オレも素直に松川のことが好きだって……せめて十年前にでも言えてたら、美咲だって一彬だって……律くんだっていやな思いをしなくてよかったのにって、思うから」
 そんな悲しそうな顔をしないで欲しい。雪下にはいつでもやさしく笑っていて欲しいから。
「おい誰だよ、ヒイラギ泣かせたの」
 声に驚いてその方向を見ると、いつの間にか松川がリビングのドアに背を預けて立っていた。
「お迎えご苦労だな、松川。いまの質問の答えとしては、ある意味お前自身だ」
 片桐がそう言いながらテーブルの上の書類を手早く片づけ、まとめて隅に押しやる。
「今回の一件は傘下の連中を把握しきれてなかった俺にも問題があった。特に一彬と律は巻き込んで申し訳ねえ。松川組ウチの該当者にはきっちり落とし前つけてきたから、安心してくれ」
 頭を掻きながらこちらへやってきた松川は、今日はダークスーツではなく華やかなタキシードを着ていた。そして当然と言わんばかりに雪下と片桐のあいだに腰を下ろす。
 あらためて彼のことを見てみると、雪下とはとてもお似合いの美しい一対だと思った。
「律があいつらに目ェつけられたのは、俺のせいなんだ」
 松川は憮然とした面持ちで雪下のウィッグの黒髪に手をやり、指先に絡ませた。
「初物の、美少年好き」
 ぼそっと呟いたのは片桐だった。
「まったく……そんなことになってるとは思わなかったぜ。俺はただシュウのことが好きで、待ってただけなのに」
 雪下が顔を真っ赤にして、違う意味で泣きそうになりながら下を向いた。
「誰かが林田たちに喋ったんだろうなぁ、俺がガキの頃からずっとシュウのケツばっかり追っかけてるって。でもしゃあないよなぁ、実際こんだけ魅力的なんだし」
 そう言って松川は、雪下のイブニングドレスの上からお尻を撫で回した。
「も、もう! そういうとこだぞ、いくま惟久馬いくまの悪いところ!」
 松川の手を押さえる雪下の手を、更に松川が押さえている。
「シュウって……雪下さん?」
「雪下 柊。柊と書いてシュウと読む。なかなか風流な名前だね。だから女装した雪下を俺たちはヒイラギと呼んでいるんだ。……松川、お前まだ律くんに報告することがあるだろう」
 片桐は律の問いかけに答えると、雪下を抱きしめ強引にキスを迫っている松川に視線を向けた。
 すると松川は姿勢を正して雪下の片手を握り、沖と律に深く頭を下げた。
「一彬、律、本当に悪かった。あの二人はしばらく国外へ飛ぶはずだから、許してくれ」
「えっと、あの……」
 言われた意味がわからずにいると、松川が経緯を話しだした。
「林田って男は須藤会の人間らしいんだが、今年の夏頃に松川組系ウチの三次団体の組長オヤと『出先の兄弟』の盃を交わしたらしい。出先ってのは自分の所属とは違う組のことだ。まあ兄弟と言っても七三か二分八の舎弟コドモなんだが、石川弘樹から見れば若頭オレ林田コドモも同じ松川組ってことだわな」
 弘樹が林田と知りあったのは、林田が松川組の三次団体である白羽組組長と盃を交わす直前で、どうやら違法薬物の売人と元締めという関係だったらしい。
「林田は須藤会が仕入れた薬物を、隠れてウチのシマで弘樹に捌かせてやがったんだ。言っとくがウチは薬物はご法度だからな」
 クリスマスの夜、松川が雪下に助けを求められて林田のことを調べさせると、すぐに須藤会の幹部から松川へ連絡が入ったそうだ。
「林田が弘樹とつるんでるのを向こうさんも把握しててな。須藤会側で処理するから二人とも渡せって言うんで承諾はしたんだが……。ウチがやられたことと律のこと考えたら腹が立ってきて、あいつらに一杯食わせてやりたくてよ。まあ、昨日で音を上げたから、そのあとちゃんと須藤の組長オヤジのところへ俺が直接引き渡してきたぜ。使いもんになったかは知らねえけどな。一彬も少しは溜飲が下がったか?」
 松川は沖に深い緑の視線をやると、ニヤリと口の端を上げた。
「下がるかよ。あいつ、俺の前で律が女より肌理が細かくていい肌してるだとか、尻がスベスベだとか言いやがって……クソッ。本当はこの手で弘樹を一発でいいから殴ってやりたかったぜ」
 二人が一体いつそんな話をしたのだろうかと律が驚くのと同時に、皆の前で急にそんな話をされて、怒るよりも恥ずかしくてどこかに隠れてしまいたかった。
「どうせなら一発といわず、気の済むまで殴っておけばよかったんだ。あいつ車の中でも同じようなこと言いながら、律くんのこと直接ベタベタ触ってたぞ。乳首つまんで舐めさせろとかも言っていたな」
「はぁっ !? お前、やめさせろよ! 触らせてんじゃねえぞ!」
 弁護士らしからぬ暴言を吐いた片桐に、沖が怒りを露わにする。
「努力はしたさ。でもあいつにはあれが精一杯なんだ。あいつに律くんは襲えない」
 遠くを見ながら語る片桐に、沖が食い下がる。
「なんでお前にそんなことがわかるんだよ」
「あのあとホテルで人生相談になったからだ。なんか挿入ができないらしいぞ。床オナでもし過ぎてフニャチンになったんだろう」
 片桐の言葉に納得したのか、沖が「あー……」と言いながら頭をかいた。
 律にはなんのことだかさっぱりだが、車中での弘樹の行動を沖に伝えるのはやめて欲しかった。
「律くんにはあんなことをして本当に申し訳なかったけど、あの拉致は沖と松川と俺で立てた計画だったんだよ」
「えっ……」
 再び片桐に物騒な言葉を聞かされて、律は驚いて目を瞠る。
 そして沖の口からも。
「あいつら律の居所を全然つかめないでいたから、こっちからお膳立てしてやったんだ。美咲のほうが索敵能力に優れてるってのは、ヤクザとしてどうかと思うがな。水原にも律の退勤時間を電話で教えてもらったから、捕まえるタイミングもバッチリだっただろう?」
 大体の話が見えてきた。律が仕事の帰りに簡単に捕まったのは、ここにいる大人三人の計画と、松川組の組員、そして水原の協力によるものだったのだ。
 あの時間、あの車がやってきて、そこに弘樹と一緒に片桐がいたのも、あのスイートルームでの出来事も、すべて。
 まったく気づかなかった自分に頭を抱えたくなる。これが用意周到というやつか。
 しかしさっき話していた松川の言葉に、少し引っかかりを覚える。
「松川さんが言った『一杯食わせてやりたくて』って、どういう意味ですか。あと『昨日で音を上げた』って、弘樹になにを……」
「大丈夫だよ。律くんの見ていないところで、ちゃんとお仕置きをしてあるからね」
 スイートルームで見たような、張りついた片桐の笑顔が怖い。これ以上聞いてはいけないサインだった。
「享二の理性にも感謝だな。俺にあの役は絶対やれねぇ」
 松川は腕を組んで、しきりに頷いている。
「そうだ、律。前の職場の解雇の件も、単なるこじつけだったぞ。笑わないとか言われて解雇されたみたいだが、そっちのほうが笑わせる。律はすごく可愛く笑うのにな」
 耳元で沖の甘い声が聞こえて、身体がビクリと反応してしまった。声にも吐息にも、身体が沖の愛撫を憶えてしまっていた。
 かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかって、恥ずかしさで律は自分の足元しか見られなくなる。
「その件もあの二人のせいだったよ。律くんを路頭に迷わせようと以前の職場に随分といやがらせをしていたようだけど、もうなにも心配しなくていいからね」
 そう片桐は言うと、律にニッコリと微笑んだ。あの張りついた笑顔を知らなければ、うっかり惚れる人も多いだろう。
「そうだよ律くん。一彬はホントにオススメの優良物件だから、律くんは安心して傍にいるといいんだよ……というか、傍にいてあげて。オレからのお願い。律くんだったらオレたちも安心して一彬を任せられるよ。ようやく一彬にも春がきたって感じ。よかったね、一彬」
 雪下はティーカップに残っていた紅茶を飲み干すと、沖と律にウインクをくれた。
 雪下にそう言ってもらえるのはすごく嬉しい。沖に守られるだけでなく、律が沖の役に立てることがあるのならば、なんだってしたいと思っている。
「沖さんのメインのお仕事って、なにをしているんですか」
 沖の大きな手に髪を撫でられると気持ちがいい。律は思わず猫のように目を細めて、ずっと思っていた疑問を沖にぶつけた。
「いわゆる不動産投資だ。わかりやすく言うと不動産の売買や家賃収入だな。元手の土地や建物は俺のジイさんのものだったんだが、両親が先に死んでるから代襲相続で俺の手元にのこった。それを賃貸に出したり、気に入ってくれれば売ったり、住みやすい部屋は手元に置いておいたりと、まあ色々だ。一部の飲食店のオーナーには格安で貸してるから、その礼に時々メシをご馳走になってる。全部じゃないが、律とも幾つか行っただろう」
 普段は高級レストランに行くことはないので、年末になると複数のお店のオーナーから招待がかかるのだそうだ。
 あの高級店通いにはそんな意味があったのか。だから沖は現金もカードも使わず、サインだけで済ませていたのだ。
「…もしかして、雪下さんのお店も?」
 視線を雪下に向けると、艶やかな黒髪を揺らして頷く。
「あのときのリクエスト、塩鯖定食だったんだよね。片桐の恋人の店も一彬が大家だから、一度二人で遊びに行くといいよ。うちは『Snow White』だけど、あっちは『Black sheep』っていうんだ」
 雪下がニカッと笑った。
「『Black sheep』は昼はカフェになっているので、姉妹店として是非よろしくお願いしますよ、律くん」
 片桐はそう言うとソファから立ち上がった。
「じゃあ明日はゆいと初詣に行くから、俺は帰るぞ。松川もこれから実業家連中と年越しパーティなんだろう。お前の参加は渋々なんだろうが、それに付き合うヒイラギのほうが大変なんだぞ。早く連れて行ってやれ」
「享二さ、俺の代わりに唯とパーティ行かねえ? なんなら衣装もこのまま貸すから……」
 一瞬、松川が子犬のような表情をする。
「行くわけがないだろう。今日から千尋くんが恋人とその友人カップルと一緒に旅行らしいから、やっと唯と二人になれるんだぞ」
「おお、唯の目に入れても痛くない従弟がいないのか。じゃあ今日は唯とヤリ倒すんだな!」
 今度はキラキラとグリーンアイを輝かせた大型犬だ。松川は意外にも表情が次々と変わって面白かった。
「そんなことをしたら部屋にも店にも出禁になる。まあ、唯にお願いされれば叶えるのは当然だが」
 眼鏡のブリッジを指でクイッと押し上げ艷冶えんやと笑う片桐に、「お前も早く帰れ」と沖が手で追い払う。
「みんな時間がないんだろう。今日はもう解散だ」
 沖のひと言で、それぞれが目的を持って玄関へと向かう。
 雪下はドレスにあわせたハイヒールなので、片桐が言ったようになにかと大変そうだった。
「律くん、キッチンに差し入れ置いてあるから、あとで一彬と食べてね。じゃあ、また逢おうね」
「すぐに逢えるさ。あのホテルの部屋で新年会やろうと思ってるから、ちゃんと律もこいよ」
 雪下にファーコートをかけてやりながら松川が言った。
 あの部屋のことを考えると顔が茹で上がるので、どう返答していいか困ってしまう。
「ま、気が向いたらな」
 助けを求めてそっと隣を見上げると、代わりに沖が答えてくれた。
「松川、雪下もありがとう。片桐もしばらく世話になる。香原かはらにもよろしく言っといてくれ」
「ああ、唯にも調停のことは伝えておく。律くんのこと壊すなよ」
 松川と雪下が玄関から先に出て、二人で律に手を振ってくれた。そして片桐が爽やかに笑って玄関のドアを閉じたところで、部屋に静寂が戻った。
「ご飯はどうしますか。雪下さんが差し入れくれてるって……」
「腹が減ったか? ホテルではあんまり食ってなかったからな」
「それもあるけど、おれ、まだ聞きたいことが……」
 律のいらえに沖は不気味なほどにっこりと笑って、じゃあ先に飯を食うかと言った。
 沖の手が律の手に触れ、絡めあって手をつないでそのままキッチンへと引っ張られた。


 ダイニングテーブルには『律くんへ』と書かれたメモと長方形の紙箱、そして朱塗りの三段の重箱が置いてあった。蓋を開けて覗いてみたところ、重箱はお節料理のようだった。
「蕎麦屋で海老天つきの年越し蕎麦セットを買ってきたから、それはあとで食うよな」
 沖に頷いてから椅子に座り、長方形の紙箱を開けてみる。中にはバゲットにトマトや葉野菜を敷きつめ、チキンとゆで卵をトッピングし、自家製のタルタルオーロラソースをたっぷり合わせて切り分けられた、バゲットサンドが入っていた。
「お節もこれも雪下の手作りだな」
「すごく美味しそう。いただきます」
 雪下の思いやりが伝わってくる、見た目も味もいいそれを椅子に座って黙々と食べていると、律が最近ハマっているほうじ茶のソイラテを沖が作ってくれた。
「雪下さんのも美味しいけど、おれは沖さんが作ってくれるものが、なんでも美味しくていちばん好きです」
 マグカップからひとくち飲んで、ホッと一息つく。沖の料理は、律の心まで温めてくれるのだ。
「しばらく外食とデリバリーが多かったからな。年末はどうしてもそうなっちまう」
 沖も向かいから立ったままバゲットサンドに手を伸ばすと、二切れほどをペロリと平らげた。
「『Holly Olive』のポスターは、雪下さんですか?」
「そうだ。店の現預金管理をしている者がいるって言っただろう。それが松川だ」
「松川さんの恋人だから……雪下さんはポスターのモデルをしているんですか」
「いや。本人には相当抵抗されたがブランドのイメージが雪下……ヒイラギにピッタリだったから、水原と一緒に頭下げて頼み込んだんだ。名は体を表すと言うし、あれはある意味、雪下柊のイメージポスターでもあるんじゃないか」
 でも……松川の恋人でも、ブランドのイメージが合っていたからだとしても、沖がヒイラギだけを愛していると言ったのは事実だ。
 あの人を手に入れられないから、律はその代わり……なのだろうか。そう考えるとズキリと胸が痛む。
 あのホテルの豪華な部屋であんなにも愛してもらったのに、やっぱり律は沖のいちばんにはなれないのだろうか。
 いまなら聞けそうな気がした。
「沖さんは、いまでも雪下さんのことが好きなんですよね」
「なんだって……?」
 沖が目を見開いて律を凝視する。律の言葉に驚愕といった様子だ。
「……なんでそう思うんだ」
 沖の眉間にゆっくりとシワが寄っていく。それから律の顎をつかまれ、視線をあわせるために上を向かされた。
 逃げられない。これは答えるしかなさそうだ。
「だって……現実では絶対に手にできない存在だって言ってたし、大切すぎて香月にも正体を教えないって。奥さんにも、ちゃんとヒイラギさんだけを愛してるって言ってたから……」
 沖は律の答えを聞いて大きく息を吐き出すと、向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「あのときは暗に美咲が俺たちのことをけなすから、松川はちゃんとヒイラギだけを愛していると言ったんだ。あいつ、『ヒイラギだけじゃないなんて、あなたたち本当にどうかしてる』って言っただろう? あれは俺やさっきまでいた友人たちに対する蔑みだ。美咲は同性間の恋愛にまったく理解がないからな」
 あのとき横っ面を引っぱたかれたことを思い出したのか、沖は自分の左頬を掌でさする。
「ヒイラギが手にできない存在だっていうのは、雪下は男なんだから女の雪下は現実にはいないわけで……。だからと言ってたとえ雪下が女でも、俺は恋愛という意味では付き合わないぞ。ブランドのイメージとしてならもちろん愛しているし、この世に存在しない、絶対に手にできないものだからこそ最高の女神様だとは思うけどな」
「そ……なんですか」
 少し怒ったような沖の説明に、律はホッと胸を撫で下ろした。
「それに、香月にヒイラギのこと教えたって意味なんてない。男の雪下を見せれば、香月はそれはそれで女の自分よりキレイだなんだって絶対むくれると思うし、かといって女装姿のヒイラギを見せるには逐一松川の許可がいるんだ。だったら香月にはいまのままヒイラギを女だと思わせておいて、ライバル心を燃やしてくれるほうがいいだろう」
 どうして雪下が女装をするのかはわからないが、松川の許可がいるということは、ヒイラギの姿は一部の人間にしか見せないということなのだろう。
「松川さんと片桐さんも、長いお付き合いなんですか」
「松川と雪下は赤ん坊の頃からだ。いわゆる近所の幼なじみってやつなんだが、俺は中学一年の前半を、事情があって施設で過ごしていてな。またあいつらと同じ学校に通えると思って帰ってきたら、そのあいだに松川が雪下に完全に惚れてたんだ。そもそも子供の頃からああだから美咲以上に長いぞ、松川が雪下のこと追っかけてるの」
 三十年以上だろう、と言った沖の言葉に仰天する。松川はその情熱を、美咲に想われる以上の年月をかけて雪下だけに向けてきたのだ。
「美咲は中学からの同級生だ。片桐とその恋人の香原唯は大学で知りあった。その一年後に、水原もな」
 二十年や三十年も続く友人関係。沖にとってあの人たちは、家族以上の存在なのかもしれない。
「俺と松川は境遇が似ていてな。松川は祖父ジイさんが松川組の二代目で、親父が三代目組長。俺は中学に入る前に両親が死んじまって母方のジイさんに育てられたんだが、そのジイさんが昔気質かたぎのヤクザの親分だった。俺と松川は成長する過程で、お互い組を継がないことを選んだ。俺にはもう受け継ぐ組もジイさんもないが、松川はまだ親父と揉めてる最中でな。将来的に組を継がないことを条件に、いまは若頭という立場で資金提供をしている。だがこれから松川が興す幾つかの会社に若手連中から移管させて、将来的には組の連中を会社員として雇う計画をしているんだ」
「松川組は、いずれなくなるんですか」
「いつかはわからんが、そうなるな。これから先、裏社会は一層の淘汰が進む。松川は常にそのときを見据えて行動しているんだ。なにより松川がヤクザにならないことが、雪下が松川と恋人になる第一条件だったしな」
 ほかにも聞きたいことがあるのかと促され、この際だからと思い切って口にしてみる。
「お、奥さんは……どうして、結婚相手に沖さんを選んだんですか」
「長年身近にいても、俺があいつに興味がなかったからじゃないか。実際ただの同居人よりひどかったしな。興味がないから俺が美咲を襲う心配もないわけだし」
「ここで一緒に住んでたんですか」
「いや、あいつのパパが用意したマンションだったぞ。パパも娘がやったことをわかっていたのか、寝室も別だったし顔をあわせることもほぼなかったしな。美咲がそのマンションに帰ってこなくなったから、俺もそのままここに引っ越してきたんだ」
 それを聞いて少し安堵した。しかしこの部屋で、沖がほかの人と一緒に過ごしている可能性だってあるのだ。
「……奥さん以外の人は、ここにきましたか」
「さっきのやつらと香原以外は入れたことないぞ。水原だってない。もう長いこと恋人も作らなかったしな。それより、奥さんって言うなよ。こっちは婚姻関係取り消そうとしてるんだぞ」
 沖は傷ついたと言って、心臓を片手で押さえる真似をする。
「沖さんの、恋人……」
 沖からそんな言葉が出てくるとは思わず、チクリと胸が傷む。
 それから沖の隣にいる自分ではない誰かを想像してしまって、じわりと涙が滲んだ。
 長くいなかったということは、その人のことが忘れられなかったのだろうか。その人を想い出して辛い夜には、寂しさを埋めるために一夜限りで違う誰かを抱いたのだろうか。
 いやだ。考えたってどうしようもないのに、くらい感情が律の胸に渦を巻く。
 わかっている。最近よくあるこれは嫉妬というものだ。
 律がグルグルと考え込んでいると、沖が椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んで律の隣の椅子に座った。
「そんなにくちびるを噛むな。傷がつくぞ。ほら……こっち向け」
「いや……」
 泣き顔を見られるのがいやで、身体ごと横に向きを変えて沖に背を見せた。
「なにがイヤなんだ。俺のことか?」
 どこまでも甘いささやきが耳に落ちてきて、律の心臓を跳ねさせる。
「りーつ。りつりつ。どうなんだ」
 背後から抱きしめられて、耳を食まれる。沖の息づかいやそこを舐められる水音が間近で聞こえて、ゾクゾクと身体が快感にふるえた。
「や、ぁ……っ」
 耳に厚みのある舌を挿し込まれ、その舌を周りに沿って這わされると、律の身体の中心が素直に頭をもたげた。
「ん、ぁ……や、だ……」
「いやじゃない。いい、だろう。教えたよな、律」
 沖の舌やくちびるが音を立てて律の耳を這い回っているあいだ、パジャマの隙間から侵入してきた片手が直に乳首を転がして、もう一方の手が下着の中の律自身を扱き始めた。
「あっ、やめ……」
 刺激に弱くなってしまったそこは早くもそそり立って、透明の雫をぷつりと浮かせている。
「これ、舐めてやろうか」
 先端の段差のある場所に指で刺激を与えながら、耳元で意地悪く言う沖にふるふると首を横に振った。
「どうして。好きだろう、舐められるの」
「だって……まだ……」
「まだ、なんだ?」
 確約が欲しかった。沖とこうしていてもいいという、確かな約束が。
「おれ……沖さんに言ってもらってない」
 我慢していたはずの涙が律の頬を伝う。
「おれは沖さんに好きって……言った。けど沖さんは……誰のことが好きなの?」
 沖から可愛くて仕方がないとは言ってもらえたけれど、好きだという言葉は一度も出てこない。
「ごめんなさい……沖さんに抱かれたこと、ちゃんと想い出にしようって思ってたのに……おれ、上手くできないみたいで……」
 諦めることなんてできないとわかっている。でも、もしも律にも望みがあるというのなら、沖からの言葉が欲しかった。
「律……」
 沖は座っていた椅子から立ち上がると、律の正面に回り込んで床に片膝をついた。それから律の両手を掌で包み込み、真っ直ぐに視線をあわせてくる。コーヒーブラウンの瞳がやさしく揺らめいて、とてもきれいだと思った。
「言葉が足りなくて悪かった。俺が好きなのは律だけだ。ずっと隣で笑っていて欲しい。俺のことをずっと好きでいて欲しい。俺に律を愛させて欲しい。とにかく、大切で……好きなんだ」
 包み込んだ律の指先に、沖がくちづけを落とす。
「想い出にするなんて簡単に言ってくれるな。それと、これ以上雪下に懐くな」
「ふふっ、なんですかそれ」
 最後のひとことに吹き出してしまったけれど、たくさんの言葉をもらったお返しに沖のくちびるにキスを落とした。
「嬉しいです。想い出にしなくていいなら……いまから抱いてくれますか」
「もちろん。じゃあ、どこにする?」
「どこって……」
 言われている意味がわからず首を傾げて聞き返すと、沖が律の耳にキスを落とす。
「ヤる場所。風呂か? それともさっきまであいつらがいたソファか? バルコニーで夜景を見ながら……なんてどうだ。開放感があって盛り上がるかもな」
「それはちょっと」
 寝室以外は見るたびに思い出してしまいそうで、恥ずかしくていやだった。バルコニーでなんて以ての外。絶対に阻止だ。
「ん? どこにするんだ、律」
 沖は意地悪く笑いながら再び律の耳を食み、その舌でいやらしく舐め上げてくる。律の答えを知っているくせに、沖は大人の余裕でそれを律に言わせようと楽しんでいるのだ。
 それなら、律の答えはこうだ。
「ちゃんといっぱい……沖さんを感じられる場所が、いいです……。おれを、気持ちよくして……?」
「……お前は俺を煽る天才か」
 沖はイタズラをやめ、困り顔をして律をやさしく抱きしめた。
「……その、俺たちは今朝までヤッてたんだが……痛くないか、身体」
 律がこくりと頷くと膝裏に手を差し込まれ、椅子から軽々と抱き上げられる。お姫様抱っこをされて、薄暗いままの寝室へと運ばれた。
 ベッドの上に下ろされたので、ダメになってしまわないよう沖のセーターだけを脱ぎ、サイドテーブルに畳んで置いた。沖の服なら、おそらく高価なものだろうと思ったからだ。
 沖はそんな律を見て目を細め、ベッドを軋ませて乗り上げてくる。すぐさまパジャマも下着も全部剥ぎとられて、結局裸にされてしまった。
「綺麗だ、律」
 頬や額にくちづけを落とされ、背中をシーツに押しつけられて、沖のくちびるが重なってきた。やわらかく吸い上げて、律のくちびるの割れ目を舌でつつき、隙間を見つけて潜り込んでくる。
「んん…っ……」
 舌を絡めとられ、お互いのそれを擦りつけあうように愛撫されると、飲み込みきれない唾液が律の口元を伝った。
 沖はくちびるを離してそれを舐めとると、ふたたび深くくちづけてくる。上顎や頬の内側、歯列の裏側にまでに舌が這い、ゾクゾクして気持ちがいい。
 まるで沖に食べられてしまうみたいだ。
 お互いの舌をあわせているだけなのに、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
 ぬるぬると這うそれはやがて律の舌をきつく吸い上げ、クチュリという音を立ててから離れると、二人のくちびるのあいだに銀の糸が光った。
「んっ……」
 とろんとした目でその銀糸を追いかけると、やがて切れて沖のくちびるへ収まった。そのくちびるが律の首筋に落ち、時々肌に痕を残しながら胸元まで移動した。
「ここも、気持ちがいいだろう」
「んぁ……っ」
 律の右胸の粒をねぶりながら、沖が言う。チロチロと舌先で粒を転がされて、甘い声を上げてしまった。
「指で弄るより舐められるほうが好いみたいだな。感度が良すぎるのか」
 沖はそう呟いて舌全体で粒を潰すように舐め上げてから、やさしくそこに吸いついた。
「あっ、ああぁ……っ」
 チュクチュクと音を立てて吸われると同時に舌でも転がされて、身体の中心に熱が集まる。その中心からトロリと透明な蜜がこぼれたのがわかって、羞恥でくちびるを噛んだ。
「噛むなと言っただろう」
 胸の粒から離れた沖のくちびるが重なってきて、律が噛んでいたところをペロリと舐め上げる。それからさっきまで吸っていた場所を親指でやさしく捏ね、今度は反対側の粒を舌で愛撫し始めた。
「んっ……あ……、あっ」
 乳首を同時に愛されると、気持ちよくて律の中心の熱がますます昂ぶる。
 その熱に触れたくて、シーツをつかんで脚をもじもじさせていると、沖の右手がその昂りを握り込んだ。
「一度出しておくか」
 片方の胸の粒から口を離さないまま、大きな手が律のモノを上下に扱き始める。丸みを帯びた先端にある鈴口から次々と蜜が溢れてきて、それを親指でぐるりと円を描くように塗りつけられた。
 沖は胸からくちびるを離すと律の脚を割ってそこに顔をうずめ、天を向く律の中心を咥え込む。
「あああっ! だめぇっ……」
 ぬるりとした温かな粘膜に包まれ、先端を吸われてイきそうになる。必死に堪えて上がった息を整えていると、沖が頭を上下させて律の屹立を愛し始めた。
 しっかりと奥まで咥えられ、頬の内側やくちびるで先端から根本まで刺激を与えられる。舌で執拗に裏筋を舐め上げられると、その快感に律の欲望は破裂してしまいそうだった。
「やだ……沖さん……も……イッちゃう……」
 律を追い込むように忙しなく上下する沖の髪をつかんで、内腿をふるわせる。爪先がピンと反り返って限界を迎えようとしたとき、沖の舌が先端のくびれに絡みついた。
「イク……ッ……あっ、ああっ、アァーッ!」
 我慢できずに数度にわたって白濁を吐き出す。その間も沖は休むことなく、律の欲望をくちびるで刺激し続けた。
 やがて沖の喉がコクリと鳴って、律が吐き出した精を嚥下したことがわかった。
「やだ……それ、恥ずかしい……」
 沖は紅く頬を染めて弱音を吐く律を見つめ、艶のある笑みを浮かべながら口元を拭う。それからおもむろに服を脱いで自分も裸になると、ヘッドボードの明かりをつけ、引き出しからジェルを取り出した。
「脚、自分で持ってろ」
 沖に言われるまま両膝の裏へ手を入れて胸につくようにすると、ジェルをまとった沖の指が律の蕾の上でやさしく円を描く。今朝まで沖の猛った肉茎を咥え込んでいた場所は、それだけで簡単に綻んだ。
「ん……ぁっ」
 ズルリ……と節の高い指が中に入り、ゆっくりと引き返していく。引き返したところでジェルを足され、二本に増えた指が再び侵入してくる。しばらくはその二本の指で襞をほぐし、内部を拡げられた。
「あ……、なんか、熱、い……?」
 じわじわと温かみが伴うことに違和感を覚え、沖に視線をやった。
「温感ジェルだ。冷たいよりはいいだろう?」
 沖が手にしているのは香水のような形のポンプ式の瓶に入った、薄いピンク色のジェルだった。香りもローズ系でリラックスができる。
 確かにホテルで今朝まで使っていた大きめのチューブに入ったものは肌に冷たかったが、この温感ジェルはどちらかというと、形といい女性向けの商品な気がする。
 沖はこれをどこで手に入れてきたのだろうか。いや、律にもひとつだけ心当たりがある。まさかと思うが、いつの間に……。
 何度かジェルを足す沖に視線をやると、ニッと笑って律の中の指を抜き挿しする。
「『Holly Olive』で売っているものだ。後ろ専用のジェルだから乾きにくいし、滑りがよくて泣くほど感じるぞ。発案者は香原なんだが、香りもいいしマッサージにも使えて人気商品だ。ラブグッズを語らせたら、香原より右に出るものはいないからな」
「んっ……そ、なんです……かっ、あ、んっ」
 ねっとりとした温かなジェルと沖の指で、中がいっぱいになる。肉壁を擦られて腹側の感じるポイントを指でやさしく押されると、さっき放ったばかりのモノがまた勃ち上がった。
「やっ、んんんーっ……!」
「律と最初に『Holly Olive』へ行ったときに、水原に渡されたんだ。律も色々サンプルもらってきただろう」
 最初といえば、初めて沖の腕の中で朝まで眠れた日だ。まさか水原はあのときから、自分と沖がこうなることをわかっていたのだろうか。
 沖の友人の中で誰よりも、水原がいちばんの大物ではないかと思った。
「そろそろいいか……」
 指を抜いた沖に軽くキスをされ、律はこくりと頷く。
 沖の腕が律の膝を抱え、片方だけが沖の肩に乗せられた。その脚のつけ根にも幾度かキスを落とされると、ジェルに濡れた沖の怒張が律の蕾に押しつけられた。
「は、っ……」
 息まないように深く呼吸をして沖を迎え入れる。律の呼吸にあわせ硬くそびえ立った男の灼熱が、後ろ用のジェルのねっとりとした滑りを借りてゆっくりと侵入してきた。
 ジェルのおかげでそれがどこまで挿入はいっているのか、様子が生々しくわかってしまってなんだか恥ずかしい。次に水原に逢うときはどんな顔をすればいいのだろう。
「あっ、あぁっ……」
 沖の怒張はその大きさゆえに、律の感じる場所すべてを擦り上げてくる。中ほどまで入り込んできては一度引き、次は更に奥を目指して肉の襞を掻き分けていく。それを何度か繰り返し、ようやく最奥まで受け入れるのだが、そのたびに前立腺を擦られて、律は我慢ができずに少しの精を漏らしていた。
「律……」
 沖は肩に乗せていた律の脚を下ろし、前髪をかき上げてくる。身体を倒してきてキスをされると、動いてもいないのに奥が感じて沖を締めつけてしまった。
「ッ……まだ締めるな」
「あっ、ん……だって、気持ちい……から」
 沖の肩につかまって快感をやり過ごす。少し楽になったのか、沖は律の膝を抱えると再びゆっくり抽挿を始めた。
「ぁ……、沖さん……っ」
 奥まで入った怒張を、抜ける寸前まで腰を引きまた穿うがつ。最初はゆっくりと、そして徐々にスピードを早めて律を官能の世界へと導いていく。
 ずっしりとした肉茎に蹂躙され、奥も前立腺も同時に擦り上げられ、なにも考えられなくなる。
 こんな幸せがあるなんて、少し前まで知らなかった。沖を好きになり、沖に愛され、幸せの涙が溢れた。
「沖さん……おき、さん……すきっ……好きです……」
 快感の前に投げ出された本音が、律の口を衝いて出る。沖は緩急をつけて律を穿ちながら、頬や額にキスをくれた。
 沖の腰の律動の気持ちよさに喘ぎ、快感に咽び泣く。奥まで突き挿れられ、揺さぶられるその行為が、律に対する沖の恋情を伝えてくるようで嬉しかった。
「あっ、あっ、あっ、あっ……いいっ……気持ちイイっ、あっ、あっ、あっ」
「一緒にイクぞ、律……」
 律を抱きしめる沖が、穿つスピードを上げていく。その熱くて硬い昂りが、いままでより熱を帯びているように感じた。
 もう欲望を吐き出したい、でもまだこの快感を味わっていたい……。
 頂点に昇りつめていく快楽に翻弄されながら、次第に頭の中が真っ白になる。
「イクっ、あぁーッ!」
 律は沖の腰にきつく両脚を巻きつけ、その背中にしがみついて法悦を極めると同時に、自分の中にいる沖の怒張をギュウッと締め上げた。
 その締めつけに沖も引き摺られ、律の最奥に熱い迸りが叩きつけられる。
「……クッ」
 ドクリと熱を放出し息を切らせた沖が肉茎を引き出すと、律の細身の身体に覆い被さってきた。
 お互いの荒い息が落ち着くまで律はその大柄な体躯を抱きしめ、沖の背中に浮いた汗を手で拭った。
 少し抱きあってから沖が律の隣に寝転がり、いつものように腕枕をしてくれる。それから律の汗で湿った髪を、こめかみから撫で上げてくれた。
「スゴイぞ、律。後ろだけでイケたな」
 どうしていつも恥ずかしいことを言うのだ、この男は。でもその満ち足りた顔を見ると、抗議する気になれなかった。
「まだ時間もあるし、あと二回くらいはするだろう?」
 律を抱き寄せ楽しげにチュッチュと顔や首筋にキスを落としてくる男は、文字通り精力絶倫だ。あと二回も付き合えるのか、律は不安になってくる。
 確かに沖に抱いて欲しいと言ったけれど、世の中の恋人たちがどんなペースで身体を重ねているものなのか、律にはわからない。
 恥ずかしいけれど、一度雪下に相談したほうがいいような気がする。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。
「律……お前さ、公認会計士にならないか」
「え……」
 また突然の提案だ。初めて『Holly Olive』を訪問したときもそうだったけれど、沖の頭の中では色々な物事が同時進行で考えられていて、沖がいいと思ったタイミングでそれを出してくる。
「水原に聞いたけど、日商の一級持ってるんだろう」
「そ……ですけど、でも……それよりかなり難しいですよ。公認会計士試験って医師国家試験とか司法試験並みの難易度だし、おれ、大学に進学もしませんでしたし……」
「律ならできるさ。それで将来的には俺や水原や松川の仕事を手伝ってくれるといい。財務諸表の監査とか、税理士登録もして……税務代理や書類の作成なんかも頼みたいと思ってる」
 律のことを買い被りすぎだとは思うけれど、沖に期待されるのも悪くはない。
「でも、独学ではちょっと……」
「そのための専門学校があるだろう。金のことなら気にするな。俺がちゃんとしてやるし、なんなら水原や松川も律のためなら出資するって言ってたぞ」
「そんなわけには……」
 ようやく汗が引いていき、少し肌寒くなってくる。沖もそうだったのか、羽布団を引き寄せて律にもかけてくれた。
「お前勉強好きそうだし、二年くらい全日の専門学校で頑張ってみるのもいいんじゃないか。専門より大学のほうがいいっていうなら大学受験でもいいぞ? まあ俺からの条件もあるけどな」
「条件……ですか」
「すぐにアパート引き払って、ここへ引っ越してこい。毎日一緒にここで寝起きして、飯食って勉強して、エロいことするぞ」
 沖にとっていちばん大事なのは、その中でどれなのだろうか。
 この数日で思ったのは、沖を相手にするためにはもう少し体力をつけたほうがいいということだ。実際沖はとてもタフネスなのだ。
「あ、もうひとつあった……俺からの条件」
「なんですか」
 腕枕と反対の手が律の顎をつかんで、真っ直ぐに視線をあわせてくる。
「俺以外の人間に指一本触れさせるな。男でも、女でもだ」
「……っ、おれだって……沖さんとじゃなきゃ、いやです」
 ふっと笑った沖の顔が目の前に迫ってきて、くちびるを奪われた。それは性感を煽るものではなく、律を落ち着かせる穏やかなものだった。
「腹は減ってないか」
「はい。それより、眠いかも」
「俺もだ。なんか色々終わったっていうか、ホッとしたっていうか……。実際はまだこれからなんだけどな。でも、ようやくいつもの生活に戻った感じがする」
 ぐっと手足を伸ばしながら言った沖の言葉に、律も同意する。沖との同居から始まって、とても目まぐるしい年末だった。
「ええと……現在午後七時だから、二時間くらい寝るか。起きたら二回目のセックスして、シャワーに行く。シャワーの最中に三回目をしたら、除夜の鐘を聞きながら年越し蕎麦を食おう。食ったら、年越しでセックスだ。あ、姫始めは別にするからな」
「……信じられない……」
 さっきより言ったときよりも、回数が増えている。
 語られた筋書きに唖然として沖の顔を見つめていると、抱き枕のように両方の腕で沖に抱き込まれた。背中や腕を上下する沖の手と体温が気持ちよくて、沖の脚に自分の脚を絡めながら厚い胸筋に頬を寄せて目を閉じた。
 規則正しい沖の鼓動を聞くと、自然と眠りがやってくる。
 律の闇の記憶を、沖はその光で違うものに塗り替えてしまった。
 いとも簡単に、幸せな行為で。
 闇と光。強烈な胸の痛みはどちらも伴った。でも方向性はまるで正反対だ。
 沖が与えてくれたのは、甘い疼きだった。
 もう闇を怖れなくてもいいのだろう。沖と一緒なら、たぶん大丈夫だ。
 律が眠りに落ちる刹那、「愛している」という沖の声が耳に落ちてきた。


 END
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