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07.一日目:井戸神さん

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「さて。井戸神さんのお膳を下げに行かなきゃね」

 私は台所を通り勝手口を抜け、その先にある井戸へと向かった。
 
 井戸といっても今は手で汲み上げるものではなく、ポンプが取り付けられている。子どもの頃の夏休みには、桶に水をためてキュウリやトマトを冷やして食べていた。水量も豊富で美味しい水なので、今でもこの家で使う水は全てこの井戸の水らしい。

 パン、パン。

 私は井戸の前にしゃがみ柏手を打つ。

「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。今日から一ヶ月、屋敷にお邪魔します。伊庭いば美詞です」

 一応、声に出して挨拶をしてみた。井戸の神様には会った事がないはずだけど、もしかしたら銀の様な人の姿で出てくるかも……? と思ってだ。

「……付喪神さんたちタイプかな?」

 特にかが出てくる気配はなかったので、私はお膳を手にし井戸に背を向けた。――その時。

「そなたが今回の世話人か」

 涼やかな、鈴を転がすような声というのはこういう声かと思う、女性の声だった。
 慌てて振り向くと、長い髪をした……天女っぽい感じの服を身に着けた美女が、井戸に腰掛けていた。髪の毛の先端は半透明で全体的に水色っぽい。
 ああ、この方の本性は透き通った水なんだ。その水色も、空の青さが映っているものかもしれない。

「馳走になった。じゃがこの膳……ぬしが作ったものではないな?」
「あっ、はい。朝まで気を失ってたみたいで……台所の皆さんが作ってくれました」

「おや、あ奴らに驚かなかったのかえ?」
「いえ……驚きましたが、まぁ、そんなこともあるかなと」

 考えても仕方が無いと思っただけだけど。

「はっはっはっ! 善き世話人じゃ。して、祝言はいつじゃ?」
「……あの、しゅうげん? とは何のことでしょうか?」

「ぬ。あやつはまた我儘を言うておるのか? まったくいつまで経っても子供よの」

 はぁ。と、井戸神さんは目を伏せ溜息を零す。
 井戸神さんはもしかして、子供の頃――子狐の頃の銀を知っているんだろうか? もしかして、このお屋敷で一番古い方だったり……?

「良いか、世話人。七晩が過ぎる前に嫁入りの体を整えよ」
「……えっ?」

 嫁? 今、嫁入りって言った? ……あっ! 世話人って仲人的な!? 嘘でしょ!?

「ま、待ってください! あやかしのお嫁さんってどこ……」
「おお、話はしたのじゃな。しかし銀はあやかしというよりも神に近い。屋敷神じゃからの。だからこそ、この屋敷を守る誓いを果たすには対価が必要なんじゃ。……だというに、あやつは人の子は娶れないと申して毎回かわし……とうとうあの様よ」

 そうか。銀は妖狐だけど『屋敷神』ってやつなのか。ここを守護しているのだから、確かにお屋敷の神様か。
 けど、それよりも気になることを言ったよね? 今。

「……あのザマとは?」

 銀に何か起こってるのだろうか? それはひと月の食事だけでは改善しないことなのだろうか。

「――この家は終わるのであろう?」

 その唇から零された言葉は予想外で、そしてヒヤリと冷たかった。私を見据える瞳も同様で、足下を水に浸けてる様に冷えが昇ってくる。

「……ご存知なんですね」
「妾はこの家が建つよりも、より前からここにおる。水が流れる場所で語られたことくらい探れるわ」

 何て言ったら良いのだろう。この家のことは私に決定権はない。意見だって……誰に言えば良いのか分からない立場だ。

「仕舞いが来ても不思議はない。銀の護りが弱まっておるからな? まったく……あの火事以来の危機よの」
「火事……。あの、蔵が燃えたっていう……?」
「そうじゃ。あの時はこの家に嫁がおらなんだ。十年に一度の祀りが無く、力を補充できんかった。妾も同様……火気を防ぎきれんかった」

 井戸神さんは眉根を寄せてそう吐き捨てる。きっと不本意な出来事だったのだろう。
 銀の様な屋敷神がいて、水を司る井戸神さんもいて、それなのに家の財産を燃やしてしまったのだ。

「でも、お屋敷はこうして残ってますし、蔵だって、もし今もあったらあっちの池はないですし、悪い事ばかりでは……」

 ああ、井戸神さんが目を丸くしている。もしかして的外れなことを言ってしまっただろうか。失礼になってなければ良いけど……。

「フフッ。そなたは池でよく水遊びをしていたか」
「えっ。あ、水ですもんね。ご存じでしたよね……」

「――美詞。離れの物置部屋を見よ。嫁入りの記録が残っているであろう」
「はい。探してみます!」

 答えると、井戸神さんはスルリと水に溶ける様に姿を消した。

「わ」

 さすがにビックリした。井戸神さんは銀より人間っぽくないし、何だか神々しさがあって緊張した。

「……でも、子供の頃の私を知ってくれてた」

 銀の様に見守ってくれていたのだろうか? 池や川で、私たち子供が溺れない様、耳を澄ませてくれてたのかもしれない。
 
「優しい神様たちなんだなぁ」

 呟くと、ずっと腕の中で大人しくしていたお膳さんが、私の手をそうっと撫でた。
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